日記録0杯, 日常

2016年3月31日(木) 緑茶カウント:0杯

アパートの管理会社から電話を受けたとき、己は何かしらやらかしてしまっただろうかとヒヤヒヤし、この半年間観続けていた深夜アニメの音量と自身の笑い声を振り返ってみたが、心配は杞憂に終わった。

しかし。騒音による苦情を受けて退去を命じられるわけではなかったものの、どのみちこのアパートを出なければならなくなってしまい、どうしたものかなぁ、と考えている。建て替えるそうなのだ、このアパートを。まぁ無理もない。立地と広さと設備に比してみると随分安い家賃なのである。つまり古い。よって建て替えの必要が生じたということだ。とても理解できる話である。理解できるが困るのである。だって安いから。とても。

とはいえ、建て替えが発生しなければこのままずるずる何年も何年も同じ部屋に住み続ける未来が見えており、ただでさえ物の多さに辟易しつつも物を減らせないというどうしようもない毎日を送っていることを考えると、これは良い機会かもしれない。こんなことがなければなかなか重い腰は上がらないのだ。だって物が多いから。物が多いから難儀なのだ、引越しは。

二週間後、管理会社と打ち合わせをすることになった。どんな話が飛びやすやら。ちょっとドキドキしている。今。



日記録2杯, おそ松さん, 日常

2016年3月30日(水) 緑茶カウント:2杯

ここ半年分の睡眠不足がドッと押し寄せてきていて眠い。ついにおそ松さんが最終回を迎えた。面白かったなぁ。こんなに毎週毎週、わくわくドキドキしながらアニメを観たのは何年ぶりだろうか。「ジョジョ」「月刊少女野崎くん」も楽しく観ていたが、どちらも先の展開を知っていたため、あの話がどのようにアニメで描かれるだろう、あの話をやってくれるだろうか、といった原作ありきの楽しみ方をしていた。対して「おそ松さん」は、次週何が起こるか全くわからない。高校生の頃、少年ジャンプをドキドキそわそわしながら読んでいたときの感覚が思い起こされ、非常に楽しかった。

自身の常識が揺さぶられる感覚も気持ち良かった。自分は下ネタが苦手である。未だに口に出来ない単語も多く、会話において難儀することもある。そんな中で毎週毎週連発されるあらゆる言葉達に、毎度毎度側頭部をハンマーでガーンと殴られて、揺さぶられる感覚を味わっていた。ディフォルメされた可愛らしい絵柄で誤魔化されているが、なかなかどうしてえぐいし下品だ。しかしそれらがあまりにもカジュアルに連発されるので、「えーと…下ネタだと思ってたけど、実はこの言葉は下ネタではない、のか……?」「性欲とはこんなにあからさまにするもの……だっけ? あれ?」とだんだんだんだんわからなくなってくるのである。自身の性質に窮屈さを感じていたこともあり、この混乱はなかなか心地良いものだった。

「おそ松さん」はどんなアニメかと問われたら、自分は「異常性をマイルドに隠しながら、異常者の日常を描いたアニメ」と答えるだろう。六つ子全員がニートで、それが許される空間。小学生ならともかく、成長期を迎える頃には誰かしら布団を分けようと言い出すだろうに、大人になっても一枚の布団で寝る彼らは、ことあるごとにあったはずの「変化の節目」を迎えることなく通り過ぎて、小学生のまま大人になってしまっている。

一日中遊んでいても怒られなくて、兄弟全員が一緒の布団で寝て、おやつを巡って大騒ぎするのは小学生にとってはごく普通の日常と言っていい。それを大人になってもごく当たり前のように続け、さらに小学生そのままではなく、飲酒やギャンブル、アダルトビデオといった大人ならではの「遊び」はちゃっかり味わっているアンバランスさ。彼らはあくまでも大人として描写されているのに、当たり前のように子供のようでいる。そのあたりに、己は怖さと薄ら寒さを感じていたなぁと改めて思う。

終わってしまったのは寂しいが、ぶっとんだ最終回のおかげで今はとても満ち足りている。実に楽しい半年間だった。



日記録0杯, 日常

2016年3月25日(金) 緑茶カウント:0杯

太宰治の「晩年」が読みたくなり、kindleで探したところ面白いものを見つけた。国会図書館に保存されている古書を画像として取り込みPDF化したもので、黄ばんだ紙の上に印字された文字が乗り、ところどころに茶色のしみが出来ている。解体することなく本をそのままスキャンしたのか、のどに近い一行は斜めにゆがみ、ページによっては非常に読みづらい。当時はkindleを所有していなかったが、大学の頃図書館で複写した本を家に持ち帰り、レポート用紙に肘をつきながら読んだ日を思い出す。あれもうまくコピーが出来ず、写したページが紙と平行にならないことが常であった。

読みづらいが味わい深いが読みづらい。電子書籍として最適化されたものでないだけに、それに慣れた身には不便を感じるところもある。本棚を探せば読みやすい文庫本もいつかは発掘できようが、どうしようかなぁ。

最後まで読み進めるか否か迷いつつ、褪せたページをめくるのである。



未分類0杯, 100曲ライブ, 水戸華之介, 非日常

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ライバルを増やしたくないので黙っておきたいのだが、やはり言わずにはいられない。水戸さんの百曲ライブにおいて、一番底抜けに面白く楽しいのは吉田一休回である。今夜もさいっこうに楽しかった!

しかし自分が話すまでもない。水戸さん曰く、この回のライブのチケットは売り切れるのが早かったそうだ。吉田さんは水戸さんが言うところの「チャレンジ枠」で、MCも楽屋のノリになってしまいがちとのこと。そのため、これで本当にお客さんは面白いのか、面白いのは自分だけじゃないのかと水戸さんは何度も口にする。いやー水戸さん、それが最高に面白いのですよ!

吉田一休回での水戸さんは、より素に近い姿を見せてくれるように思う。自分を慕ってくれていて、付き合いの長い後輩を相手にニコニコと楽しそうに話し、演奏がストップすれば笑いながらダメ出しをする。とにかく後輩が可愛くて仕方がなく、吉田さんも水戸さんが大好きな様子が伝わってきて実に微笑ましい。そしてシンプルかつ盛り上がる楽曲の数々はカズーと手拍子の大盤振る舞い。シリアスな曲や悲しい曲ももちろん好きなのだが、最初から最後までほぼお祭り騒ぎ、というのも快感なのだ。

トークはどこまでも転がりに転がり、ライブは約三時間と言う長丁場に至ったが、長さを感じさせない楽しさの連鎖がたまらない。アンコールの中、残り一曲というところで喋りたくなった水戸さん。こんなに喋ってて良いのかなと言いつつひたすら面白トークを聞かせてくれて、楽しそうに話す水戸さんを笑い転げながら観るのは実に嬉しく楽しかった。

百曲ライブでお馴染みの舞台、ライブハウス「七面鳥」は改装をしていて、ステージと客席の位置が反転していた。以前は客席の間に出来た道を通って水戸さんはステージに上がっていたが、楽屋のすぐ横がステージに変わったため、客席にあった通り道は無くなっていた。これはちょっと寂しかった。前は盛り上がった水戸さんが客席を練り歩いてくれたりしたが、もう通れなくなってしまっている。うーん、残念。前の方が距離が近く感じて好きだったなぁ。

ハイネケンを呑みつつ、流れる音楽を聴きながらゆったりと開場を待つ。何もせず、ぼーっとステージの奥の壁を眺めるひとときはわりと好きだ。集団の中で一人を楽しむ面白さ。雑踏を歩く気分に似ている。

しかし照明が落とされるや否や、今まで他人だった周囲の人々と息を一つにするのだ。ステージに水戸さんが現れた瞬間、バラバラだった他人達がオーディエンスという群れに変化し、同じように声を上げ、拳を振って手拍子を叩く。一曲目は「唇にメロディ、心に牙を」。やったー! 大好きな曲だ!

と、大喜びした直後。死ぬほど大好きな「家のない子に」が二曲目で演奏されて、心の準備が出来ていなかった己は喜びのあまり「ギャーーー!!!!」と叫びそうになった。叫ばなくて良かった。

吉田一休回ということで、屑の曲が多めである。嬉しい。屑好きなんだよなぁ。アルバム一枚だけなんて実にもったいない。屑のライブも行ってみたかったなぁ。でもこうして聴けるから幸せだー。

「唇にメロディ、心に牙を」「家のない子に」「奈々」「ナイタラダメヨ」「カナリア」「マグマの人よ」「しあわせになれ」を聴けて嬉しかったなぁ。レア曲は「バイキンロック」。演奏後、水戸さんが「当時、何かの思いを込めて歌詞を書いたはずなのに、何を言いたいのかわからない」と言っていて、自分もあの歌詞をどのように受け取れば良いのかわからなかったのでちょっと安心した。

「バイキンロック」では、ミスにより演奏をやり直す場面も。吉田さんがギターのコードを踏んで座ってしまったことで、ギターを動かしたときに不具合が生じたようである。水戸さんはそのミスの原因を指摘しながら、「しょうがない奴だな~」とでも言いたげに楽しそうに笑っていた。微笑ましい。

今回のライブのあらゆるところで活躍したカズーは、水戸さんが今まで使っていたものと違うものだそうだ。曰く、どこの楽器店でも見かけなくなり、調べたところ輸入代理店がなくなったとかで、日本での購入が出来なくなってしまったそうだ。新しいカズーは片面が赤い色をしていて、水戸さんの手の中で存在感を主張していた。

水戸さんは茶色の薄手のカーディガンのような上着を着ていて、下は文様入りの黒Tシャツ。上着を脱ぐと半袖で、下に二の腕まで袖がある衣類を重ね着していたように見えたが、腕を挙げたときにそれがリストバンドの二の腕版のようなものであることがわかった。あれは何と言うのだろう。

吉田さんはオールバックに黒い衣装。初めて見たときが全身真っ赤なジャージ姿で、未だにその印象が強いため「今日は地味だなー」と思ってしまった。

吉田さんは「~ので」という水戸さんの言い回しが好きだと言っていて、ライブの後半で「~から」と水戸さんが言ったとき、「~ので、と言ってくださいよ!」と注文をつけていた。あまりそこに注目したことがないので、今度から「~ので」に注意を払ってみよう。曲については、「A・E・D・D」の歌詞について言及し、水戸さんは「これは九十年代に作った曲だけど、この歌詞に書かれているのはもうちょっと古い時代」と話し、時代性を切り取ることについて語っていた。

印象的だったのは映画についてのMC。以前は家で映画を観ていたが、家だと集中できないため映画館に通うようになった水戸さん。しかし水戸さんがよく利用していた映画館が次々と閉館し、映画を見るためにはちょっと足を伸ばさなくてはならなくなったそうで不便を強いられているそうだ。そんな不便もありつつも、事前知識なしで小劇場に入る水戸さん。するとマッドサイエンティストにより人間がアザラシに改造される奇妙な外国映画や、深刻な家族の物語を描いた重い作品かと思いきやひょっとしてこれはコメディなのか……? と劇場の誰もが困惑する作品などを観たという。それらを面白おかしく語ってくれた。ちなみに前者は実際はアザラシではなくてセイウチで、タイトルは「Mr.タスク」と言うらしい。

あと、果物屋のカットフルーツが、コンビニやスーパーで売っているカットフルーツとは比べ物にならないくらい美味しく、週に二、三度買っていたら店員に覚えられてしまい、「常連さん」扱いをされるのが苦手なために悲しみを覚えたという話や、子供の頃の同級生の印象的なエピソードなどなどが語られた。

「マグマの人よ」は圧巻である。マイクを外し、水戸さんの地声と声に込められた説得力が空間と壁を響かせる。まるで茶の間で語れるようなゆるくも楽しいトークと、歌の迫力のギャップの大きさ。この切り替えの見事さがたまらない。

最後は二十面ダイスを振るい、今回演奏された二十曲の中から一曲を選ぶ。選ばれたのは「しおしおのぱあ」で、吉田さんの意気込みにより、本編とは違うキュートなアレンジで始まり、中盤で爆発し、後半は大盛り上がり、という構成で幕を閉じた。皆で声を出して歌い、手拍子をする。ライブの基本の楽しみをぎゅっと凝縮されたかのような、シンプルな満足感の心地良さを満喫した。

ちなみに今回は「チャレンジ枠」だが、次回は「人体実験枠」とのこと。ゲストは水戸華之介&3-10Chainのメンバーであり、筋肉少女帯の屋台骨・内田雄一郎である。いったい何を見せてくれるのか。二週間後が楽しみでならない。



日記録0杯, 日常,

2016年3月18日(金) 緑茶カウント:0杯

食べることは好きである。忙しい時分にはなかなか難しいが、時間のあるときは台所に立って、ちまちまとおかずを揃えて小鉢を並べ、ゆったりと食事を楽しむこともある。白米、汁物、お浸し、煮物、メインの何か、などなどを箸でつまんで満ち足りた気分に浸る幸せ。とはいえそんな食事を毎日用意するのは不可能である。しかしなるべく自炊をしたいという気持ちもあるので、休みの日におかずを作り置きするのが習慣化している。一時期はキヌアにはまっていた。あれはなかなか便利である。

このように、食事に対してそれなりのこだわりはあるのだが、あくまでもそれはそれなりに過ぎず、別の側面から見ると己は食事に対して無頓着な人間である。何故なら、ずっと同じものばかりを食べていても飽きないし、特に不満がないからである。

そして、新規開拓をしない。もっと言うと食べたことのないものをあまり食べたいと思わない。美味しいと知っているものだけをひたすら食べ続けたい。そんな平坦な人間である。

よって、一週間ずっと食べ慣れたものを食べ続け、次の一週間はまた別の食べ慣れたものを食べ続け、と実に変化のない食生活を送っている。一応、三日続けてほうれん草のお浸しを食べたら、四日目はオムレツにしたり、スープにしたりと変化をつけることもあるのだが、だいたい同じである。我ながら栄養が偏りそうだなぁと思っている。

こんな食事をしているのに、自炊をしているというただそれだけの理由で、料理が好きで食事が好きで食べることに興味津々と思い込んでいる人がいて、一年くらいかけてその誤解を解こうとしているのだが未だ解けず、横文字のアクセントの未知なる料理屋に誘われるたびに断る日々を送っている。今日食べたのは、米の上にキャベツの千切りを敷き詰めた豚の生姜焼き丼と、ほうれん草と卵のスープ。食べ慣れた味である。美味しかった。