未分類2杯, 町田康, 非日常

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ライブに通い出してから十年経つが、開演前から最前列の柵を握れたのは今日が初めてのことである。視界を遮るものが何もない爽快感と、この先の演奏への期待感。柵にわずかに体重をかけながら、ひたすら開始の時を待つ。

ステージとの距離を目で測る。こんなに近くで観られるんだ、と思うたびに嬉しかった。

オープニング・アクトは「砂漠、爆発」。ステージの後ろに張られた白い布をスクリーンの代用とし、サイケデリックな映像をバックにアジアンテイストの布を被ったボーカルが迫力ある声で歌い踊る。編成はボーカル・ドラム・ギターの三人で、MCによると楽曲にはインドのテイストが入っているらしい。ボーカルはキャップを前後ろに被り、サングラスをかけ、肩にはタトゥー、胸には大きくNIKEと書かれたシャツ、そしてだぼっとしたハーフパンツの下にはレギンスを穿いていて、タトゥーとサングラスを除けば朝や夕方に見かけるジョギングをしている人の格好のようだった。そして運動しやすい出で立ちを充分に生かした熱量溢れるパフォーマンス! バスドラの上に立って煽り出したときは度肝を抜かれつつ興奮してしまった。未だかつてあの上に乗りあがった人など見たことがなかったのだ。

一曲目が終わり、二曲目に入る前にマシントラブルが発生。ドラマーが奮闘する中、ボーカルとギターが話を繋ぐ。その中で観客に気を遣ったのか町田康を話題に出していたのが面白かった。

無事マシントラブルも解決し、大いに盛り上がって「砂漠、爆発」の演奏は終了。メンバーはステージから一旦去ったものの、スタッフと共にすぐにステージに現れて機材を片付け始めた。そうして片付いた後は次のバンドの機材の設置が始まる。バンドメンバーと思われる人物が続々とステージに登場し、あっちやらこっちやらで作業を進める。その様子をぼーっと眺めていたら、実にさらっと、ナチュラルに町田康も入ってきて、メンバーと一緒に演奏の準備を始めたから驚いた。おおー。すっごく普通に入ってきた!

準備が終わると町田康はステージ中央の椅子に腰掛け、まだ準備の終わらないバンドメンバーの様子を見ながらゆるーく存在していた。目と鼻の先、たった二メートルの距離に町田康。その町田康がまるで百貨店のエスカレーター脇に設置されたベンチに腰掛けるようなムードで無造作に存在している。ステージは下手からキーボード、ベース、ドラム、ギター、サックス。そして中央に椅子に座った町田康。

ついに準備は整い、演奏へ。町田康はジャケットを脱ぎ、Tシャツ姿になった。先ほど町田康が座っていた椅子の上には歌詞が書かれているであろう紙の束。演奏はムーディーなジャズを思わせるもので大人っぽい雰囲気である、ちなみに「思わせるもの」と書いたのは己がジャズをよく知らないためだ。

ライブはアップテンポの曲もありつつ、全体的にゆったりとした曲調のものが多かったが、では激しくないかと言えばそうでもない。随所で町田康独特の、あの震えるような叫び声が響き、ぎゅーっとつぶられた瞼には熱量が圧縮されている。去年ライブを観たときも、彼はぎゅーっと目をつぶりながら歌っていた。いったいいつから目をつぶるようになったのだろう。

多くが新曲だったのでどれが何の曲なのかほとんどわからなかったのだが、町田康の公式サイトに掲載されている歌詞を見る限り、今日演奏された新曲は「かくして私の国家は滅んだ」「白線の内側に下がってお祈りください」「試される愛」「いろちがい」「急に雨が降ってくる」である。「かくして私の国家は滅んだ」「白線の内側に下がってお祈りください」が特に格好良かったのを記憶している。ちなみに発売時期こそ明確ではないものの、CD制作への意欲はあるようだ。わあ! 楽しみである。

今回のライブはほとんどが新曲ということもあったのだが、曲の構成として「どこで終わるのか」がわかりづらいのが印象的だった。今の曲が終わって次の曲に移ったものかと思いきや、一曲の中で雰囲気がガラリと変わっただけで、元の調べに戻ったときにようやく「あ、これさっきの曲がまだ続いていたのか!」と気付くのである。その振り回される感じも愉快であった。

MCでは歌詞についての話も。現代のJポップやラップは、日本語で歌いながら、いかに日本語っぽく聴こえないようにするかに注力されているという話から始まり、詩歌について考えるとなると現代だけでは足りず、昭和歌謡やフォークについても考える必要が生じる、という話から浅川マキや憂歌団が好きでよく聴いていたこと、そして考えるだけではわからず、実践をしてみなくてはならない、という流れで憂歌団の「嫌んなった」がカバーされた。

このとき、ぼそぼそっとした喋りのままMCから曲への境目なしにそのまま演奏が開始され、気付いたら知らない世界に突っ込まれたかのような唐突を味わい、息を呑んだ。この曲中、「嫌んなった」のときだけ町田康はギターを抱えて演奏していた。途中、ストラップが外れてギターが落ちそうになり、演奏が中断されるアクシデントもあったがご愛嬌である。このふらっとした何気なさで空気を変える威力と茶目っ気のギャップがキュートだ。

こうして新曲をたくさん聴ける喜びに浸りつつも、知っている曲を演奏してもらうとやはりそれはそれで盛り上がる。特に「犬とチャーハンのすきま」収録の「俺はいい人」。「犬とチャーハンのすきま」が大好きなだけでにたまらなく嬉しかった。あともう一曲は「つるつるの壷」で、確かアンコールだったかな。この爆発力たるや凄まじかった。

「汝、我が民に非ズ」は長い助走期間を経てようやく本格的な活動を開始したとのことで、また二月にライブをやる予定らしい。嬉しいなぁ。あと願わくはCDも。今日聴いた曲を反芻できる日を心待ちにしながら日々を過ごそう。可能であれば、少しでも早く聴きたいものだ。もう一度。



日記録0杯, 日常

2016年10月8日(土) 緑茶カウント:0杯

そういえばサディズムの語源がマルキ・ド・サドであることは知っているが、彼の著作は読んだことが無かったなぁ、と軽い気持ちで「ソドム百二十日」について調べた結果、あらすじを読んだだけで気分が悪くなった。人間は身の程をわきまえるべきである。

そんなサドの著作とは全く関係のない話題を供しよう。己は十年ほどコンタクトレンズを愛用しており、少なくとも七年以上はハード・コンタクトレンズの装着をし続けていた。そうして最近になって、ハード・コンタクトレンズが自分の眼球には合わないことを思い知り、ソフト・コンタクトレンズに戻ったのである。

ソフト・コンタクトレンズを通した世界は快適であった。頻繁に使っていた目薬は出番を失い、左目を苛む異物感も消え失せた。長い息が漏れた。早く戻れば良かったと思った。

コンタクトレンズを初めて購入したとき、選んだのは初心者向けのソフト・コンタクトレンズであった。そして問題なくソフト・コンタクトレンズを愛用し続たものの、視力が下がり新しいコンタクトレンズが必要になったとき、より目に優しいハード・コンタクトレンズに乗り換えたのである。装着の初めこそ異物感を抱くものの、こちらの方が酸素の透過性が良く眼球にとってはよろしい、という話を聞いて。

ハード・コンタクトレンズは快適だった。ケアも楽であるし、異物感も無かった。だが視力の低下と共に何度か交換を余儀なくされ、ある日のこと。左目だけ見えづらい事実に気がついた。何故だろうと思いつつ眼科に赴くと、眼球のカーブが変わったためと告げられた。ハード・コンタクトレンズはソフト・コンタクトレンズとは違い柔軟性が無い。よって、眼球のカーブとレンズのカーブが合わないと見えづらくなるのである。そこで別のカーブのレンズを新調したのだが、まだ違和感は目に合った。とはいえこれも最初だけ、慣れれば消えると思っていたのである。

しかし。慣れなかったのだ。慣れないのに慣れないことに慣れてしまって、二年近く装着を続けてしまったのだ。その慣れないレンズを。

だが、ついに転機が訪れた。外出時用につけ外しが容易なワン・デイのソフトコンタクトレンズを購入したのである。これさえあれば外泊時にも洗浄液などを持ち運ぶ必要がない。楽だ楽だイエーイ、という気分で購入したのであるが。何年かぶりにソフト・コンタクトレンズを通して見た世界は鮮明そのもの。異物感も無く目薬もいらない。「快適」という二文字を表した世界がそこには広がっていたのであった。

暗い気持ちになった。まさか。ずっと長年愛用し続けていたが。そもそも自分はハード・コンタクトレンズに不向きな人間だったのか? と。

まさかと思いつつ、カーブさえ調整すれば問題ないかもしれない、とすがる思いでハード・コンタクトレンズを新調したが、検査の上では全く問題が無いにも関わらず視界は不明瞭で、どうしてもレンズの際が視界に入って見えづらい。眼科医曰く、たまにそういう人もいるとのことで、眼科医の勧めに従い己は新しいハード・コンタクトレンズを返品し、長く使えるソフト・コンタクトレンズを新調した。視界は快適であった。

あの長年の違和感は何だったのだろうと思いを馳せる。それでも己の眼球は健康であると言う。ただただ不可解だなぁ、と思った。



日記録2杯, 日常

2016年10月4日(火) 緑茶カウント:2杯

千葉県佐倉市の佐倉駅で己は呆然としていた。時刻は二十四時を過ぎ、当に終電は終わっている。改札近くの時刻表を見上げ続けても事実を突きつけられるばかり。己にできることといえば、犯した失態にただひたすら言葉を失うことだけであった。

鎌倉で友人と呑んでいた。楽しかった。まずはドイツ料理の店に入ってソーセージを食べてビールを呑み、二軒目ではイタリア料理の店に入って生ハムを食べてビールを呑んだ。己を含めてたった三人の集まりであるにも関わらず大いに盛り上がり、話しに話して気持ちよく別れた。そうして一人改札を抜け電車に乗り、三つか四つ駅を過ぎたら乗換えをする予定だったのに、わずか十分かそこらで寝入ってしまい、あぁ! ガタンゴトンガタンゴトンと意識のないまま神奈川、東京、千葉へと大移動をするはめになったのである。

解散したのは二十二時。本来であればどう見積もっても二十三時には家に着くはずだったのに、二十四時、全く縁もゆかりも無い千葉県佐倉市佐倉駅に佇まざるを得ないこの事実。今まで酔っ払って乗り過ごしたことなどほとんど無く、乗り過ごしても一駅程度だっただけに自分を信じられなかった。狐につままれた気分だった。だが、狐は何も悪くない。ただ単純に呑みすぎたのだ。

帰れるところまでタクシーで帰ろうか、どうしようかと思いつつ駅を抜け、真っ暗な道をてくてく歩き、見つけたビジネスホテルの門を叩いて宿を借りた。部屋の風呂に入って思ったことは、唯一の救いはこの駅が、己の好きな漫画のヒロインと同じ名前だってことだなぁ、ということで。飽きることなくしみじみと、ただただ呆然とし続けたのであった。



日記録3杯, 日常

2016年10月2日(日) 緑茶カウント:3杯

気持ちの良い午後の日差しを浴びながら、蝶々がひらひらと追いかけっこをしている。花壇の手入れが行き届いているお宅が続いているためか、小さく可憐なシジミチョウ、木の葉のようなタテハチョウがあっちでもこっちでもひらひらしていてとても楽しい。そんな愛らしい虫を眺めながらも己の頭の中は、のどかな景色とは正反対にNATOとKGBと冷戦と戦車と鬼でいっぱいだった。

NATOとKGBと冷戦と戦車と鬼。

「痴人の愛」を読み終わった。「痴人の愛」については、もうあんたが幸せならそれで良いんじゃないっすかね……と主人公に対して思った。諦めの境地である。そもそも関わりなぞ持ちように無いにも関わらず、無念さを抱かずにはいられなかった。そしてちょうど「痴人の愛」を読みながら、同時に読んでいた漫画が「エロイカより愛をこめて」。読んでいた、と言いつつ今も読み進めている最中であり、これがものすごく面白い。

「エロイカより愛をこめて」は東西冷戦時代を舞台に、美術品愛好家の大泥棒ドリアン・レッド・グローリア伯爵、通称「エロイカ」と、NATO軍情報部の陸軍少佐クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ、通称「鉄のクラウス」が、各々のターゲットや任務が絡み合いながら時に衝突、時に共闘、したかと思えば裏切ったり手を貸したり裏切ったりし、そこにKGBやCIAが絡んでくるスパイ漫画である。

これの文庫の七巻か八巻までは亡き母が所有していて、中学だか高校の頃に途中まで読んでいた。当時も面白いなーと思っていたのだが、ふとこの間実家に帰ったときに改めて手にとってみたらどうだろう。子供の頃よりも多少知識が増えたせいかより物語を読み解けるようになり、気付いたら電子書籍で毎日毎日二、三巻ずつ買っては読み進めているのである。今は二十五巻まで読んだところだ。

物語の展開もさることながら、己はこの世界観が好きである。男色家である伯爵はずっと少佐に片思いをしていて、ちょっかいを出しては怒鳴られている。そして作中で「異常性硬派」と揶揄され、男はもちろんグラマラスな女性エージェントにも全くなびかない少佐は伯爵の愛を拒絶し、ホモだなんだと言いたい放題罵倒する。しかし少佐は伯爵の下心が自分に向かうことさえなければそれなりに普通に接し、同じくゲイであるが伯爵一筋のボーナム君、つまり少佐に恋愛的な意味で興味のない存在についてはごく普通に接するのである。

それはKGBのエージェント「仔熊のミーシャ」も同じで、伯爵に対し退廃的だの変態だの言いたい放題言うのだが、それを理由に伯爵の存在を拒絶しない。他のあらゆる悪口の「ハゲ」や「チビ」程度の扱われ方であり、伯爵はゲイであることをオープンにしても自由に生きられる世界に住んでいるのである。この描写のバランスが心地良い。

好きな話は第一部ラストの「皇帝円舞曲」。あの少佐が伯爵に肩を貸すシーンはまさに一級品だった。他、細かいところでは伯爵が感謝の意を示すために「食前食後にコカ・コーラを飲むよ」と言うところや、普段敵対している伯爵と少佐とミーシャが協力し合ってコントを演じる箇所、酒場での殴り合い、揚げ芋などが好きである。

そんなわけで頭の中はエロイカでいっぱいなのだが、同時に今興味津々なのが「鬼」である。そして蝶々が舞う住宅地の先にある図書館こそが己の目指す目的地。予約した資料を受け取って気持ちよく帰路に着き、鬼の本を両手に抱えのどかに遊ぶ蝶を見る。せっかくなら冷戦関連の本も借りておけばよかったことに気付いたのは家が近付いた頃だった。



日記録3杯, 日常

2016年9月30日(金) 緑茶カウント:3杯

改めて考えてみるに、己が「痴人の愛」のヒロインを心から拒絶し、その品性下劣さに呆れ返り、嫌な気分になったのは、彼女を育てた主人公と歳が近いからかもしれない。

それはきっと、接し方さえ間違わなければ彼女はそんな浅はかかつ下劣な人間になぞならなかっただろうと落胆するから。そしてそれを育ててしまった人間に心から嫌気が差すから。うんざりすると同時にがっかりする。呆れ返ると同時にため息が出る。そのうえで、彼女が主人公にこそ発揮するであろう可愛げが、己には全く感じられないのである。

あぁ、嫌だなぁ。嫌だなぁと思いながら読んでいる。ろくなことにならないと思いながら読んでいる。唯一の救いは、彼女の世界と己が隔たれているということ、ただそれだけだ。だから読書は面白い。

あぁ、嫌だなぁ。