ソフト、ハード、ソフト
2016年10月8日(土) 緑茶カウント:0杯
そういえばサディズムの語源がマルキ・ド・サドであることは知っているが、彼の著作は読んだことが無かったなぁ、と軽い気持ちで「ソドム百二十日」について調べた結果、あらすじを読んだだけで気分が悪くなった。人間は身の程をわきまえるべきである。
そんなサドの著作とは全く関係のない話題を供しよう。己は十年ほどコンタクトレンズを愛用しており、少なくとも七年以上はハード・コンタクトレンズの装着をし続けていた。そうして最近になって、ハード・コンタクトレンズが自分の眼球には合わないことを思い知り、ソフト・コンタクトレンズに戻ったのである。
ソフト・コンタクトレンズを通した世界は快適であった。頻繁に使っていた目薬は出番を失い、左目を苛む異物感も消え失せた。長い息が漏れた。早く戻れば良かったと思った。
コンタクトレンズを初めて購入したとき、選んだのは初心者向けのソフト・コンタクトレンズであった。そして問題なくソフト・コンタクトレンズを愛用し続たものの、視力が下がり新しいコンタクトレンズが必要になったとき、より目に優しいハード・コンタクトレンズに乗り換えたのである。装着の初めこそ異物感を抱くものの、こちらの方が酸素の透過性が良く眼球にとってはよろしい、という話を聞いて。
ハード・コンタクトレンズは快適だった。ケアも楽であるし、異物感も無かった。だが視力の低下と共に何度か交換を余儀なくされ、ある日のこと。左目だけ見えづらい事実に気がついた。何故だろうと思いつつ眼科に赴くと、眼球のカーブが変わったためと告げられた。ハード・コンタクトレンズはソフト・コンタクトレンズとは違い柔軟性が無い。よって、眼球のカーブとレンズのカーブが合わないと見えづらくなるのである。そこで別のカーブのレンズを新調したのだが、まだ違和感は目に合った。とはいえこれも最初だけ、慣れれば消えると思っていたのである。
しかし。慣れなかったのだ。慣れないのに慣れないことに慣れてしまって、二年近く装着を続けてしまったのだ。その慣れないレンズを。
だが、ついに転機が訪れた。外出時用につけ外しが容易なワン・デイのソフトコンタクトレンズを購入したのである。これさえあれば外泊時にも洗浄液などを持ち運ぶ必要がない。楽だ楽だイエーイ、という気分で購入したのであるが。何年かぶりにソフト・コンタクトレンズを通して見た世界は鮮明そのもの。異物感も無く目薬もいらない。「快適」という二文字を表した世界がそこには広がっていたのであった。
暗い気持ちになった。まさか。ずっと長年愛用し続けていたが。そもそも自分はハード・コンタクトレンズに不向きな人間だったのか? と。
まさかと思いつつ、カーブさえ調整すれば問題ないかもしれない、とすがる思いでハード・コンタクトレンズを新調したが、検査の上では全く問題が無いにも関わらず視界は不明瞭で、どうしてもレンズの際が視界に入って見えづらい。眼科医曰く、たまにそういう人もいるとのことで、眼科医の勧めに従い己は新しいハード・コンタクトレンズを返品し、長く使えるソフト・コンタクトレンズを新調した。視界は快適であった。
あの長年の違和感は何だったのだろうと思いを馳せる。それでも己の眼球は健康であると言う。ただただ不可解だなぁ、と思った。