日記録2杯, 日常

2016年9月1日(木) 緑茶カウント:2杯

ごきげんよう! いかがお過ごしでしょうか。己は激烈に忙しく、何かやばいです。もう疲れすぎて吐き気がするレベルです。体温も何かいつもより高いです。そして今日に至ってはもう寝ない方がマシなんじゃないかという時刻に起きなくてはならないのでわりとやばいです。そんなわけでさっさと寝るに限るのですが、栄養と萌えを摂取しないと心が爆発するので睡眠時間を削って取得している現在です。

二日くらい何もせず家でじっとしていたい。これが今の願望である。
あぁ!



日記録2杯, 日常

2016年8月28日(日) 緑茶カウント:2杯

サイトの片隅にひっそり置いているカウンターが九万をカウントしていて嬉しい。と言うと、中には「カウンターとは何ぞや」と思う人もいるかもしれない。カウンターとはそのサイトに訪れた人の数をカウントする代物である。と、わざわざ説明すると、「何を言っているのだこいつは」と思う人もいるかもしれない。

いつだったか友人との会話の中で、カウンター、キリ番、掲示板、足跡帳、お絵かき掲示板などが過去の遺物になりかけているらしいという話をした。聞くに、今インターネットを利用している若い人はこれらの存在を知らないこともあるそうで、なるほどなぁ、確かに今はわざわざ個人サイトを作らなくても、SNSで交流や作品の発表が出来ると考えればさもありなんだ。

統計をとったことがなく、調べたこともないのであくまで体感としてであるが、十年前に比べ明らかに個人サイトは減ってきているように思う。で、あれば同時に個人サイトに付随する文化もだんだんと失われるのは必然だ。寂しいか否かと問えば若干寂しいが、それは止められるものでもなく、復興の努力をしようとも思わないが、ただ「なるほどなぁ」と思うのだ。

はるか昔に設置した、このサイトの片隅に置いているカウンターもいつか動かなくなる日が来るかもしれない。それまではひっそりと置いておこう。ひっそりと。



未分類4杯, 筋肉少女帯人間椅子, 非日常

オーケンが「ボヨヨォオオーーーーーーーーーーン!!!!」とシャウトしたとき、己は胸の前で両手の指を交互に組んで、祈るような気持ちでいた。

まさかこの「ボヨヨン」という叫びを聞いてここまで感動する日が来ようとは、誰が思っていただろう。
でも、とにかく嬉しかったんだ。

「私事ですが」と前置きしていた通り、オーケンは五月に声帯ポリープ除去手術を受けている。そしてリハビリを経て、ロックの舞台に戻ってきた。たかだか三ヶ月だが、ずっと待ち望んでいたその声。思い出すのは先日の弾き語りライブで若干、辛そうに歌っていたこと。きっと大丈夫、時間をかけてゆっくり治してもらえれば、と思いつつ。思いつつも。

良かったなぁ。

見所がたくさんある公演だった。人間椅子の重厚な演奏、迫力のグリグリメガネ、いつまでも新鮮な日本印度化計画、ブラックサ・サバスにKISSのカバーに、長谷川さんのドラムがおどろおどろしいりんごの泪に地獄のアロハ、豪華絢爛な釈迦。全力で楽しんでいる大人達の素敵な姿に憧れ、自らもそうありたいと思い、この暗闇の中にある確かな居場所に感謝しつつ、しかし、やはり一番、今回心に残ったのはオーケンの声だった。

座席の都合でステージは遠く、メンバーの表情は読み取れない。それでも必死で目で追って、音を聴き、こうしてまた筋肉少女帯を歌うオーケンを観られることを喜びつつ、まだどこかしんどそうな場面もあって、心が苦しくなりつつも、待とう、と思った。

筋肉少女帯のセットリストは「イワンのばか」「カーネーション・リインカネーション」「日本印度化計画」「週替わりの奇跡の神話」「ワインライダー・フォーエバー」「踊るダメ人間」「サンフランシスコ」。何度も何度も繰り返し聴いた定番曲の安定感が嬉しかった。そしてしっくりくるその歌声に、ただしみじみと幸福を感じたのだった。

ありがとうオーケン。お帰りなさいオーケン。あなたの声が聴けて、とにかく嬉しい。



日記録2杯, 大槻ケンヂ, 日常

2016年8月18日(木) 緑茶カウント:2杯

言ってしまえばたったの数日だ。たかが数日憂鬱が続いているにすぎない。しかし辛い。しんどい。空腹感はあるのに食欲がなく、眠りたいのに眠れない。

どうにかこの憂鬱を緩和すべく、黙々と本を読んだり、深呼吸をしたり、新明解と三省堂の辞書の引き比べをして語釈の違いを楽しんだり、筋肉少女帯人間椅子のライブブルーレイを観たり、好きな音楽を聴いたり、友人にしんどさをこぼしたり、シン・ゴジラのチケットの予約をして先の楽しみを作ったり、アニメを観たりしたが、束の間楽になるも、動けない。座り込んだまま何も出来ない。

そんなとき。オーケンのオフィシャルLINEスタンプが発売されたことを知った。LINEはやっていないが、見てみようと思ってページを検索した。そこには見慣れたオーケンネコがいた。オーケンがいつもサインに描き添える猫の絵。あぁ、これを一つ一つオーケンが手描きしたんだなぁ、と思うとほわりと癒され、ちょっと楽になったところに、ある一つのスタンプが目に入り、その言葉を飲み込んだ途端、比喩でなく、ドバッと目から涙が溢れた。

「おはよう 晴れでも雨でもいい日だよ!」

しばらくそのまま涙が止まらず流れ続け、あぁ、自分は結構参っていたんだなぁと知った。

こんなものは受け取り手の問題だと言ってしまえばそれまでだが。どうしてオーケンはいつも、己が欲しいときに欲しい言葉をくれるのだろう。まるで巌に染み入るようにここ数日抱えていたしんどさが溶かされていくのを感じた。覚えている。このスタンプはオーケンが声帯手術を受けた後、声を満足に出せない時期に描いたものだ。何とはなしに書いた言葉かもしれない。しかし、思ってしまうのだ。つい。どんな想いからこの言葉が出てきたのだろうと。そうしてもう一つ思い出すのだ。かつてエッセイでオーケンが、長年不定愁訴に苛まれていることを語り、「いつか霧が晴れたように、気分爽快な朝が来ればいいな」と呟いていたことを。

そのオーケンが「おはよう 晴れでも雨でもいい日だよ!」と。

泣き終えると気分はずっと楽になっていた。明日からはどうにかなるかもしれないと思えるほどに。

大丈夫。きっと、晴れでも雨でもいい日だよ!


大槻ケンヂ オフィシャルLINEスタンプ


日記録0杯, 日常

2016年8月16日(火) 緑茶カウント:0杯

祖父母の家に行って帰ってきた。疲れた。しんどかった。ここ十年ほど、祖父母の家に行くたびに己の精神は疲弊する。出来ることならば行きたくないのが本音である。しかし年老いた祖父母は会いたがっている。では、年に一度の盆くらい向かおうか、と思うもののしんどさはそのままあり続け、とにかく辛い。

そこで、己がどこにしんどさを感じるのか書き上げて行ってみようと思う。

(1)言葉がわからない
冗談でもなく、馬鹿にしているわけでもなく、事実として半分ほどわからないのである。大分に住む祖父母と、群馬で育った自分。方言の種類が違うのである。そうして祖父母の方言は、つらつらと語られると文節の区切りも判断がしづらく、何を話しているのかよくわからないのである。

さらに、今の話をしているのかと思いきや昔話だったり、地域独特の固有名詞を当たり前のようにスルッと出されると、話を聞き取るのも難しく、相槌を打つしか方法が無く、ろくな返答を得られない祖父母は穏やかな笑みを浮かべたままがっかりするのである。

(2)共通の話題が少ない
まず己はさほどテレビを観ない。映画も観ない。テレビは朝のニュースを見る程度、映画はこの間数年ぶりにシン・ゴジラを観たくらい。オリンピックにもワールドカップにも興味がなく、当世流行の俳優もろくに知らない。ドラマも観ない。

祖父母の家では自然居間に集うことが多く、そこで映っているチャンネルを観る。そうして「この俳優は誰か」「このドラマを観ているか」と質問を受けるのだが、「知らない」「観ていない」としか答えられず、何故観ないかと問われれば「時間が合わない」「興味がない」としか答える術がないのである。

また、音楽番組が流れたとき、「最近の若いもんはこういう音楽が好きなんじゃろう」と話を振られるものの、己の好きなミュージシャンは基本テレビに出演せず、その番組に出ているミュージシャンも己が知らない人ばかり。彼らに対して何かしらの講釈を行うこともできず、「自分は知らないので何とも言えないですが、流行っているみたいですね」としか言えないのである。

(3)食事の量が多い
つらい。とてもつらい。炎天下出かける先もなく、外に出ても店もない山奥である。やることと言えば専ら室内で本を読むことばかりでろくに体を動かさないのに、きちんきちんと三食たっぷり食事が出され、おやつまでついてくる。腹の中がこなれる前に次の食事が出てきて、量がまた多いのだ。己はもう三十で十代の頃の食欲はない。しかし伝えても実感として沸き起こらないらしいのである。

(4)テレビの人に対し根拠なく暴言が飛ぶ
テレビに向かって好き勝手喋っていると言えばそれまでだが、例えば美しい女優が映ったとき、「こういうのはどうせ料理なんかでけんぞ」と言う。もしかしたら、そう言うことでその場にいる「平凡な容貌の女性」を褒めているのかもしれない。その場にいる男性陣に「容貌だけを重視するべきではないぞ」と伝えているつもりなのかもしれない。ただテレビに映る美しい人はただ美しいだけであり、何の根拠もなく暴言を吐かれる言われなどないのである。

己の両親はそんないい加減なことを口にしなかったし、そんなことをしてはいけないと教えてくれていただけに、ただ悲しい。

(5)家族は一緒に住むのが良いと諭される
祖父母と食卓を囲みながら、「やはり大勢で食事をするのは美味しかろう?」と言われる。そうして、現在父・自分・妹がそれぞれ一人暮らしをしていることに言及されるのである。そうして己や妹の生き方にまで言及されるのである。知っているよ家族の団欒が楽しいってことは! ただそれぞれ事情もあるし、この食卓と比べたら一人でささっと食べる飯の方がずっと美味しいよ! 気楽だから! と思うも流石に口は閉ざしている。

(6)結婚とひ孫を望まれる
良いじゃないかあなた方は四人の孫に恵まれたのだから! それで充分じゃあないかと言いたいが欲望は尽きることがない。良い人はいないか、見合いをしないか、ひ孫を作ってくれ……勘弁してくれ!

ちなみに自分は跡取りもしくは跡継ぎという立場であり、よそ様に紹介されるときには必ずそれを言われている。オーケー、後は継ごう。ただし先は続かないけどな!

(7)男性らしさ女性らしさを望まれる
仕方ないのかもしれないが、その傾向が強い。やれ髪が長い短い、男んじょうはそんなリュックは持ち寄らん、などなど。放っておいてくれよ! このリュックはメンズだよ! 料理が出来るから何だよ! 炊事洗濯なんざ人間として生きるための必須スキルだよ!

(8)欲しいものがない
こんなことを言っちゃあいけないかもしれない。ただ事実として、八月の前半己は非常に忙しかった。疲れていた。くたくただった。そんな中で大分への移動。飛行機と高速バスと自動車を組み合わせてようやく着いたスーパーもない山奥で、己はただ寝たかった。
ただ祖父母は、ずっと家にいてもつまらなかろう、と言って、片道一時間以上かけて己を道の駅とスーパーに連れて行ってくれた。何でも欲しいもんを買うちゃるぞと言われた。しかしその時点で昼に食べた飯がまだこなれていなく、欲しいものもさほどなく、ただただ休息をとりたくて、長旅の末巨峰だけ買って我々は帰ったのだった。
申し訳ないと思ったが、欲しいものが見つからず、親切心はありがたかったが、その温度差がしんどかった。

(9)小遣いをくれる
以上のことにより、どちらかと言うとぐったりしていて、あまり好意的なやりとりが出来ていないにも関わらず、小遣いをくれるのである。いらないと言っても「小遣いをやるのが楽しみだから」と言われ、結局受け取るのである。十三万。小遣いという額だろうか、これが。
そうして自分は、ろくろく期待に応えられてもいないくせに、小遣いをもらってへらへら笑う卑怯者に成り下がるのである。


以上。これが分析の結果であり、帰宅した後己はしばらく鬱々としていた。幼少の頃は屈託なく話が出来たのにいつから出来なくなったのか。そうして、憂鬱を愛する音楽で癒したのであった。

しんどい。申し訳ないが。申し訳ないのだが。