日記録4杯, 日常

2017年8月6日(日) 緑茶カウント:4杯

シュルシュルと伸びる蔦はついに階段を上りきり、ぴょこりと天を指差すように玄関前で佇んでいた。毎日毎日、帰宅してカンカンカンとアパートの外階段を上るたび、少しずつ生長する黄緑色の蔓草を見た。鈍色の外階段にシュルシュルと絡まり、薄汚れたアパートの灰色の壁を這うように上る鮮やかな色が楽しくて、階段を上りきった様子を目にしたときはまるで幼子の成長を喜ぶかのように声をかけてやりたくなった。

頻繁にではないがたまに大家さんが草とりをしているらしく、朝にわっさわっさと繁茂していたドクダミが夜には綺麗サッパリなくなっていることがある。きちんと手が入れられているのはありがたい。だが、いつかこの愛らしく伸びる黄緑色の蔓草が忽然と姿を消し、曇った外階段と壁だけが残される日を思うと寂しい。故に、余計に愛着が出てくる。玄関の扉を開け、きつい日差しに眉をしかめつつ「やあ」と挨拶でもするように伸びる黄緑色を見ると「あぁ良かったまだいたね」と安心する。そして帰り道、朝よりもほんの少し伸びた黄緑色を見つけると嬉しくなる。「あぁ良かった、まだいたね」。

いっそこの小さなアパート全体が黄緑色で覆われてしまったらさぞや愉快だろう。蔦からまる鈍色の階段を踏みながら思い描くは鮮やかな色。ふっふっふっ、と笑みがこぼれた。



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■8月1日7時「お誕生日おめでとうございます!」の方へ

遅くなってすみません、ありがとうございます! 今年も無事歳を重ねることができました。



日記録4杯, 日常

2017年7月31日(月) 緑茶カウント:4杯

たまに、何でこの人はこんなに好いてくれているのだろうと不思議に思うことがある。例えばそれは毎年毎年、欠かさず誕生日プレゼントを贈ってくれる人、好きだよという言葉を目一杯伝えてくれる人に対して。そうして自分は、その人達に対していったい何ができているのだろうと思う。

それは自信の無さの表れかもしれない。その自覚はある。自分自身を過小評価するゆえに、自分ができることは誰しもできる些細なつまらないことと考え人を傷つける、そんな失敗もしたことがある。褒められても素直に受け取れず、自己卑下ばかりするのでせっかく褒めてくれた人をがっかりさせたり、面倒くさがらせてしまったこともある。今はそれを知ったため、褒められたことは素直に受け取って礼を言い、過剰に自己卑下しないように努めている。自信過剰になる必要はないが、自分自身しか持ち得ないもの、秀でているものもきっとあるのだ。

それでもたまに、その降りそそがられる愛は己にとって適切なものだろうか、と思うことがある。愛を全身に浴び、ありがたく思いつつ、何故この人はこんなにまでしてくれるのだろうと不思議に思う。そのぼんやりした表情をその人はどんな面持ちで眺めているだろう。

願うのは失望させたくないということ。報いたいということ。対等でありたいということ。しかしなかなか、まだ気持ちが追いつかない。



日記録2杯, 日常

2017年7月30日(日) 緑茶カウント:2杯

スポーツを観戦しながら熱心に応援している人は今までに何度も見たことがあるが、口汚く罵倒し続ける人の姿を見たのは初めてで、己は面食らったのだった。

例え自分のことではなかろうとも、罵声というものは聞いていると嫌な気分がするものだ。商店街の外れにある小さな電器店の前、道路に面して設置せられた大きなテレビの前でその男性は声を荒げていた。己はその向かいの店に用があって曇り空の下ポテポテ歩いていたところで、「ざまあみろ!!」「下手くそが!!」「死ね!!」と叫ぶ声を聞き、何か事件か何があったかとびっくりして声の主の方に目をやって、ただ野球観戦をしていただけ、ということを知ったのであった。

その声は電器店の向かいの店に入ってからもしばらく聞こえていて、それを聞きながら買い物をしつつ抱いていたのはじんわりとした違和感と嫌悪感。この人を見たのは初めてだが、よく来るのだろうか、店の人も困るだろうなぁと思いつつ気付いたのは、罵声を放つ男性の視点である。大概スポーツ観戦をするときは贔屓のチームに感情移入をして、彼らに対して声をかけるだろう。ところがその人は終始相手方のチームに対して声を挙げ、ひたすら罵倒し続けている。攻守交代も関係なく、視線の先はひたすら相手方のチームで、ただただ彼らのミスをあげつらい、罵倒し、呪っているのであった。

プツリと声が途絶えたのは店主がチャンネルを操作したからかもしれない。あの人は何がきっかけであのように試合を観るようになったのだろう。買い物袋を提げて外に出ればそこはいつもの商店街の風景で、電器店の前には誰もおらず、テレビは真っ黒にうつむいていた。



日記録0杯, 日常

2017年7月27日(木) 緑茶カウント:0杯

このところずっとゼロを記録している緑茶カウントを気にしている人もいるかもしれない。あんなにカウントが回転していた緑茶カウントがずっとゼロとはいかなることか。ついに緑茶に飽きたのか、と問う人もいれば、そもそも緑茶カウントとは何ぞやと思う人もいるだろう。

緑茶カウント。文字通り緑茶をカウントすることである。もっと丁寧に言うならば、朝起きてからこの日記を書き終わるまでの間に飲んだ緑茶の量を記録するものである。それと言うのも己は生粋の緑茶好きで、実家にいた頃なんぞ、己の他は誰も緑茶を飲まないのに一人で急須を傾けて出涸らしになっても飲み続けて、一人暮らしを始めてからはこれ幸いとばかりに急須を傾け続ける、そんな習性を持つのである。そしてある日、いったい己は一日に何杯の緑茶を飲んでいるのだろうと興味を持って日記に記録するようになった。それが緑茶カウントである。

ルールとして、ペットボトルの緑茶はカウントされない。茶葉から煮出したものか水出しの緑茶のみがカウント対象である。また、家で作ったものであっても麦茶やほうじ茶はカウントに含まれない。したがって仮に外でペットボトルの緑茶を二本飲み、家で麦茶を五杯飲んだ場合はゼロカウントである。そういったルールで緑茶カウントは運用されている。

そんな楽しい緑茶カウントのカウントがゼロのままなのは何故か。答えは簡単である。昼に麦茶を飲んで、夜に酒を呑んでいるからだ。あぁ、麦茶はともかく酒! 疲れたなぁ一杯飲みたいなぁしかし平日に呑む習慣はつけたくないな、よしオールフリーを呑んでみよ、はは、結構良いじゃんなかなか満足できるじゃん、つって毎日オールフリーを呑んでいたら、一本くらい良いんじゃない? ってオールフリーとビールを買うようになって、気付いたらビールばかり籠に入れるようになって、結果的にオールフリーによって飲酒習慣がつくというどうにもならないことになって、故に水分には事足りているのである。

このように書いている手元にもビール。暑い季節に美味しいビール。いやしかし。緑茶カウント、明日には復活させましょうぞ。