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■10月28日10時「楽しかったですね♪ あの抱腹絶倒の~」の方へ

ありがとうございます! 本当に笑いに笑いが続き休む間もない最高の二時間でしたね。レポートと言うほどのものでもありませんが、楽しんでいただけて嬉しいです!



未分類0杯, のほほん学校, 非日常

開演から二時間、ずっと大笑いをしていて、笑いすぎて涙ぐむことさえあり、体調を崩しているためにかけていたマスクに涙が垂れて、こんなにも笑い続けられる時間を持てること、そんな人生を歩めることを幸福に思った。

だってさぁ、通常の日常で、二時間ずっと笑い続けるなんてことはそうそう無いことだもの。ケラケラケラケラ、腹を抱えて屈託なく。だから自分は、たびたびそうして楽しんで笑えて喜べる時間を持てることをとても嬉しく思ったんだ。

毎年恒例高円寺フェスでののほほん学校。今回は筋少メンバー全員に、えんそくのぶうくんがゲストに揃い踏みという何とも豪華な内容だ。橘高さんに至っては四年連続出場で、おいちゃんも三回目の登場とのこと。開演前にはえんそくのMVとナゴム時代の筋少の映像、ボーン・イン・うぐいす谷のMVが巨大なスクリーンに映し出され、ふかふかの背もたれに身を委ねながらゆったりとその時が来ることを待っていた。

まずはオーケンが登場して拍手に迎えられながらオープニングトークを始める。曰く、ボーン・イン・うぐいす谷はいける気がする、もしこの曲でヒットしたらもう高円寺を出て代官山生まれ青山育ちを名乗る、ウィキペディアからも高円寺の名前を消す、もちろん来年はこのステージには立たないと言い出し、いきなりの高円寺ディスで笑いをとった。

そしてゲストに迎えられたのは橘高さんとおいちゃんの二名。ここで先日の筋少ライブで起こった機材トラブルの話題が出た。一曲目の「ハリウッドスター」で橘高さんの音が出ないというトラブルがあるも、オーケンは隣の内田さんのベースの音が大きいため気付かない、しかしオーディエンスがざわざわしていて、気付けば橘高さんが舞台袖に引っ込んでいる。続けるか否かと合図を送れば橘高さんはXファンに負けないほど勢いよくバツ印を両手で作り、最後まで終えた後、オーケンの機転により「筋少初のサウンドチェックでーす!」という言葉で笑いをとって、ステージからメンバーがいなくなり、機材の調整後再度一曲目から始められたのだった。

このとき、トラブルがあった一曲目を観ていたにも関わらず、仕切り直しされた「ハリウッドスター」を、さも初めて観るかのように、興奮した目つきで迎え入れたオーディエンスを嬉しく思ったと語られ、何やら照れ臭いような嬉しいような気持ちになった。何となく、信頼関係を明示された気持ちになって。

それからトークが弾み、一度オーケンがはけておいちゃんと橘高さんによる「愛は陽炎」の弾き語りが披露された。これがまた格好良かった……! 橘高さんの全力の歌唱が胸に響いてたまらなかった。

で、この後。オーケンが入場しゲストのぶうくんが呼び出されたとき、オーケンが楽屋のモニターで弾き語りをする二人を観て「全力ですごいなぁ」といったことを口にしたことを橘高さんとおいちゃんにぷりぷりしながら告げ口し、「ステージに立つ人はいつだって全身全霊でしょう!!」とオーケンを詰め、オーケンがたじたじになる場面があって面白かった。

それから高円寺出身のぶうくんとオーケンによるめくるめく楽しいトークが繰り広げられ、オーケンを尊敬しつつ、適度にいじり、その塩梅が実に絶妙なぶうくんの話術に舌を巻き、それはもうげらげら笑った。ぶうくん、今日この日に来てくれてありがとう。ヤバイ客の話は本当にやばくて面白かった。

そして最後のゲストの内田さんが招かれ、オーケン、ぶうくん、内田さんの三人でトーク。このとき、内田さんの発言でオーケンが小説を読めなくなったエピソードが語られた。曰く、「他人の妄想を読んで何が面白いのか」といったことを内田さんに言われ、ガーンとショックを受けたそうである。ただ、内田さんが言うには小説よりも実際に起こったドキュメンタリーに魅力を感じるとのことなので、悪意や他意は無かったと思われる。しかし、オーケンはそのように受け取り、数年小説から遠ざかっていたという。

だがある日、椎名誠の「アド・バード」を手に取った。オーケンはずっと椎名誠のエッセイを大量に読んできていたが、SFには触れていなかったという。ところが「アド・バード」を読んだとき、そこに描かれるめくるめく妄想の世界が、これまでに読んだエッセイから想起されるあらゆる体験が下敷きになっていることが、彼の著作を読み続けてきたオーケンにはわかったそうだ。そして、「たかが他人の妄想」も、膨大な体験があってこそ描かれるものであり、その妄想即ち小説を通して世界にアクセスできると気付いて、また小説を読めるようになったと熱く語っていた。

小説が読めなくなった話を聞いたときはドキドキしたものの、ここに至る話が聴けて良かったなぁと感じた。同時に、些細とも思われる言葉に影響を受け、時間をかけて咀嚼し、自分の中に一つの答えを出せる関係性を羨ましく思った。

オーケンはオケミスに内田さんが来てくれたことを嬉し気に話しつつも、目的がオケミスだけではなく、ゲームのついでであることを追究し、「そうじゃない」もしくは「そうである」答えを引き出そうとする様子を見て、オーケンは本当に内田さんが大好きなんだなと思った。本当に仲直りしてくれて良かったよ……。

そうしてオーケンと内田さんとぶうくんの三人で歌われたのは「最期の遠足」ならぬ「2人と5人」。何と内田さんが空手バカボンバージョンの「2人と5人」で打ち込みを作ったそうで、「今思うとひどい歌詞なんだけど」と言いつつオーケンとぶうくんはしっかり歌ってくれた。声もまさの「2人と5人」の高い声! まさかこれを聴けると思っていなかったからとんだサプライズだ。嬉しかったなぁ。

ちなみにこの曲を内田さんは新幹線で作ったそうで、隣に座るオーケンは「もっと早く作ればいいのに」と思いながら見ていたそうだ。しかし内田さんはちょうど仕事が詰まっていた時期だったそうでこの時にしか作業時間がとれなかったそうである。

最後はおいちゃんと橘高さんもステージに揃い、五人でカラオケを歌って楽しく終わった。夢のような二時間だった。願わくは、うぐいす谷がヒットしても来年もこの高円寺で楽しい時を過ごせますように。あぁ、こんなに笑えるなんて最高だ。



日記録0杯, 日常

2019年10月22日(火) 緑茶カウント:0杯

昼に起き、ベッドでだらだらしたままテレビをつけ、即位礼正殿の儀の中継を見てそそくさと居住まいを正しながら、オリンピックやワールドカップにワクワクする人の心をほんの少し知れたような気がした。そのくらい自分は、この光景を見られることを喜ばしいと感じていたのだ。

そして同時に、国賓や天皇陛下、皇后様の衣装を見て思う。この中に、性別に違和感のある人がいたら大変だろうなぁと。伝統的な衣装や礼装はしっかり性別で分けられていることが多い。一般でもフォーマルなレストランではドレスコードがあり、結婚式や葬式も同様だ。これらを変えることは容易なことではない。

その中で、不便を感じることがありつつもまだ気楽な衣服や髪型で過ごせる立場と時代を喜びつつ、あらゆる人の選択肢が増え、心安らかに過ごせたら良いなぁと感じる。どうかこの令和の時代、あらゆる人に選択肢が広がり、皆が好きな格好でストレスなく過ごせますように。



日記録2杯, 日常

2019年10月21日(月) 緑茶カウント:2杯

言葉に関してのみ当時の自分は若干大人びていて、故に他の要素もありつつも、クラスメイトと会話をするのが困難になった時期があった。
そう、あれは小学校の高学年から中学にかけて。自分では通常の言葉を使っているつもりであるにも関わらず、クラスメイトからは「ウヲの言葉は難しくてわからない」「わざと難しい言葉を使って馬鹿にしないでほしい」と言われた。そして自分は苦情を申し立てるクラスメイトに対し、この程度の言葉もわからないのかと見下すことでバランスをとろうとした、のかなぁ。

いや、単に純粋に馬鹿にしていたのだろう。
だってそれは、己にとっては難しくもないごく自然な言葉だったから。

しかし、同時に自分はわかりやすい言葉を使う人を尊敬していた。専門用語を使わずに若い人に世界を語れる人に憧れた。その言葉を手に入れたいと思った。果たして今の自分は少しでも手に入れられているだろうか。わからない。わからないから説明しようと思う。どうせ、自分の言葉は誰にも通じないので。

という、誰にも自分の言葉は通じないと思う気持ちが未だに根幹にあるのは困ったものだ。

だから十を説明するために、千の言葉を使う。過剰に説明してしまう。全てを言って、ようやく一部を受け取ってもらえる、その程度の影響力しかないと信じているから言ってしまう。
ところがどうしたことだろう。そうして努力をしたときに限って、己は「過剰」と言う評価を受けるのだ。

難しいなぁ。言うバランス、言わないバランス。己はそろそろ、少しは自分の言葉に自信を持つべきなのだろう。十の言葉が十通じると思うべきなのだろう。十のために千を語ることは慎むべきなのだろう。だが、出来ずにいるんだなぁ。

影響力がないと信じることは、他者への槍を無意識に振りかざすことにも通ずる。どうせ自分の言葉なんて、と思って軽く放った自己肯定感の低い一言が誰かの心臓を突き破ることもありうる。故に自信と責任と言葉の重みを痛感せねばならないと言うのに。

ところがどっこい。今も、根幹では十を伝えるために千を語らなければならないと感じている。いつか、そうだなぁ。どうにかせめて、百に抑えたいと思う。



日記録2杯, 日常

2019年10月15日(火) 緑茶カウント:2杯

そろそろ買い換えようかなぁ、と思っていたんだよ。思い返せばそう、四、五年前から。そう、毎年毎年冬を迎えるたび、さらに言えば冬以外の季節にもこたつを買い換えようと思いつつ、ついぞ実行せずに今日まで過ごしてきたのは、不便はあるものの何となく使えていたからである。

不便は主に三つあった。一つ、狭い。このこたつは秋冬はこたつとして、春夏は布団を取り払いローテーブルとして使っていて、一年三百六十五日ここにノートパソコンを置き、飯を食い、文を書き、絵を描き、本を読み、あらゆることに使用してきた。しかしあらゆることに使うには若干狭く、たまに客人が来た折には皿を乗せきれないこともあり、不便を感じていた。

二つ目、天板がガタガタ。これは己が悪い。確実に悪い。一人暮らしを始めて二年目の秋にこのこたつを買った記憶があるが、大事にしようと思っていたのにかなり雑に扱った。具体的に言えば熱したやかんをそのまま天板に置いた。鍋敷きも敷かずに置いた。何故そんなことをしたのかと言えば熱したやかんを直置きしたら天板がダメージを受けることを知らず、想像もせず、何も考えずにいたからだ。結果、天板はめくれ上がりヒビだらけになってガッタガタになった。そのくせ自分が諸悪の根源のくせに不便だのと罵って申し訳ないと思う。ごめん天板。

三つ目、これが一番重要である。そしてこれは己のせいではない。何かと言うと、温度調整がしづらい。その時のこたつの気分で「最強」か「中」に切り替わるため、気付くとこたつの中が熱くなることがたびたびあり、これは本当に不便だった。だが、熱くなったら電源を切れば良いので持ちこたえてしまった。

そうして不便だ不便だと思いつつこたつを酷使し、十何年目の秋の今日、こたつはついに音を上げた。寒さに震え五月に仕舞ったばかりのこたつ布団と電源を取り出し、よいしょっとセッティングしてスイッチを入れれば、何やら焦げ臭い。当初、布団に何か嫌な臭いでも染みついているのかと思ったが、布団からは洗剤の残り香しかしない。めくれば出汁の焦げるような嫌な臭いは内側からして、明らかに熱源より発せられていることがわかったのである。

そして己は今、電源を切ったこたつにくるまりながら無印良品のオンラインショップを眺めている。寂しいような、良い区切りを迎えたような、何やら不思議な気分である。うん、若干寂しさが勝つかな。

ありがとうこたつ。次が来るまでもうちょいよろしく。