千の言葉を舌にのせ

2019年10月21日(月) 緑茶カウント:2杯

言葉に関してのみ当時の自分は若干大人びていて、故に他の要素もありつつも、クラスメイトと会話をするのが困難になった時期があった。
そう、あれは小学校の高学年から中学にかけて。自分では通常の言葉を使っているつもりであるにも関わらず、クラスメイトからは「ウヲの言葉は難しくてわからない」「わざと難しい言葉を使って馬鹿にしないでほしい」と言われた。そして自分は苦情を申し立てるクラスメイトに対し、この程度の言葉もわからないのかと見下すことでバランスをとろうとした、のかなぁ。

いや、単に純粋に馬鹿にしていたのだろう。
だってそれは、己にとっては難しくもないごく自然な言葉だったから。

しかし、同時に自分はわかりやすい言葉を使う人を尊敬していた。専門用語を使わずに若い人に世界を語れる人に憧れた。その言葉を手に入れたいと思った。果たして今の自分は少しでも手に入れられているだろうか。わからない。わからないから説明しようと思う。どうせ、自分の言葉は誰にも通じないので。

という、誰にも自分の言葉は通じないと思う気持ちが未だに根幹にあるのは困ったものだ。

だから十を説明するために、千の言葉を使う。過剰に説明してしまう。全てを言って、ようやく一部を受け取ってもらえる、その程度の影響力しかないと信じているから言ってしまう。
ところがどうしたことだろう。そうして努力をしたときに限って、己は「過剰」と言う評価を受けるのだ。

難しいなぁ。言うバランス、言わないバランス。己はそろそろ、少しは自分の言葉に自信を持つべきなのだろう。十の言葉が十通じると思うべきなのだろう。十のために千を語ることは慎むべきなのだろう。だが、出来ずにいるんだなぁ。

影響力がないと信じることは、他者への槍を無意識に振りかざすことにも通ずる。どうせ自分の言葉なんて、と思って軽く放った自己肯定感の低い一言が誰かの心臓を突き破ることもありうる。故に自信と責任と言葉の重みを痛感せねばならないと言うのに。

ところがどっこい。今も、根幹では十を伝えるために千を語らなければならないと感じている。いつか、そうだなぁ。どうにかせめて、百に抑えたいと思う。



日記録2杯, 日常