日記録0杯, 日常

2014年8月30日(土) 緑茶カウント:0杯

このところすっかり涼しくなって、昼間はセミが大勢鳴いているのに、夜は鈴虫の音が聞こえ、九月の到来も目と鼻の先。道を歩けばひっくり返ったセミがあちこちにいて、多くは足が縮こまっているが、たまに足をわきわき動かしている奴がいる。しゃがみこんで人差し指を差し出すとひしと抱きつくも、飛ぶ元気が無いのか指から離れずじっと虚空を見つめている。愛らしい。そんなセミを数匹拾い、近くの木に移してやるのだが、大抵は力尽きて木から落ちてしまう。

あぁ、夏も終わるのだなぁ。



日記録3杯, 日常

2014年8月28日(木) 緑茶カウント:3杯

趣味で日記やライブの感想を書き連ねる日々の中、たまに驚くことも起こるもので、もう何ヶ月、はたまた数年前のことなのでそろそろ書いても問題無かろうと思いここに書き記すが、あるライブの感想を書いたところ、その文章をとある公式ライブレポートにところどころ流用されてしまったことがあった。

それはTwitterで回ってきたリンクの先にあったもので、無論自分の行ったライブなので興味を持って読んだのだが、妙な既視感があり、思いあがりかと思いつつ照らし合わせてみた結果、よもやまさかの、見事なコピペであったのだった。

ただ、ところどころ改変されていて、それがまた具合の悪い変え方だった。例えば。「○○さんは、△△という曲の後、夏が好きと語り、夏には必ず海に出かけて魚釣りをする、という内容を叫んだ」と記したところが、「○○さんは△△という曲の後、『俺は夏には必ず海に出かけて魚釣りをする!!』と叫んだ」と書き換えられているのである。確かに後者の方が簡潔な文章だが一つ大きな問題がある。○○さんは「俺は夏には必ず海に出かけて魚釣りをする!!」という言葉をそのまま叫んではいないのだ。

ライブの感想は記憶に頼ってばかりゆえ曖昧な箇所も少なくないので、自分はしっかり記憶している箇所以外は「○○と言った」と書かないようにし、あくまでもこういう内容の話をしていましたよ、叫んでいましたよ、と書くよう注意しているのだが、まさか公式のライブレポートに転載されたうえ、表現を修正され、結果として公式から「ミュージシャンが言ってない発言」を「言った」と断言される状態になり、その発端は自分、という構図が、他者の目からは見えないながらも作られてしまうとは思わなかった。

ちなみにそれはミュージシャンのプライベートに関わることでは無かったが、いわゆる重要な場面での決め台詞に近いものだったので、「あぁ、違う! 違う! そう言ったんじゃないんだよ、そういう内容のことをそこで言っただけなんだよ!」と頭を抱えざるを得ず、いったいどのように書いていたら伝わったのだろうか、としばし悩みこんだ。今でも感想を書くたびに思い出し、自戒しつつ、どうすればなるべく誤解を与えず伝えることが出来るだろうと考える。自分にとってライブの感想を記すことは、その状況を他者に伝えるためではなく、あくまで自分の感想の記録を目的としているとはいえ、公開するからにはその分責任は生まれるだろう。それは小さな記事だったが、自分にとっては衝撃的な出来事だった。



日記録1杯, 日常

2014年8月27日(水) 緑茶カウント:1杯

紙やすり、再生紙、低級トイレ紙、中級トイレ紙、高級トイレ紙、鼻セレブ。この六種類の紙が二十センチずつ繋がっていて、その順番は定まっておらず、千切って巻くまでどの紙が表に来るかわからない、そんなトイレットペーパーはいかがだろうか。そんなロシアンでルーレットなトイレットペーパーはいかがだろうか。質感は違えども色は限りなく一色に近く、触るまでどこが何かわからない。そんなトイレットペーパーはいかがだろうか。ということをここ数日廊下に置かれたトイレットペーパーを見るたびに思っていて、いかがですか。どなたか作りませんか。そしてどこぞの家に設置しませんか。我が家は結構ですので。どなたかやりませんか。



日記録0杯, 日常

2014年8月26日(火) 緑茶カウント:0杯

今だかつてここまで緑茶カウントが回らない月があっただろうか、いや、無い。理由は一つ。とにかく毎日麦茶を飲み続けているからで、緑茶カウントを麦茶カウントに変換すれば面白いようにぐるぐるカウンターが回ったことだろうが、己は緑茶しか数えないと心に決めているので回らない。

そろそろカテキンを大量摂取する準備を始めようかな。



日記録0杯, 日常

2014年8月25日(月) 緑茶カウント:0杯

不便を感じつつもずっと我が家に置いていないもの、それは輪ゴム。三年ほど家に輪ゴムを置いておらず、三年前は二箱輪ゴムを所持していて、どちらも持て余していて、二つとも人にやってしまったばかりに部屋から輪ゴムが無くなった。何故あのとき自分は二つともやってしまったのだろうと思うも、当時の自分はとにかく、二箱ある輪ゴムを邪魔に感じていて、どうにかしたいと輪ゴムの箱を見るたびに思っていたのだ。だからスッキリするために輪ゴムの箱を二つとも人にやってしまって、結果三年間不便を感じ続けているのだが、あの持て余していた当時の何とも言えない忌々しさを記憶しているだけに新しく買う気分になれず、今日も余った紐で袋の口を結ぶのである。