日記録1杯, 日常

2015年3月17日(火) 緑茶カウント:1杯

初めて見たときまず抱いた感想は「不味そう」というものだった。

街角に新しく出来たラーメン屋の外装はプラスティックがテカテカツヤツヤ光っていて、食べ物屋よりもパチンコ屋を連想させるものだった。ここはもともとテイクアウトの寿司屋であった。寿司屋だったときはごく普通の食べ物屋の外装だったが、それをすっかり塗り替えて作られたのがパチンコ屋のようなラーメン屋。パチンコ屋を改造してラーメン屋にしたならまだしも、もとが食べ物屋であったのに、何故この有様に成り果てたのか。

案の定客足は芳しくないようで、ガラス窓から見える客席にはいつもほとんど人がいない。テカテカツヤツヤの看板は安さを強調しており、確かに近隣のラーメン屋に比べると安い価格帯であるが心惹かれないのはすごい。だってなぁ。鶏がらの香りよりもタバコの臭い、湯切りの音よりもジャラジャラ音が聞こえそうな見た目だものなぁ。

さてこのラーメン屋。出来たのは二ヶ月ほど前のことだが、流石に危機感を抱いたのだろうか。最近になって暖簾や幕や提灯などなどを飾り付けるようになった。以前に比べると食べ物屋っぽくなってきている。生き残れるだろうか、と見守りながら。まだ一度も入っていない。



日記録3杯, 日常

2015年3月14日(土) 緑茶カウント:3杯

一人暮らしを始める際に実家から持ってきたブラウン管テレビを今までずっと使用してきたが、先日映らなくなってしまった。その前からも具合が悪く、映像がブレることが多々ありつつも、バンバン叩くと直っていたのでバンバン叩きながら使っていたが、ついに事切れてしまったのだ。

正確な年数は定かでは無いが、購入してから十五年ないしは二十年は経過しているだろう。よく持ってくれたものである。このテレビはもともと父が単身赴任をしているときに買ったものだ。単身赴任が終わって自宅に持ち帰られてからは、主に己がゲームをするために使っていた。これでよくぷよぷよやマリオRPGをやったものだ。

壊れたテレビに接続している録画機器は今は懐かしいビデオデッキ。VHSのビデオテープも傍らに置かれている。こちらはまだ使える。なかなか息が長いと思う。

これを機にいっそテレビを処分するか、とも考えたが、たまに観たい番組もある。そして何より、ライブDVD再生装置がパソコンだけではやや不便だ。では、ついに買うかなぁと電気屋に足を運び、薄型テレビを購入した。ついでにブルーレイレコーダーも。驚いたよ。電器屋に行ったらDVDレコーダーは今じゃあもう売られていないと教えられたんだぜ。ブルーレイレコーダーでDVDも観られるそうなんだぜ。知らなかったなぁ。

そんなわけで分厚いブラウン管テレビは薄型のフルハイビジョンテレビと入れ替えられ、ブルーレイレコーダーが導入され、ついにで同時期に十年物のトースターも壊れたため、以前よりも奥行きのあるトースターも我が家の一員に加わって、満足感を得つつ、財布の中身を確認することに恐怖を抱く、そんな日である。ひゃっほう。



日記録0杯, 日常

2015年3月10日(火) 緑茶カウント:0杯

昨今何かと話題になっている同性婚のニュースを見聞きして、もし同性婚が日本で可能となったら、己も結婚と言う選択肢を視野に入れるかもしれないと思い、そう感じた自分に少し驚いた。

ちなみに自分は同性愛者では無い。

己について明らかにするなら、自分は男女の枠組みのどちらからも脱却したい人間である。女に生まれても違和感があるだろうし、男に生まれてもしっくり来ないだろう。そんな状態を自覚してそろそろ十年。紆余曲折を経たが、自覚してからは納得している。

自分にとっては、男性も女性も異性に感じられる。それは男女どちらも同じ性に感じられるというわけではなく、男性、女性、どちらもそれぞれ違いがあるのだが、どちらも自分と同じ性ではないという認識である。違和感があると言うだろうか。どちらも同性のように感じられるというわけではない。

では、異性のように感じられるということはどちらも愛する対象になるかと言うとそうでも無く、誰かと結婚したいわけでも無い。じゃあ、そんな自分がどうして同性婚の実現を望むかと言うと、楽になれそうだからである。

自分にとっての苦痛は性の枠組みにはめられることで、異性婚しかない現状で、もし己が結婚をしたとすると、どちらかの枠組みにはめられてしまう。それが辛い。それを思うと、もし好いた相手が出来たとしても己は結婚出来ないだろう。無理である。

だが、もし同性婚が実現し、結婚が男女だけのものという前提が崩れれば。男女の結婚も、男同士の結婚も、女同士の結婚も当たり前のように存在する世の中になれば、枠組みから解放されることが出来る。例え身の回りの人には普通の男女の結婚のように捉えられても、「いや、自分は実はそうではないのさ。ふふふ」とほくそ笑む余裕を持つことが出来るだろう。

同性婚の実現は、男性にも女性にもなりたくない人々にとっても希望になるかもしれない。

まぁ、自分は今のところ結婚を望んではいないし、パートナーもいないのだが。でも、それを望むのさ。



日記録0杯, 日常

2015年3月6日(金) 緑茶カウント:0杯

とある音楽グループがライブ中、MCで料亭を揶揄し炎上した事件について、ここ最近もやもやと考えていたことがあったのでまとめてみようと思う。ちなみに自分はそのグループ名こそ知っているものの、どういう音楽をしている人達なのかはこの事件を知るまでよく知らなかった人間である。

まずこの炎上事件を簡単にまとめると以下のようになる。とはいえ、己はその場にいたのではなく、ネット上に広がる話を見ただけなので、すべては伝聞情報でしか無いのだが。

一、 ある音楽グループがライブの前日宿泊した料亭について、ハタハタが少なかったなど、出された食事の内容についてMCで話し、不満を漏らす。

二、 グループのファンが件の料亭に赴きMCの内容を報告する。

三、 女将さんの娘さんが、MCの内容を知って母がショックを受けていて悲しいとツイート。また、料理の量が少なかったのはイベンターからの「予算の都合上ハタハタを一匹にしてほしい」という指示を受けてのもので、通常は二匹出していると事実を明らかに。ほか、要望を受けて心を尽くしたサービスをしたことも語られる。

四、 ツイートが拡散され、炎上。



さてこの事件。個人的に、一番悪いのはファンの行動だよなぁ、と思う。自戒もこめて。

特にその音楽グループを擁護する気は無いのだが、閉ざされた空間でする「ここだけの話」というものはある。多分その話はテレビカメラの前では語られなかったことだろう。料亭に知られないという前提があったからこそのものだろうと想像する。いや彼らがどういう性格か己は全く知らんのだけど。

無論「ここだけの話」にも質の良し悪しはあるのだが、それはひとまず置いておいて。この「ここだけの話」が語られる空間は色々ある。例えばライブハウスであったり深夜番組であったりラジオであったり。観る人聴く人が限られるので、ちょっと普段は語られない、場合によっては刺激的だったり、不謹慎だったりするものが披露される。それは話し手の「この場でなら大丈夫だろう」という信頼あってのものである。わざわざここに来てこれを見聞きする人達なら、眉根をひそめることなどせず、ニヤリと楽しんでくれるだろうと。

ところが、その「ここだけの話」がテイクアウトされて、バーッと日の光の当たるところで披露されて共有されることが近年は多々あるのだ。ブログやTwitterなどにより、その場に来ていないファンだけでなく、ファンでも何でも無い人にまで知られてしまうことさえあるのだ。

そしてまた自分も、その一端を担っている人間である。困ったことに。

ライブに行った感動と興奮を誰かと分かち合いたい、こんなに楽しいことがあったよと知って欲しい、この人はこんなに面白いんだぜすごいんだぜ格好良いんだぜと伝えたい、あわよくばこれを読んで興味を持った人にライブハウスへ足を運んで欲しい、そんな思いによるものだ。あとは、興奮を整理しないと落ち着かないためでもある。それらの思いのたけをぶつけ、昇華するためにTwitterを利用したり、ここの日記で感想を綴ったりしている。

それは全て好意によるファン行動であり、わざわざ料亭に突撃するような悪意は欠片も存在しないが、好意によるファンの行動も「ここだけの話を語る場所」を狭めていることを感じている。

もちろん感想を書く際は気をつけている。例えばMCに他者の名前が出てきたときは表現の仕方も慎重になり、書かない選択をすることもある。どこで回りまわって関係者の目に入るかわからないからだ。「ネットに書かないでね」と前置きされた話も書かない。また、「●●さんが×××××××××××××××と言った」とは、よっぽど記憶に自信がある言葉で無い限りは、文章中で言い切らないようにしている。ライブでのトークはその場で書き留めたものではなく、全て記憶の中にしか無いので、脳内で編集されている可能性が高いためだ。

しかしそれでも起こるのだ。これは自分が実際に経験したことである。Aさんのライブに行ったとき、Aさんがあることを叫んだ。仮にそれを「私はメロンが大好きなんだー! 毎日メロンを食べたいんだー! わー! メロンのためなら死んでもいいマジで! アイラブユー!」というものだったとしよう。これを聞いた自分は、「Aさんはメロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛しているという内容の言葉を叫んでいた」と日記に書いたとする。

すると後日、Aさんが出演したライブハウスのライブレポートで「Aさんは『メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!』とシャウトした」と書かれたのである。他にも文章中には書き覚えのある文言が。思いっきり日記の一部をコピペされたうえ、バッサバッサと編集されたのである。

細かい話だが、Aさんは「私はメロンが大好きなんだー! 毎日メロンを食べたいんだー! わー! メロンのためなら死んでもいいマジで! アイラブユー!」と叫んだのであって、「メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!」とは叫んでいないのである。ところがこの間違った情報が半公式のライブレポートとして公開されてしまったため、一部のファンの間であったが、「メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!」というシャウトをAさんがしたと思われてしまったのである。Aさん、そんなこと叫んでないのに。

注意を払ったつもりであったが、結果的に事実と異なることが広まってしまったため血の気が引く思いがした。

意図したものと違う受け取り方をされて、それが拡散される。このとき、例え自分が「この人はこれこれこういう話をしていたよ」とあくまでも内容を要約・編集して伝えたつもりであっても、そのように受け取られない可能性があることを思い知った。また別のとき、「Bさんは嬉しそうに笑っているように見えた」と、あくまでも己の主観を書いたつもりが「Bさんは嬉しかった」と事実として受け取られることがあることも知った。そして自分自身も誰かのライブレポートを読むとき、あくまでもそれは他者の記憶と主観によって書かれたものであるのに、あたかも事実のように受け取ってしまうことがあると気が付いた。

それはライブの模様を伝えたライブレポートだけに限らない。ステージ上の人々が語る話もそうである。それはあくまでも彼らの主観であり、彼らの解釈を通して発信されているのだ。事実である場合もあるが、事実で無い場合もある。面白味を出すために話を盛ることもあるだろう。あえて、ちょっと嘘を交えることもあるかもしれない。そちらの方が面白い場合には。

そんな「ここだけの話」は、拡散されて問題が無いものもあればあるものもある。そしてまた、ミュージシャン達も「ここだけの話」が「ここだけ」に留まらなくなってきていることに気付いていて、中には狭まれた空間やアンダーグラウンドが消失しかけていることに言及している人もいる。それじゃつまらないよと言う人もいる。自分もそう思う。

ファンの行動がミュージシャンの活動範囲を狭めたり、自由度を奪うのはよろしくない。だったらライブの感想なんぞ公開したい方が良い。いや、本当に何も書かないのが一番なんじゃないかと思うことさえある。しかしそれでは極端だ。感想を書くことそれ自体が悪では無い。

ではどうすれば良いかと考えると、節度を守る、平凡だがこれに尽きるのだ。ありのままに思いのままに書き綴るのではなく自分の心にルールを持って、これを書いたらどんな影響があるかをいちいち考えることが必要だ。そして完璧な閉鎖空間でないとわかっていても、安心して信頼して「ここだけの話」を語れる空気を作れるよう、意識するしか無いのだろうなぁと思うのである。

気をつけよう。自戒をこめて。



日記録0杯, 日常

2015年3月3日(火) 緑茶カウント:0杯

本日は筋肉少女帯のライブDVDが早売りされる日で、喜び勇んでタワーレコードに買いに行ったんだ。それはもうずっと前に予約をしていたものだったんだ。だけれども、ディスクを取り込んで画面に表示された日付を見たときに、初めて気付いたんだ。このライブが収録された日は、母の亡くなった日だったことに。

胸が締め付けられる思いがしたよ。

恐らく人生で一番悲しかった日だ。今も思い出しては泣きそうになる。現状、一番辛い思い出だ。その同日に大阪では筋少のライブが行われていた。きっとその情報はどこかで得ていただろうに全く気付かなかった。今に至るまで。

その映像はとても楽しく素晴らしく、いつもの筋少のライブで、あぁあの日の裏側ではあんなに楽しいことがあったんだ、と気付かされ。そして同じDVDの特典映像には、別の日のイベントに参加する自身の姿ががっつり映っていて、それがどうにも不思議だなぁ。でもきっとそんなものなのだろうなぁ。あの悲しい日の裏側では最高の一日があり、別の人にとってはそれが逆転することもある。当然のことなのだろう。でも実感することは今まで無かったんだ。

特典映像のメニュー画面に流れるエディのピアノはとても美しく、エディが好きな母に聴かせたかったなぁ、と思うとまた悲しい。でも、楽しいし格好良いんだ。

様々な感情がない交ぜになるDVDになった。思いもがけずも。