日記録2杯, 日常

2018年7月2日(月) 緑茶カウント:2杯

あっれー、どうしたことだろう。この間眼鏡を新しくしたばかりだと言うのにもうピントが合わない。あ、なるほど、レンズが汚れているのだな。こりゃあしまった。ちゃんと綺麗にせねばなるまいな。

と、眼鏡拭きを手にとって眼鏡を外しレンズを確認すると小さな汚れ。よしよし、こいつを拭けば解決だ、と意気揚々とかけ直し、再度パソコンの画面を見れば。

ピントが合わない。
全然ピントが合わない。

マジかよ。この間変えたばっかりだってのにもう視力が下がったのかよ。むしろ目の病気を疑うよ、って若干恐怖を感じた一週間。そして昨日、早いうちから昏々と眠り、すっきりと目覚め、改めてパソコン画面を見てみれば。

そういうことだった。視力が低下したわけではなかった。体力が著しく低下していただけだった。

なるほど。疲れていたものなぁ。つまりこれは疲れ目か。ピントが合わなくなるほど疲れていたのか。思えばここ最近、疲労と睡眠不足で体力が低下していて、やたらと栄養ドリンクの世話になっていた。なるほどなぁ。

納得しつつ思い知る。これは一つのバロメーターだなと。見えにくくなったら気をつけよう。



日記録4杯, 日常

2018年6月27日(水) 緑茶カウント:4杯

身近に性悪説を自称する人がいる。それは良い。まずは疑うことから始めると言う。それもまぁ良い。

ただ、その人は性悪説を免罪符にして事実確認の手間を惜しむ自分を肯定しているだけなんだな。

ということに気づいたのは最近か。何かにつけて疑ってかかるその人は事実を確認しないまま「こうであるに違いない」と決め付け、人を攻撃する。年若い人は驚いて黙ってしまうが、その衝撃を受ける様を見てその人はさらに「それ見たことか」と断罪する。で、結果どうなるかと言うと嫌われる。その空気をその人は感じている。そして「自分は世の中をシビアに見ているから」「自分のような嫌われ役も必要だ」と自身の役どころを自ら設定し、肯定する。

でも違うんだよな。性悪説云々がどうではなくて、単にその人は面倒臭がりなんだ。ところがそのことに気づけずにいるんだ。

距離を置き、眺めながら考える。いつかそのことに気づく日が来たとき、その人は何を思うだろうかと。もう一つ考える。指摘するべきだろうかと。同時に思う。そこまでする義理もないな、と。それは自身もその人に断罪されてきた身ゆえに。

どうだろう。いつか気づく日が来るのだろうか。



未分類0杯, 非日常

嬉しくて楽しくて、たまらないライブだった。メジャーデビュー三十周年を同じ会場で祝うことができて、さらには新譜の発売とツアーの告知まで。筋少は過去を生きていない、未来を生きていると語るオーケンの言葉そのままに提示された先の約束が嬉しくてたまらない。だってさ、今年はオーケンがソロアルバムを作ることから筋少での新譜は無いものと思い込んでいたんだよ。それがまさかのサプライズ。

嬉しくてその場でぴょんぴょん跳ねるなんて、大人になってからはそうそう経験していない。その数少ない小さなジャンプは、ほとんどライブハウスの中で行われているように思う。

しかも何と、レティクルの神様の思し召しかこの日は最前列だった。視界を横切るものが一切ない中で楽器を奏で、力強く歌い上げるメンバーを観ることができる喜びったら。ステージの背後にはデビュー三十周年を祝うロゴがでかでかと掲げられ、しみじみとこの日がいかに特別な日であるかを実感する。三十周年。三十周年かぁ。

先日の日記にも書いたが、筋肉少女帯がメジャーデビューを果たしたとき己はまだこの世に生を受けたばかりだった。年月が流れ、筋肉少女帯の音楽に出会ったときには既に筋少は活動を休止していた。あの頃、レティクル座妄想を繰り返し聴きながらリアルタイムで知りたかったなぁと思ったことも懐かしい。あれも十五年前か。

そして、まさかの再結成の報。
運良く当選した復活ライブのチケット。
初めて生で観た、ステージの筋肉少女帯。

あれからずっと楽しませていただいていて、ずっと元気をもらい続けている。この楽しさと喜びがこれから先にもあることを提示してくれるのが、嬉しくてたまらない。

今日のライブは定番曲中心のセットリストで、その中で若干の異彩を放っていたのが「パノラマ島失敗談」と「戦え!何を!?人生を!」、そしてもう一曲。アンコールでオーケンが、「今日はおめでたい日なので、ドカーンと盛り上がる曲を中心に持ってきた」と語る。続けて、「でもそればかりが筋肉少女帯じゃない。むしろ暗い闇の部分を多く歌っている」と言葉を紡ぎ……照明が落とされ、真っ暗になったステージで静かに歌い出されたのが……「ノゾミ・カナエ・タマエ」。

この前日にリマスタリングされ再発された「レティクル座妄想」を聴き、「ノゾミ・カナエ・タマエ」の悲しい調べと美しい言葉の迫力に圧倒されたばかりで、聴きたいとは思っていたもののまさかやってくれるとは思ってもおらず、気づけば胸の前で手を組み、まるでレティクルの神様に祈るかのような姿勢でステージを見つめていた。

とても楽しいライブだった。盛り上がる曲がいっぱいで嬉しかった。
でも、やはり、己が筋肉少女帯に求めているものは、それだけではないのだ。

「レティクルの神様、ただ一つのお願いがあります」とオーケンが両手でマイクを握り、祈るように歌う。赤いライトを浴びながら天を見つめるオーケンの瞳にはレティクルの神様が映っているかのように見え、光で彩られた輪郭が危うげで非常に美しかった。

自分へのプレゼントにハズキルーペを買い、汗をかいて体が燃え上がるのはロックのせいかと思ったら男の更年期障害かもしれないと冗談めかして語るオーケン。オーディエンスを笑わせながら、加齢だ加齢だと言いながらも三十周年に突入し、さらに先へと進み続ける力強さ。しかしその前進していくエネルギーを放つ体内には、ノゾミ・カナエ・タマエを歌うほの暗い闇も秘められているのだ。

ただ前向きなだけではなく、心の闇を歌い、拾い上げて目の前に提示し、それがあることを肯定させてくれる。そのうえで大いに笑わせ、楽しませてくれる筋肉少女帯という存在に出会えたことは自分にとって幸福に他ならない。三十五周年も、四十周年も、五十周年も共に祝っていきたいと思う。

最後にもう一つ、嬉しいなと思ったこと。今日の会場では近くに車椅子の方と介助の方がいらしていて、介助の方はこまめに車椅子の方のケアをしていたのだが……、あるときに橘高さんがピックにキスをしてそれを客席に投げたのだが、ファンの手に届かず床に落ちてしまったのだ。

すると介助の方がピックに気づき、サッと小走りで取りに行って拾い上げるとササッと戻って車椅子の方に手渡したのだ。視界の隅でその様子を捉えたとき、「よっしゃ!」と己は軽くガッツポーズをした。そうそうそうそう、そう! ありがとう! よくぞ拾ってくれました! だって絶対欲しいと思うもの! 自分だったら!

終演後、ビールを呑みながら余韻に浸りつつ、ロビーに飾られた花輪を眺めた。打首獄門同好会や高木ブーさん、そしてファンからの色とりどりの花輪。物販は人でごった返していて、あちこちで楽しげに感想や興奮を語らい合う人々がいた。皆笑顔で楽しそうだった。己もきっとニコニコしていたのだろう。嬉しくて楽しくて、たまらない一日だった。




サンフランシスコ
少年、グリグリメガネを拾う

日本印度化計画
小さな恋のメロディ(ふーみんボーカル)
パノラマ島失敗談

イワンのばか
機械

戦え!何を!?人生を!

青ヒゲの兄弟の店
サイコキラーズ・ラブ
Guru最終形

これでいいのだ
パリ・恋の都
踊るダメ人間
ディオネア・フューチャー

~アンコール~
ノゾミ・カナエ・タマエ
モコモコボンボン(うっちーボーカル)
釈迦



日記録2杯, 日常, 筋肉少女帯

2018年6月20日(水) 緑茶カウント:2杯


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疲れたんだ。とても疲れていたんだ。でもその中で無理をしてタワレコに行って良かったと思えたんだ。

筋肉少女帯デビュー三十周年ライブの前日である今日、リマスタリングされた四枚のアルバムに、凍結直前のライブDVDに近年のライブ映像を収めたブルーレイ、そして最新作を含む四枚のアルバムジャケットが美しい存在感を放つアナログレコード四枚。これらが一気に発売され、それを買うために己はタワレコへと走った。レコードだけは予算の関係で来月に回したが。

疲れたんだ。とても疲れていたんだ。でもその中で無理をしてタワレコに行って良かったと思えたんだ。

初めて聴いた「蜘蛛の糸」。初めて手に取った筋少のアルバム「レティクル座妄想」。もう十五年も前にレンタルCDショップで借りてきて、土曜日の昼下がり、母の作った昼食を食べながら皆で一緒に聴こうと家族を誘い、CDプレーヤーにかけたら放たれたるは少女の嘲笑。呆然とし、どうしようと思ったあの日から己は筋少にはまったのだ。

あの十五年前に手に取った、古ぼけたアルバムの新品を今こうして手に取れるなんて誰が想像できるだろう。まるであの日の衝撃を追体験するかのような鮮烈さに心臓を震わせつつ、改めて思ったのは初めて聴いたのがレティクル座妄想で良かったな、ということ。恐らく、他のアルバムが最初であっても己は筋少にはまっていたに違いないが、最初の出会いがレティクルであったことはきっと幸福に他ならない。

そして明日はデビュー三十周年記念ライブだ。筋少がデビューしたときにはまだまだこの世に生を受けたばかりだった自分がこうして、リアルタイムで祝えることのありがたさ。喜び。至福。それらを噛み締めながらリマスタリングされた楽曲に、ボーナストラックのデモ音源を楽しめる幸福。

あぁ、何て最高の前夜祭か。
アルコールを傾けつつ、アルコール以上の酩酊を味わう夜である。楽しい。



日記録0杯, 日常

2018年6月17日(日) 緑茶カウント:0杯

あれは高校生の頃だっただろうか。家の書棚にあった司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を手に取り、夢中になって読んだ数ヶ月。人間くさい竜馬に愛着を持ち、楽しんで読んだ時代小説。あれを読んだのは何年前か。もう十年も経っているだろう。

しかし己は、未だその最終巻を手に取ることができていない。

これを勝手に「竜馬がゆく現象」と呼んでいて、呼んでいるからには類似の現象が発生しているということで。即ちどういうことかと説明するならば、己は竜馬に愛着を持ちすぎた故に竜馬が殺されてしまうことがたまらなく悲しくて、最終巻を読むことができなかったのだ。

同じような現象はゲームでも起こる。もうすぐラスボスだ、全面クリアだと言うところで物語が終わってしまうことが悲しくて手を離してしまう。故に、熱心に遊んだゲームであるくせにそのラストを知らないものがちょこちょこあり、我ながらどうかと思うが、エンディング直前で手が止まってしまうことがままあるのだ。

思い出すのは幼少の頃のこと。遊びに来ていた友人としこたま遊んで友人を玄関から見送ったあと。大抵己は「あー、つまらなかった」と言ったそうで、当初母はそれにカチンと来たという。充分楽しく遊んだのに何を言うのだ、一緒に遊んだ友人にも失礼だろうと。しかし、時が経つにつれその言葉の意味がわかったと己に話してくれた。

きっとそれは自己防衛の言葉だったのだろう。あんまり楽しかったから、楽しい時間から通常へと切り替わる寂しさに耐え難くて出た言葉だったのだろうと。

なるほどなぁ。一桁の年齢の頃から己はなかなか面倒臭い性格をしていたらしい。そうして思うことと言えば、竜馬の行く末。いや、知っているよ。歴史の教科書で彼が最終的に死ぬことは。暗殺されることは。でも悲しかったんだね、あぁ、知っているとも今になっても。

いつかあの文庫本を開ける時が来るだろうか。
まだまだ、時間がかかりそうである。