日記録0杯, 日常,

2017年12月18日(月) 緑茶カウント:0杯

これはだね、ここ数年考え込んでいることだけれども、今も答えの出ていない話なのさ。それを前提に聞いて欲しい。

少食の人が外食で御飯を残すことは、責められることなのだろうか。

前提として、自分自身は「御飯を粗末にしてはいけない」と教育され、それを当然のものとし、食事の前には「いただきます」を、食事の後には「ご馳走様でした」と食に感謝することを習慣付けられ、出されたものは基本的に平らげ、それを当然のものとして生きてきた。

しかし、苦手な食べ物も多い。そういったものは一人のときには選ばず、同伴者がいるときには代わりに食べてもらうことを願い、叶わないときには我慢して飲みこみ、それで事なきを得てきた。運良く、己の苦手とする食べ物は他者にとっての好物であるパターンが多かったのが救いだ。

そして少食について、である。社会に出たとき、「もう食べられない」「ご馳走様」と言って食べ物を半分近く残す人を見てきた。そのたびに己は「みっともないなぁ」「こんなに残すなんて恥ずかしくないのだろうか」と批判的な眼差しを向けてきた。だが、歳を重ねるにつれ、徐々に受け取り方が変化してきた。この人達は、ある種のマイノリティではないのかと。

それはつまり、社会で一般とされる量の食べ物、それが適量ではない人達、という意味である。

このとき思い出したのは己が一人暮らしを始めた直後の出来事。我が家は四人家族で、父、母、自分、妹という構成であったが、父は単身赴任であるため家にいることが少なかった。母は料理上手で、子供達が「物足りない」と感じることに悲しみを感じる人だった。故に毎日食卓には主菜副菜、色とりどりの美しい料理が並べられ、その美味しさを当然の如く堪能していた。

しかし妹は食が細く、一人前を食べきれない。故に自分が妹の分も食べることが常であった。つまりいつも一人前以上の量を食べていて、苦しいと感じることも少なくなかった。母に食事の量を減らして欲しいと話したこともあったが、たまに妹も一人前以上食べることがある故に、誰かが飢えることを恐れている母は必ず家族の人数分の食事を食卓に上らせていた。

で、だね。大学に入ると同時に一人暮らしを始めたときのこと。「適量」と思う量を自ら作って食べるようになったら、一ヶ月か二ヶ月で七キロも体重が落ちたのだ。もともと標準体重の中ではあったが、そのランクの上位レベルから中位レベル程度に落ちたのである。

そしてこのとき、己は「適量」と感じる量だけ食べられることの幸せを知ったのだった。それは苦しくなく、ちょうど良かった。それまでの自分は腹がパンパンになるまで食べるのが普通で、ちょっと苦しい、と感じるのが当たり前だった。それが無くなったのは驚きであり、衝撃だった。

母を責めるつもりはない。実際、妹はイレギュラーに大量に食べる日もあって、それは予測のつかないことであった。子供を飢えさせたくない気持ちもわかる。同時に、母と自分に共通してあった、食べ物を粗末にしたくない気持ちも理解できる。

それらを通して思うのだ。誰か代わりに食べてくれる人がいない中で、少食の人が生きていくのにこの世の中はなかなか難しいのではなかろうか、と。

食べ物は残さない方が良い。しかし外食のたびに適量以上の量が出されるのが常で、食べ残せば「もったいない」「食べ物を粗末にしちゃいけない」と責められるのは結構な心理的負担だろう。それを回避するためには、外食のたびに「量を減らしてもらえますか」と打診せねばならぬが、それが通らぬこともあるし、いちいちそれを言わねばならないことも負担だろう。

当たり前のように食事を残す人を見て、「嫌だなぁ」と思う気持ちも正直、ある。しかし、残した食事を見咎めて「食べ物を粗末にしちゃいけませんよ」と責められ、いたたまれない顔をする人を悲しむ気持ちも同じようにある。そしてそれは、同じ場面で起こることなのである。

自分はたまたま胃袋の大きさが適当だっただけだ。とはいえ、食べ物を粗末にするにはよろしくない。その間で揺れ動いている。この感情に決着が着くのはまだまだ先だろうと思う。故に己は、嫌悪と寂しさと悲しさと困惑を抱きながら食事処に立っている。まだ、答えは見つからない。



日記録6杯, 日常

2017年12月17日(日) 緑茶カウント:6杯

急須がほっこり温かくて、時間を置いて手を乗せてもまだ温かくて、空の急須からじんわりと伝わる熱と、咽喉を通って胃袋に届く緑茶の熱い熱を感じて、六畳間にて一人、ほっとしたのであった。

傍らでは加湿器がしゅんしゅん沸いている。その横には買ったばかりのちょっと良いシャツが吊るされている。さらにその横に洗濯し、水分をまとった使い古しのタオルに寝巻き。それらに温かな風をあてるのは六畳間専用のエアコン。朝からずっと労働を余儀なくされ、文句も言わず働いている。

向かって左にはベッドがあり、その上に乗るのは太陽光をいっぱいに浴びたものの、寒空に放り出されて冷え切った布団だ。それも、エアコンの風を浴びてようやく温まった頃だろう。ほう、と一息つきながら緑茶をもう一口。熱湯を注ぐ気はなかったが、冷めるのを待てなかったために随分熱い。故に苦味が強いが、まぁ美味しい。

昨日は仮面ライダーの映画を観た。二回目だ。初回に比べ、登場人物の関係性や世界観の設定も理解が深まっていたためにより物語を楽しむことができた。面白かった。そしてこの日は何故だか早くに眠くなり、普段よりも随分早く、二十四時頃に布団に入り、うとうと眠って起きたのが九時。何と健全な時間だろう。驚愕しつつせっかくなのでと朝日に布団を浴びせ、洗濯をし、ゴウンゴウンと洗濯機の鳴る音を聞きながらトイレ掃除その他の諸々の用事を済ませ、昼には牛乳を飲みつつパン屋の美味しいパンを食べ、日が暮れる前に習慣にしている常備菜作りを終えた。

ぷかあ、と、己が煙草喫みなら、ここで一服楽しんでいるのだろうね。

代わりに湯船になみなみたたえた温度の水に体を浮かべ、はぁ、と息を吐き、そろそろ髪を切りたいなぁ、ついでにいっそ次は試しに金髪にしてみっかなぁ、と思う。風呂上りにはこの日拵えた様々な副菜と主菜を一つ皿に並べ、とっとっとっとビールを注ぎ、音の鳴らない乾杯で虚空を揺らす。ビールっつったら五百が当たり前だったが、このところは三百五十も呑みきれない日があって、それはとにかく疲れているから。疲労のあまりたかだか三百五十のビールに含まれるアルコールすらままならない。しかし今日は五百を三本呑んでもよゆーよゆー。あぁ、良い日だな。やはりビールの美味しさは健康のバロメーターだな、なんつって、人心地着いた後、こうして緑茶を片手に日記を書いている。先ほどよりも熱を失ったが、まだ急須は温かい。胃の底には茶葉を揺らして生まれたやわらかな香りの水がたゆたっている。あぁ、幸せだ、と胸に思って。



日記録0杯, 日常

2017年12月15日(金) 緑茶カウント:0杯

こはいかなる凶事ぞ。あれは五月のことである。大好きな筋肉少女帯のライブに参戦し、大いに盛り上がり、大いに楽しんだ夢のような日。その夢に溺れている最中、己は苦しみ喘いでいた。痛くて。辛くて。しんどくて。

何がって? 腕を挙げることが。腕を高々と掲げることが、さ。

そう。今まで何ともなかった「腕を挙げる行為」にしんどさを感じ、疲れに苛まれるほど己は体力を失っていたのである。

三十代。三十代だ。しかし三十代だ。そしてこの日自分が見上げていた、挙げた腕のその先にいる、ステージの上の人々は五十代だ。あの激しいステージを魅せてくれている人々は五十代なのだ。

ぜえはあと息を吐き呆然とする。いや、だめだろ。五十代の筋少メンバーがあんなに頑張っているのに、それを観ている自分が疲れ切って腕を挙げることにさえしんどさを感じていたらいかんだろ。三十代から体力は低下すると聞いたことはそりゃああるし、今まさに実感しているところだが、このままじゃあだめだろ、おい。

そう。己は筋肉少女帯のライブを観たいのだ。全力で楽しみたいのだ。体力を落としている場合じゃないのだ!!

ということで一念発起し体力づくりを始めたものの、うまい方法が見つからずこれがなかなか続かない。忙しさの波が来れば中断し、再開するもまた波が来て中断し、と中途半端な日々が続く。しかし諦めない。何故なら己は筋少が大好きだからだ。いつまでも筋少のライブを楽しみたいからだ!

そして最近、やっとコツを掴んで体力づくりを続けられるようになってきて、ちょっとずつだが筋肉がついてきた。先週のライブも疲れることなく腕を挙げきることができた。まだまだだが、ほんのちょっとだけ努力が実って嬉しい。

これからも頑張ろう。筋少のライブを楽しむためにも。筋少のライブを全力で楽しむためにも。

しかしまぁ、我ながら何だが、わかりやすい性格をしているね。ははは。



日記録0杯, 大槻ケンヂ, 日常

2017年12月9日(土) 緑茶カウント:0杯

どうしてか、これまでの人生で仮面ライダーに触れる機会がなく、一度も仮面ライダーを観ることなく大人になった。わりとテレビは自由に見せてもらえて、アニメもたくさん観て育ったのにどうしてだろう。我ながら不思議に思う。

それはあなたが幼少の頃は、ちょうど仮面ライダーが放送されていない期間だったからだよ、と同年代の方に教えてもらったのが少し前。しかしその同年代の方は仮面ライダーを観ている。曰く、再放送を観ていたらしい。

なるほどなぁと納得しつつ、三十一歳の今、映画館でビールを片手にポップコーンを食べながらスクリーンを見上げる。一つ空けて隣の座席にはパンフレットをくちゃくちゃに握り締めた男の子とそのお父さん。「誰々は出ないんだね、最近ドラマで忙しいからかな」と大人のような口ぶりで話す様子が愛らしい。公開初日だが、十八時開始の回を選んだため人がまばらで過ごしやすかった。ざっと見渡してみるに、時間帯のせいか子供よりも大人の客の方が多いようだ。

さて。何故今、わざわざ劇場に足を運び仮面ライダーを観ようとしているのか。どうして今日、自分はポップコーンを食べながらゆったりした座席に身を沈めているのか。答えは一つ、大槻ケンヂが出演するからだ。

まだ言えないけど、みんながびっくりする情報がそのうち公開されるよ、ともったいぶっていたオーケンからその情報がついに公開されたときの驚きたるや。えっ。えっ? えっ!? どうして、何がどうしてオーケンが仮面ライダーの敵役に? 何でまたオーケンが劇場版仮面ライダーに出演を?

オーケンが熱心に俳優活動をしていたならここまで驚くこともなかっただろう。そう、オーケンは過去にドラマや映画に出演したことこそあるものの、あくまでも職業はミュージシャンで作家なのだ。そしてまた、演技が苦手であることを公言している。故に楽しみであり、心配であり、楽しみであり、心配であった。

とにかく劇場に足を運ぼう、と心に決め公開を待つ日々。オーケンファンであり仮面ライダーファンの方から事前におすすめの仮面ライダーを教えてもらったものの、迷いつつもあえて予習をせずに映画を観ることにした。数回劇場に足を運ぶことは目に見えているので、せっかくなら何も知らない状態で観てみたいと思ったのだ。

あぁ、劇場が暗くなる。スクリーンに映し出される東映の文字と岩を打つ海。初めての仮面ライダー。ほとんど知らない仮面ライダー。いったいどんな映画なのだろう。

まず初めに驚いたのは、この世界には「仮面ライダーの成分」なるものが存在するということだった。何だ仮面ライダーの成分って? 仮面ライダーの成分を抽出し、ボトルに詰め、そのボトルをベルトに入れることで変身できるらしい。仮面ライダーの成分……面白い言葉である。

「仮面ライダーの成分」という耳慣れない不思議な言葉を味わいながらも、わっと心が弾んだのは変身シーンの格好良さ! ベルトを操作することでプラモデルの骨組みのようなものが展開し、ガチャンとパーツがセットされて変身する。これはすごい! 一度でもプラモデルを組み立てたことのある人ならきっとわくわくするだろう。そしてまた、このシーンを観た子供もプラモデルに憧れを抱くに違いない。

それぞれモチーフが異なるだけに仮面ライダーによって演出が全然違うのが面白い。なるほどなるほど、今はバッタの要素はほとんど無いんだなぁ。ゲームがモチーフの仮面ライダーは昔懐かしいスーパーファミコンの操作ボタンのようなデザインが胸を飾り、攻撃をすれば格闘ゲームのようなギミックが出て目を楽しませてくれる。どこかのシーンで一度やられたとき、土管のようなものから出てきてコンティニューが宣言されたときは笑ってしまった。

表情や台詞の一つ一つがコミカルかつオーバーで、子供にもわかりやすく演じているようだ。オーケンの演技が浮かないかハラハラしていたが、うまい具合にマッチしていて安心した。高らかに「ファンキー!」と叫び顔を歪めて笑う白い衣装の最上はライブのMC中にハイになってふざけているオーケンのようで、体の半分を失い、じっとりとした雰囲気を醸し出す青い衣装の最上は特攻服に身を包み、暗い歌をシャウトするオーケンのようだった。

オーケンファンとしては、この二人の最上を観たときに全てが腑に落ちた。「何故オーケンが仮面ライダーの敵役に抜擢されたのか」という謎が消えたのだ。パラレルワールドの二人の最上を合体させることで、不老不死の体を手に入れようとする最上魁星。パラレルワールドの二人の最上の陰と陽。ストーリーが先にあり、大槻ケンヂという人物が適任と見出されたのか、大槻ケンヂという人物から二人の最上が生まれたのか、気になるところである。

個人的に好きなのは二つの地球が衝突しそうになるとき、空に逆さまになったビルが映し出されるシーン。現実であればああいった光景が生まれることがないと予測は出来るが、わかりやすく、それでいて面白い画面になっていてとても好きだ。

かすり傷の描写はあるものの、流血シーンや直接的に人が死ぬシーンは無い。とはいえ、ビルがあれだけ派手に崩れたということは、最上魁星は結構な犠牲を出しているよなぁ。

しかし応援してしまう。最上魁星を。つい。何故ならオーケンファンだからだ。

左の席に座る男の子が、身を乗り出して画面を見つめる姿が視界の隅に映る。きっと拳を握り締め、ライダーを応援しているのだろう。あぁ、ごめんよ少年! 君には悪いが己は最上魁星を応援する! 頑張れ最上!!

応援しつつ思うことは、最上はいったいどうやってあのエニグマを作ったのか、ということ。あの資金はどこから出たのだろうか。そう、あのエニグマも格好良い。地球からぐっと手が伸び、近付くもう一つの地球から伸びる手へ、今か今かと渇望するように指先が伸ばされ、ぐっと握り締められた瞬間の美しさ! 思い出されるのは、劇中で崖から落ちそうになるライダーを助けようと手を伸ばすシーン。二つのエニグマが手を握り合うシーンは人類にとっては絶望的とも言える瞬間なのに、何故こうも美しく、感動的な描き方になっているのだろう。

エニグマの登場にもニヤニヤした。タイミング的に映画が先なのだろうか、十月に発売された筋肉少女帯の新譜「Future!」に「エニグマ」というタイトルがあるのである。呪文のような歌詞が並ぶプログレッシブ・メタル。これがまた妖しく格好良いのだ。

しかし最上の野望は潰える。あぁ最上よ、もっとこう、セキュリティーの方にも気を配っていれば。あんなに簡単に侵入される仕組みにしてさえいなければ。侵入されても勝てると驕ってしまったのだろうか。もっと注意深く生きようぜ最上。

襲撃を受けた白い最上が、ライダー達の心のやわらかいところを抉る攻撃を仕掛けたシーンでは、あぁーやっぱりここはきちんと前作を知らないとわからないなぁ、と惜しい思いをした。しかしわからないながらも、アイスがすごく好きな人と共闘し、再度別れるシーンは感じ入るものがあった。あれはソーダアイスかな……。

派手なアクションと爆炎、格好良く心躍る変身シーンに、数々の武器やアイテム、仲間との共闘。バイクでバッタバッタと敵を轢き倒しながら前進するライダーに対し「あれって乗り物じゃなくて武器だったんだな」と笑いつつ、初めての仮面ライダーを堪能した。面白かった。子供向けの作品だからと言って妥協せず、なるべく子供にわかりやすい言葉やシーンを選びながら物語を組み立てているのが素敵だ。例えばひたすらパソコンのキーボードをうるさいくらいカタカタ叩いているシーンとか。若干不自然にも見えるが、あれは「必死で調べている」ことをわかりやすく伝えようとしているのだろう。もう一つの地球が迫ってくるシーンも子供に「パラレルワールド」をわかりやすく伝えようとした結果の描写に違いない。

もしかしたら、この映画を夢中で観た子供も物語の全てを理解しきれなかったかもしれない。パラレルワールドが何だかわからなかったかもしれない。しかし、好きなものについて知りたい気持ちが自然に起こるように、背伸びをしながら物語を理解しようと齧りつく子供は絶対にいる。だからきっと、ちょっと難しいくらいがちょうど良いのだ。

次回は登場人物の関係図も頭に入れて、もう一度この映画を観てみようと思う。その後はそうだな、おすすめしてもらった仮面ライダーオーズを観ることにしよう。

それにしても研究所を追い出される前の最上の横顔が非常に美しかったことと言ったら。ブルーレイが出たら絶対買おう。うん。



日記録0杯, 日常

2017年12月5日(火) 緑茶カウント:0杯

パッと目が覚めたら室内はまだ真っ暗だった。カーテンの外から漏れる明かりも見えない。手探りで置時計を手に取ると、時刻は午前三時半。まだまだ起床には遠い時刻だった。

かすかな音を立てながら加湿器が蒸気を吹いている。己が寝ている間もずっと動き続けていたんだな、と当たり前のことを確認したのは、よく働いてくれているこの機械にいつの間にか親しみを感じるようになったからだろう。ありがとう、君のおかげで咽喉が涸れることなく眠りに就くことができる。

布団から抜け出し、冷たいフローリングの床を爪先立ちで歩きながら台所へと渡る。蛇口をひねり、コップの水を一杯。ぐっぐっと飲み下し息をつけば、カーテンのかからない台所の窓は真っ黒に染められていた。うん、まだ夜だ。程なくして明け方が訪れるだろうがまだ夜だ。

半纏の前をかき合わせながらいそいそと布団に戻り、横になって爪先をこすり合わせる。そしてこぼれる笑い声一つ。ふは。ふはは。いくらなんでもなぁ。

午前三時半。夜も明けぬうちに目が覚めたのは、「さあ今日のおそ松さんはどんな話かなぁ起きてから録画を観るのが楽しみだなぁ」とわくわくしながら布団に入り、わくわくしたまま眠りに就き、わくわくしすぎて起きてしまったため。置時計を手に取った瞬間、通常であればまだまだ寝られることに気付いてハッピーになれるはずなのに、「よし! おそ松さんの最新話を観られるぞ!」と意気込んで起きてしまったために、うん。がっかりした。

水を飲み、気持ちを落ち着けて布団に入る。こぼれる笑いは一つ。ふは。ふはは。いくら楽しみだからって。いくら楽しみだからって! 三十過ぎの大人にもなって、遠足前夜の小学生のような真似を!

とはいえ、これだけ楽しみに思えるものを持てるのは幸せだ。うん。ハッピーだよ己は。とても。