日記録0杯, 日常, 漫画

2017年7月13日(木) 緑茶カウント:0杯

四十年ぶりに描かれた「ポーの一族」を傍らに置き、めくるページは角が丸くなった文庫本。四十年前に発表され、何度も読み返したそれをパラパラとめくりながら、時にじっくりと物語に耽り、思い出を反芻して世界に浸る。「わたしのことなぞ忘れたろうね」「覚えているよ 魔法使い」のやりとりは何度見てもこみ上げるものがある。

まさか新作が出ようとは夢にも思わなかった作品の新たなページに、物語。しかし買ったもののページを開かず、つい書棚に手を伸ばしてしまったのは、読みたい気持ちと半々に混ざるものの由縁だろうか。「ポーの一族」を教えてくれた人は新作の発表を知らずにこの世を去った。読むことで生まれる死者との相違が怖いのか、寂しいのか。死者の時間が進まないことを認識させられるのが悲しいのか。それとも、四十年を越えて動き出す物語の行く末が不安なのか。

時が止まった少年達の物語。描く筆致には四十年の歳月が滲み、表紙には流れる時と流れない時が同じように横たわっている。

もう少し経てば開けるだろう。それまではしばらく、このままで。



日記録4杯, おそ松さん, 日常, 漫画

2015年11月22日(日) 緑茶カウント:4杯

毎週、あはははは、と笑う中、ふとしたときに感じるゾッとしたもの。この正体について考えたくなったのでちょっとまとめてみようと思う。

赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」が原作のアニメ、「おそ松さん」。小学生だった六つ子が大人になった世界を描くギャグアニメだ。先に断っておくと、己は原作の「おそ松くん」をそもそも読んでいない。イヤミと「シェー!」というギャグこそ知っていたものの、それが「おそ松くん」由来だとは知らなかったくらい知識が無い。ただ大人になった「おそ松さん」達は、成長したことで各々個性が生まれているらしいという知識は得ている。

「おそ松さん」の世界では、成人するも就職せず、家でだらだらしながらモラトリアムを満喫する六つ子の日常が描かれている。彼らは屋台で酒を呑み、ギャンブルをし、性にも興味を持っている立派な成人男性だ。しかしここがポイントで、彼らの見た目は成人男性らしさが一切ない。一見すると、小学生の「おそ松くん」と大差ないのである。丸っこいディフォルメのきいたキャラクターデザインで、衣装はおそろいの色違いパーカー。ヒゲも無ければすね毛もなく、中には小学生よろしく半ズボンを穿いている者も。そして居間でだらだらしたり、梨や今川焼きに狂喜乱舞したり、一枚の布団で六人仲良く寝たりするのである。

そう、彼らはあくまでも「大人」という設定であるにも関わらず、その外見と言動には子供らしさが色濃く残ったままなのだ。故に視聴している最中、たびたび彼らが「成人男性」であることを忘れてしまう。

ところが。このアニメは「彼らが成人男性である」ことを忘れて良い世界観で作られていない。彼らが生きているのは、明るくポップな色彩で描かれていて、パンツ一丁で町を歩くデカパンがいて、無限増殖する怪人ダヨーンがいて、人の心を喋る猫がいる。まるで現実と切り離されたユートピアのようだ。だからいつまでも働かずモラトリアムを楽しんでいられる、そんな幸福な世界観……ではない。

「おそ松さん」達の住む世界はダヨーンも喋る猫もいるが、決してユートピアではないのだ。しっかりときっちりと、「大人は年相応に働かなければならない」という価値観が存在していて、視聴者の住む世界と地続きになっている。だが、ユートピアでも何でもない「こちら側」に近い価値観の世界に住んでいながら、彼らは六人揃って二十歳を過ぎても働かず昼過ぎに起きて、子供のようにおそろいのパーカーを着て暮らし、同じ布団で眠るのである。

そしてここが味噌なのだが、彼らは「完全に中身が子供」でもない。大人であることを求められる世界で、大人になりきれていないくせに、酒やギャンブルを楽しむ大人らしさは持っているのだ。

では、そんな人間を「こちら側」の価値観にあてはめて考えるとどう捉えられるだろうか? その答えは既に作中で語られている。それも本人達によって。

子供らしさを色濃く残した十四松を筆頭に、彼らは大人になりきれない。そのうえそんな六つ子を「ニート達」と呼びつつも母親は優しく受け入れている。剥いた梨を与える姿はまるで小学生に対するもののようで、そして六つ子も子供のように喜んでいるが………これはほほえましいのだろうか……。そう疑問符が浮かんだ瞬間に、恐怖を感じるのである。

何が怖いって、「おそ松さん」達はあたかも子供のように描かれていながら作中でそれが常に否定されていて、たびたび「彼らが異常であること」を意識させる仕掛けになっていることだ。作中では何度も何度も念押しするように「クズ」「ニート」「無職」といった言葉が出てくる。もっとライトな「バカ」程度じゃ済ませてくれない。そして視聴している空間がユートピアでないことを思い出すたびに、彼らの存在をリアルに考えさせられるのだ。例えば十四松。彼は愛すべきキャラクターだ。野球が大好きで、まっすぐで、時折目の焦点が合っていなくて、どぶ川をバタフライするなどといった突拍子もない行動をとる、おバカで可愛い奴だ。アニメキャラとして考えるととても魅力的だ。しかし一旦、「こちら側」の世界観で見つめてしまうと……。

その怖さは不安に近いものかもしれない。

おそ松さん達の日常は、永遠にモラトリアムが許されたのんびりした空間のように見えるのに、実際は全くそんなことはなく、よく見るとブラックな、笑えない世界が描かれているんじゃないか……? そんな風に思わされるのである。

六つ子達のイタズラと暴力がまたえぐい。パチンコに勝って数万円儲けただけで、何の罪もないトド松は縄で縛られて自転車で引きずられる。誘拐され火あぶりの刑に処せられたカラ松は兄弟全員から石臼やフライパンを投げられて流血のうえ気絶。そしてまたトド松だが、彼はアルバイト先で知り合った女の子との呑み会でえげつない姿で裸踊りをやらされて、築いた地位から引き摺り下ろされる。まぁ、トド松の裸踊りに関しては、トド松自身にも非があるのだが……。

念のため言っておくが、己は「アニメでこんなにひどい暴力を描くなんて!」と怒っているわけではない。ただ、子供のように見えるが実は子供でも何でもない彼らの手によって、唐突にえぐい暴力が突っ込まれるギャップに背筋がちょっとゾッとするのである。無論、再三ここにも書いているが、作中で飲酒をするシーンもギャンブルをするシーンも描かれている。決して子供では無いと物語は語っている。しかしやっぱり子供、良くても高校生にしか見えないのだ。

そして、手加減を知らない子供ならまだしも、そろそろ無邪気を脱出しなきゃいけない年齢だよな……? と気付くと、よりえぐく見えるのである。

子供みたいな見た目で、子供みたいな言動をする六つ子達に垣間見える「大人」のギャップによる違和感に怖さを感じながら、今の状態で二十数歳になるまでにどんな履歴があったのかと考えてしまう。トド松がアルバイト先で大学生と偽っていたことから類推するに、彼らはせいぜい二十歳ないしは二十二歳くらいだろうか。すると、六人全員が同時に大学に行くには学費の捻出が厳しいため、高校卒業後は就職という前提で進路を決めたにも関わらず、何と無くだらだらして今に至ってしまったのかもしれない。

話を戻そう。これが大事なところなのだが、「おそ松さん」という作品に抱く違和感による恐怖について長々とここに書いたが、その恐怖が決して不快なわけではなく、むしろ味わい深いのが面白い。単純に笑いながらふとしたときに現実に引き戻される瞬間、六つ子達を非現実の世界から現実の世界へ引っ張り込み、より一層近しい存在と捉えて思考し興味を抱く。単純にギャグアニメとして面白いのだが、その、何とも言えない妙味に己は引きつけられているのかもしれない。

と、こんだけ語っておいて己は未だ満足に六つ子を見分けられないのだが。十四松はわかる。一松もわかる。最終回までには見分けられるようになりたい。



日記録2杯, 日常, 漫画

2014年9月3日(水) 緑茶カウント:2杯

Mr.FULLSWING、通称ミスフルという漫画を高校時代愛読していた。それは野球漫画のようなギャグ漫画で、試合中に唐突にギャグが挟み込まれ、登場人物は主人公以外全員奇抜な格好で、中には卒塔婆を持ち歩いたり馬に乗ってグラウンドに乱入する者もいる。語尾は必ず奇抜でなくてはならず、カッコ笑いや顔文字まで語尾と化し、話が進むにつれまともな格好の人物は減っていく。そんな漫画だ。

我が家はそもそも野球に関心が薄い家で、テレビで野球観戦をした記憶は無い。両親はサッカーに夢中で、自分はスポーツにはさして興味が無く、球技が嫌いで、体育の時間でも野球やハンドボールに触れる機会が無かったため、野球のルールを知らずに育ち、ミスフルを読んで初めて野球を知ったのだった。そのため、未だに野球のルールを理解出来ていないのである。わかったのはショートなるポジションは余った人をとりあえず配置する場所では無いということと、ホームランを打てば三点入るわけでは無いということ、腹に頭突きをしてはいけないことくらいだ。

野球漫画のようなそうでないようなこの漫画。自分にとっては思い出深い作品で、ミスフルについてなら一晩語り続けられる自信があるほど愛着がある。ただ愛の方向性が多くのファンとずれている自覚があり、作品完結後に発売された文庫本に書き下ろされた、大多数のファン向けと思われるおまけ漫画に対し、「あぁ! そうじゃない! そんなものは求めていないのだよ!」と拒否反応を示した自分は同好の士に出会ったことがなく、一度思いっきりミスフルのおかしさについて語り明かしたいものだと思いつつ、たまに思い出しては衝動のスイッチが入り、ひたすらこのように思いの丈を書き付けるのである。



日記録3杯, 日常, 漫画

2013年10月19日(土) 緑茶カウント:3杯

やばい、ヘルシングが面白い。いや、やばいことなど何も無いのだが、やばい。思わず語彙が少なくなってしまったが、四巻から加速度的に面白さが増して行き、五巻を買った翌日に同じ本屋で六巻を購入した。そして今は七巻を読みたくてたまらない衝動をじっと抑えるのに必死になっている。一気に読んでしまいたいが、たった十巻しか無いのだ。一度に一口に味わってはもったいない。もっとゆっくり味わわなくては。でも読みたい。

六巻で、鼻血を出しながら単身剣を片手に化物の大群に向き合い、啖呵を切るインテグラのもとに現れた宿敵・アンデルセン神父の咆哮。ゾクゾクした。ルークを歯牙にもかけず圧倒的な強さで叩き潰すアーカード、命令と称して弱ったセラスに血を飲ませるインテグラ、少佐の狂った大演説、咽喉を噛まれ吸血される魔弾の射手、臆病なりに部下を思いやりながら最期まで戦ったペンウッド卿、見所を数え上げればキリが無いが、現状、一番高揚したのが件のシーンである。

時折弱さを見せながらも非常な指揮官に徹し、命令を下す姿も人間らしくて美しいが、指揮を執るだけでなく自ら戦う力を持っていることも素晴らしい。特に、髪が完全にストレートになってからのインテグラの格好良さったら他に無い。何て凛々しいのだろう。そして、何て面白いのだろう! 己は七巻を買うべきか否か。あぁ、衝動を抑えるのが難しい。



日記録3杯, 漫画

2013年10月18日(金) 緑茶カウント:3杯


131018_2019

買ってやったぜ!

「動物のお医者さん」の愛蔵版の一、二巻、「ヘルシング」の四巻五巻、「マギ」の十九巻、「ジョジョリオン」の五巻、「銀の匙」の九巻! これを土日、布団の中で読み倒すのだ。

「動物のお医者さん」は実家に母が所有する単行本があるのだが、たびたび「このカシオミニをかけてもいい」といった懐かしのフレーズを思い出しては手元に置きたいと思っていたので愛蔵版の発売を機に、ついに手を出した。

買って良かった。しみじみと面白さを噛み締めている。それにしても二階堂という男、子供の頃はさして何も思わなかったが、大人になってから読むとあまりの主体性の無さにびっくりする。何となくハムテルについていって獣医になるのはある意味すごい。もしハムテルが何かの理由を持って大学をやめたら、特に理由も目的もなく何となく大学をやめてしまうんじゃなかろうか、と思うほどである。

これのドラマも面白かったなぁ。思えばあれが放送されたのはもう十年前になるのか。我が家において、要潤は未だに「二階堂」と呼ばれている。多分一生呼ばれ続けるだろう。あの二階堂ははまり役だった。