「おそ松さん」に感じる恐怖

2015年11月22日(日) 緑茶カウント:4杯

毎週、あはははは、と笑う中、ふとしたときに感じるゾッとしたもの。この正体について考えたくなったのでちょっとまとめてみようと思う。

赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」が原作のアニメ、「おそ松さん」。小学生だった六つ子が大人になった世界を描くギャグアニメだ。先に断っておくと、己は原作の「おそ松くん」をそもそも読んでいない。イヤミと「シェー!」というギャグこそ知っていたものの、それが「おそ松くん」由来だとは知らなかったくらい知識が無い。ただ大人になった「おそ松さん」達は、成長したことで各々個性が生まれているらしいという知識は得ている。

「おそ松さん」の世界では、成人するも就職せず、家でだらだらしながらモラトリアムを満喫する六つ子の日常が描かれている。彼らは屋台で酒を呑み、ギャンブルをし、性にも興味を持っている立派な成人男性だ。しかしここがポイントで、彼らの見た目は成人男性らしさが一切ない。一見すると、小学生の「おそ松くん」と大差ないのである。丸っこいディフォルメのきいたキャラクターデザインで、衣装はおそろいの色違いパーカー。ヒゲも無ければすね毛もなく、中には小学生よろしく半ズボンを穿いている者も。そして居間でだらだらしたり、梨や今川焼きに狂喜乱舞したり、一枚の布団で六人仲良く寝たりするのである。

そう、彼らはあくまでも「大人」という設定であるにも関わらず、その外見と言動には子供らしさが色濃く残ったままなのだ。故に視聴している最中、たびたび彼らが「成人男性」であることを忘れてしまう。

ところが。このアニメは「彼らが成人男性である」ことを忘れて良い世界観で作られていない。彼らが生きているのは、明るくポップな色彩で描かれていて、パンツ一丁で町を歩くデカパンがいて、無限増殖する怪人ダヨーンがいて、人の心を喋る猫がいる。まるで現実と切り離されたユートピアのようだ。だからいつまでも働かずモラトリアムを楽しんでいられる、そんな幸福な世界観……ではない。

「おそ松さん」達の住む世界はダヨーンも喋る猫もいるが、決してユートピアではないのだ。しっかりときっちりと、「大人は年相応に働かなければならない」という価値観が存在していて、視聴者の住む世界と地続きになっている。だが、ユートピアでも何でもない「こちら側」に近い価値観の世界に住んでいながら、彼らは六人揃って二十歳を過ぎても働かず昼過ぎに起きて、子供のようにおそろいのパーカーを着て暮らし、同じ布団で眠るのである。

そしてここが味噌なのだが、彼らは「完全に中身が子供」でもない。大人であることを求められる世界で、大人になりきれていないくせに、酒やギャンブルを楽しむ大人らしさは持っているのだ。

では、そんな人間を「こちら側」の価値観にあてはめて考えるとどう捉えられるだろうか? その答えは既に作中で語られている。それも本人達によって。

子供らしさを色濃く残した十四松を筆頭に、彼らは大人になりきれない。そのうえそんな六つ子を「ニート達」と呼びつつも母親は優しく受け入れている。剥いた梨を与える姿はまるで小学生に対するもののようで、そして六つ子も子供のように喜んでいるが………これはほほえましいのだろうか……。そう疑問符が浮かんだ瞬間に、恐怖を感じるのである。

何が怖いって、「おそ松さん」達はあたかも子供のように描かれていながら作中でそれが常に否定されていて、たびたび「彼らが異常であること」を意識させる仕掛けになっていることだ。作中では何度も何度も念押しするように「クズ」「ニート」「無職」といった言葉が出てくる。もっとライトな「バカ」程度じゃ済ませてくれない。そして視聴している空間がユートピアでないことを思い出すたびに、彼らの存在をリアルに考えさせられるのだ。例えば十四松。彼は愛すべきキャラクターだ。野球が大好きで、まっすぐで、時折目の焦点が合っていなくて、どぶ川をバタフライするなどといった突拍子もない行動をとる、おバカで可愛い奴だ。アニメキャラとして考えるととても魅力的だ。しかし一旦、「こちら側」の世界観で見つめてしまうと……。

その怖さは不安に近いものかもしれない。

おそ松さん達の日常は、永遠にモラトリアムが許されたのんびりした空間のように見えるのに、実際は全くそんなことはなく、よく見るとブラックな、笑えない世界が描かれているんじゃないか……? そんな風に思わされるのである。

六つ子達のイタズラと暴力がまたえぐい。パチンコに勝って数万円儲けただけで、何の罪もないトド松は縄で縛られて自転車で引きずられる。誘拐され火あぶりの刑に処せられたカラ松は兄弟全員から石臼やフライパンを投げられて流血のうえ気絶。そしてまたトド松だが、彼はアルバイト先で知り合った女の子との呑み会でえげつない姿で裸踊りをやらされて、築いた地位から引き摺り下ろされる。まぁ、トド松の裸踊りに関しては、トド松自身にも非があるのだが……。

念のため言っておくが、己は「アニメでこんなにひどい暴力を描くなんて!」と怒っているわけではない。ただ、子供のように見えるが実は子供でも何でもない彼らの手によって、唐突にえぐい暴力が突っ込まれるギャップに背筋がちょっとゾッとするのである。無論、再三ここにも書いているが、作中で飲酒をするシーンもギャンブルをするシーンも描かれている。決して子供では無いと物語は語っている。しかしやっぱり子供、良くても高校生にしか見えないのだ。

そして、手加減を知らない子供ならまだしも、そろそろ無邪気を脱出しなきゃいけない年齢だよな……? と気付くと、よりえぐく見えるのである。

子供みたいな見た目で、子供みたいな言動をする六つ子達に垣間見える「大人」のギャップによる違和感に怖さを感じながら、今の状態で二十数歳になるまでにどんな履歴があったのかと考えてしまう。トド松がアルバイト先で大学生と偽っていたことから類推するに、彼らはせいぜい二十歳ないしは二十二歳くらいだろうか。すると、六人全員が同時に大学に行くには学費の捻出が厳しいため、高校卒業後は就職という前提で進路を決めたにも関わらず、何と無くだらだらして今に至ってしまったのかもしれない。

話を戻そう。これが大事なところなのだが、「おそ松さん」という作品に抱く違和感による恐怖について長々とここに書いたが、その恐怖が決して不快なわけではなく、むしろ味わい深いのが面白い。単純に笑いながらふとしたときに現実に引き戻される瞬間、六つ子達を非現実の世界から現実の世界へ引っ張り込み、より一層近しい存在と捉えて思考し興味を抱く。単純にギャグアニメとして面白いのだが、その、何とも言えない妙味に己は引きつけられているのかもしれない。

と、こんだけ語っておいて己は未だ満足に六つ子を見分けられないのだが。十四松はわかる。一松もわかる。最終回までには見分けられるようになりたい。



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