日記録6杯, 日常

2017年12月17日(日) 緑茶カウント:6杯

急須がほっこり温かくて、時間を置いて手を乗せてもまだ温かくて、空の急須からじんわりと伝わる熱と、咽喉を通って胃袋に届く緑茶の熱い熱を感じて、六畳間にて一人、ほっとしたのであった。

傍らでは加湿器がしゅんしゅん沸いている。その横には買ったばかりのちょっと良いシャツが吊るされている。さらにその横に洗濯し、水分をまとった使い古しのタオルに寝巻き。それらに温かな風をあてるのは六畳間専用のエアコン。朝からずっと労働を余儀なくされ、文句も言わず働いている。

向かって左にはベッドがあり、その上に乗るのは太陽光をいっぱいに浴びたものの、寒空に放り出されて冷え切った布団だ。それも、エアコンの風を浴びてようやく温まった頃だろう。ほう、と一息つきながら緑茶をもう一口。熱湯を注ぐ気はなかったが、冷めるのを待てなかったために随分熱い。故に苦味が強いが、まぁ美味しい。

昨日は仮面ライダーの映画を観た。二回目だ。初回に比べ、登場人物の関係性や世界観の設定も理解が深まっていたためにより物語を楽しむことができた。面白かった。そしてこの日は何故だか早くに眠くなり、普段よりも随分早く、二十四時頃に布団に入り、うとうと眠って起きたのが九時。何と健全な時間だろう。驚愕しつつせっかくなのでと朝日に布団を浴びせ、洗濯をし、ゴウンゴウンと洗濯機の鳴る音を聞きながらトイレ掃除その他の諸々の用事を済ませ、昼には牛乳を飲みつつパン屋の美味しいパンを食べ、日が暮れる前に習慣にしている常備菜作りを終えた。

ぷかあ、と、己が煙草喫みなら、ここで一服楽しんでいるのだろうね。

代わりに湯船になみなみたたえた温度の水に体を浮かべ、はぁ、と息を吐き、そろそろ髪を切りたいなぁ、ついでにいっそ次は試しに金髪にしてみっかなぁ、と思う。風呂上りにはこの日拵えた様々な副菜と主菜を一つ皿に並べ、とっとっとっとビールを注ぎ、音の鳴らない乾杯で虚空を揺らす。ビールっつったら五百が当たり前だったが、このところは三百五十も呑みきれない日があって、それはとにかく疲れているから。疲労のあまりたかだか三百五十のビールに含まれるアルコールすらままならない。しかし今日は五百を三本呑んでもよゆーよゆー。あぁ、良い日だな。やはりビールの美味しさは健康のバロメーターだな、なんつって、人心地着いた後、こうして緑茶を片手に日記を書いている。先ほどよりも熱を失ったが、まだ急須は温かい。胃の底には茶葉を揺らして生まれたやわらかな香りの水がたゆたっている。あぁ、幸せだ、と胸に思って。



日記録0杯, 日常

2017年12月15日(金) 緑茶カウント:0杯

こはいかなる凶事ぞ。あれは五月のことである。大好きな筋肉少女帯のライブに参戦し、大いに盛り上がり、大いに楽しんだ夢のような日。その夢に溺れている最中、己は苦しみ喘いでいた。痛くて。辛くて。しんどくて。

何がって? 腕を挙げることが。腕を高々と掲げることが、さ。

そう。今まで何ともなかった「腕を挙げる行為」にしんどさを感じ、疲れに苛まれるほど己は体力を失っていたのである。

三十代。三十代だ。しかし三十代だ。そしてこの日自分が見上げていた、挙げた腕のその先にいる、ステージの上の人々は五十代だ。あの激しいステージを魅せてくれている人々は五十代なのだ。

ぜえはあと息を吐き呆然とする。いや、だめだろ。五十代の筋少メンバーがあんなに頑張っているのに、それを観ている自分が疲れ切って腕を挙げることにさえしんどさを感じていたらいかんだろ。三十代から体力は低下すると聞いたことはそりゃああるし、今まさに実感しているところだが、このままじゃあだめだろ、おい。

そう。己は筋肉少女帯のライブを観たいのだ。全力で楽しみたいのだ。体力を落としている場合じゃないのだ!!

ということで一念発起し体力づくりを始めたものの、うまい方法が見つからずこれがなかなか続かない。忙しさの波が来れば中断し、再開するもまた波が来て中断し、と中途半端な日々が続く。しかし諦めない。何故なら己は筋少が大好きだからだ。いつまでも筋少のライブを楽しみたいからだ!

そして最近、やっとコツを掴んで体力づくりを続けられるようになってきて、ちょっとずつだが筋肉がついてきた。先週のライブも疲れることなく腕を挙げきることができた。まだまだだが、ほんのちょっとだけ努力が実って嬉しい。

これからも頑張ろう。筋少のライブを楽しむためにも。筋少のライブを全力で楽しむためにも。

しかしまぁ、我ながら何だが、わかりやすい性格をしているね。ははは。



日記録0杯, 大槻ケンヂ, 日常

2017年12月9日(土) 緑茶カウント:0杯

どうしてか、これまでの人生で仮面ライダーに触れる機会がなく、一度も仮面ライダーを観ることなく大人になった。わりとテレビは自由に見せてもらえて、アニメもたくさん観て育ったのにどうしてだろう。我ながら不思議に思う。

それはあなたが幼少の頃は、ちょうど仮面ライダーが放送されていない期間だったからだよ、と同年代の方に教えてもらったのが少し前。しかしその同年代の方は仮面ライダーを観ている。曰く、再放送を観ていたらしい。

なるほどなぁと納得しつつ、三十一歳の今、映画館でビールを片手にポップコーンを食べながらスクリーンを見上げる。一つ空けて隣の座席にはパンフレットをくちゃくちゃに握り締めた男の子とそのお父さん。「誰々は出ないんだね、最近ドラマで忙しいからかな」と大人のような口ぶりで話す様子が愛らしい。公開初日だが、十八時開始の回を選んだため人がまばらで過ごしやすかった。ざっと見渡してみるに、時間帯のせいか子供よりも大人の客の方が多いようだ。

さて。何故今、わざわざ劇場に足を運び仮面ライダーを観ようとしているのか。どうして今日、自分はポップコーンを食べながらゆったりした座席に身を沈めているのか。答えは一つ、大槻ケンヂが出演するからだ。

まだ言えないけど、みんながびっくりする情報がそのうち公開されるよ、ともったいぶっていたオーケンからその情報がついに公開されたときの驚きたるや。えっ。えっ? えっ!? どうして、何がどうしてオーケンが仮面ライダーの敵役に? 何でまたオーケンが劇場版仮面ライダーに出演を?

オーケンが熱心に俳優活動をしていたならここまで驚くこともなかっただろう。そう、オーケンは過去にドラマや映画に出演したことこそあるものの、あくまでも職業はミュージシャンで作家なのだ。そしてまた、演技が苦手であることを公言している。故に楽しみであり、心配であり、楽しみであり、心配であった。

とにかく劇場に足を運ぼう、と心に決め公開を待つ日々。オーケンファンであり仮面ライダーファンの方から事前におすすめの仮面ライダーを教えてもらったものの、迷いつつもあえて予習をせずに映画を観ることにした。数回劇場に足を運ぶことは目に見えているので、せっかくなら何も知らない状態で観てみたいと思ったのだ。

あぁ、劇場が暗くなる。スクリーンに映し出される東映の文字と岩を打つ海。初めての仮面ライダー。ほとんど知らない仮面ライダー。いったいどんな映画なのだろう。

まず初めに驚いたのは、この世界には「仮面ライダーの成分」なるものが存在するということだった。何だ仮面ライダーの成分って? 仮面ライダーの成分を抽出し、ボトルに詰め、そのボトルをベルトに入れることで変身できるらしい。仮面ライダーの成分……面白い言葉である。

「仮面ライダーの成分」という耳慣れない不思議な言葉を味わいながらも、わっと心が弾んだのは変身シーンの格好良さ! ベルトを操作することでプラモデルの骨組みのようなものが展開し、ガチャンとパーツがセットされて変身する。これはすごい! 一度でもプラモデルを組み立てたことのある人ならきっとわくわくするだろう。そしてまた、このシーンを観た子供もプラモデルに憧れを抱くに違いない。

それぞれモチーフが異なるだけに仮面ライダーによって演出が全然違うのが面白い。なるほどなるほど、今はバッタの要素はほとんど無いんだなぁ。ゲームがモチーフの仮面ライダーは昔懐かしいスーパーファミコンの操作ボタンのようなデザインが胸を飾り、攻撃をすれば格闘ゲームのようなギミックが出て目を楽しませてくれる。どこかのシーンで一度やられたとき、土管のようなものから出てきてコンティニューが宣言されたときは笑ってしまった。

表情や台詞の一つ一つがコミカルかつオーバーで、子供にもわかりやすく演じているようだ。オーケンの演技が浮かないかハラハラしていたが、うまい具合にマッチしていて安心した。高らかに「ファンキー!」と叫び顔を歪めて笑う白い衣装の最上はライブのMC中にハイになってふざけているオーケンのようで、体の半分を失い、じっとりとした雰囲気を醸し出す青い衣装の最上は特攻服に身を包み、暗い歌をシャウトするオーケンのようだった。

オーケンファンとしては、この二人の最上を観たときに全てが腑に落ちた。「何故オーケンが仮面ライダーの敵役に抜擢されたのか」という謎が消えたのだ。パラレルワールドの二人の最上を合体させることで、不老不死の体を手に入れようとする最上魁星。パラレルワールドの二人の最上の陰と陽。ストーリーが先にあり、大槻ケンヂという人物が適任と見出されたのか、大槻ケンヂという人物から二人の最上が生まれたのか、気になるところである。

個人的に好きなのは二つの地球が衝突しそうになるとき、空に逆さまになったビルが映し出されるシーン。現実であればああいった光景が生まれることがないと予測は出来るが、わかりやすく、それでいて面白い画面になっていてとても好きだ。

かすり傷の描写はあるものの、流血シーンや直接的に人が死ぬシーンは無い。とはいえ、ビルがあれだけ派手に崩れたということは、最上魁星は結構な犠牲を出しているよなぁ。

しかし応援してしまう。最上魁星を。つい。何故ならオーケンファンだからだ。

左の席に座る男の子が、身を乗り出して画面を見つめる姿が視界の隅に映る。きっと拳を握り締め、ライダーを応援しているのだろう。あぁ、ごめんよ少年! 君には悪いが己は最上魁星を応援する! 頑張れ最上!!

応援しつつ思うことは、最上はいったいどうやってあのエニグマを作ったのか、ということ。あの資金はどこから出たのだろうか。そう、あのエニグマも格好良い。地球からぐっと手が伸び、近付くもう一つの地球から伸びる手へ、今か今かと渇望するように指先が伸ばされ、ぐっと握り締められた瞬間の美しさ! 思い出されるのは、劇中で崖から落ちそうになるライダーを助けようと手を伸ばすシーン。二つのエニグマが手を握り合うシーンは人類にとっては絶望的とも言える瞬間なのに、何故こうも美しく、感動的な描き方になっているのだろう。

エニグマの登場にもニヤニヤした。タイミング的に映画が先なのだろうか、十月に発売された筋肉少女帯の新譜「Future!」に「エニグマ」というタイトルがあるのである。呪文のような歌詞が並ぶプログレッシブ・メタル。これがまた妖しく格好良いのだ。

しかし最上の野望は潰える。あぁ最上よ、もっとこう、セキュリティーの方にも気を配っていれば。あんなに簡単に侵入される仕組みにしてさえいなければ。侵入されても勝てると驕ってしまったのだろうか。もっと注意深く生きようぜ最上。

襲撃を受けた白い最上が、ライダー達の心のやわらかいところを抉る攻撃を仕掛けたシーンでは、あぁーやっぱりここはきちんと前作を知らないとわからないなぁ、と惜しい思いをした。しかしわからないながらも、アイスがすごく好きな人と共闘し、再度別れるシーンは感じ入るものがあった。あれはソーダアイスかな……。

派手なアクションと爆炎、格好良く心躍る変身シーンに、数々の武器やアイテム、仲間との共闘。バイクでバッタバッタと敵を轢き倒しながら前進するライダーに対し「あれって乗り物じゃなくて武器だったんだな」と笑いつつ、初めての仮面ライダーを堪能した。面白かった。子供向けの作品だからと言って妥協せず、なるべく子供にわかりやすい言葉やシーンを選びながら物語を組み立てているのが素敵だ。例えばひたすらパソコンのキーボードをうるさいくらいカタカタ叩いているシーンとか。若干不自然にも見えるが、あれは「必死で調べている」ことをわかりやすく伝えようとしているのだろう。もう一つの地球が迫ってくるシーンも子供に「パラレルワールド」をわかりやすく伝えようとした結果の描写に違いない。

もしかしたら、この映画を夢中で観た子供も物語の全てを理解しきれなかったかもしれない。パラレルワールドが何だかわからなかったかもしれない。しかし、好きなものについて知りたい気持ちが自然に起こるように、背伸びをしながら物語を理解しようと齧りつく子供は絶対にいる。だからきっと、ちょっと難しいくらいがちょうど良いのだ。

次回は登場人物の関係図も頭に入れて、もう一度この映画を観てみようと思う。その後はそうだな、おすすめしてもらった仮面ライダーオーズを観ることにしよう。

それにしても研究所を追い出される前の最上の横顔が非常に美しかったことと言ったら。ブルーレイが出たら絶対買おう。うん。



日記録0杯, 日常

2017年12月5日(火) 緑茶カウント:0杯

パッと目が覚めたら室内はまだ真っ暗だった。カーテンの外から漏れる明かりも見えない。手探りで置時計を手に取ると、時刻は午前三時半。まだまだ起床には遠い時刻だった。

かすかな音を立てながら加湿器が蒸気を吹いている。己が寝ている間もずっと動き続けていたんだな、と当たり前のことを確認したのは、よく働いてくれているこの機械にいつの間にか親しみを感じるようになったからだろう。ありがとう、君のおかげで咽喉が涸れることなく眠りに就くことができる。

布団から抜け出し、冷たいフローリングの床を爪先立ちで歩きながら台所へと渡る。蛇口をひねり、コップの水を一杯。ぐっぐっと飲み下し息をつけば、カーテンのかからない台所の窓は真っ黒に染められていた。うん、まだ夜だ。程なくして明け方が訪れるだろうがまだ夜だ。

半纏の前をかき合わせながらいそいそと布団に戻り、横になって爪先をこすり合わせる。そしてこぼれる笑い声一つ。ふは。ふはは。いくらなんでもなぁ。

午前三時半。夜も明けぬうちに目が覚めたのは、「さあ今日のおそ松さんはどんな話かなぁ起きてから録画を観るのが楽しみだなぁ」とわくわくしながら布団に入り、わくわくしたまま眠りに就き、わくわくしすぎて起きてしまったため。置時計を手に取った瞬間、通常であればまだまだ寝られることに気付いてハッピーになれるはずなのに、「よし! おそ松さんの最新話を観られるぞ!」と意気込んで起きてしまったために、うん。がっかりした。

水を飲み、気持ちを落ち着けて布団に入る。こぼれる笑いは一つ。ふは。ふはは。いくら楽しみだからって。いくら楽しみだからって! 三十過ぎの大人にもなって、遠足前夜の小学生のような真似を!

とはいえ、これだけ楽しみに思えるものを持てるのは幸せだ。うん。ハッピーだよ己は。とても。



日記録2杯, アルバム感想, 日常, 筋肉少女帯

2017年12月3日(日) 緑茶カウント:2杯

発売日から毎日毎日、憑かれたように聴き続けたのは筋肉少女帯の新譜「Future!」。「新人」も「シーズン2」も「蔦からまるQの惑星」も、「THE SHOW MUST GO ON」も「おまけのいちにち(闘いの日々)」も、それぞれ特別なアルバムであったが、中でもこの「Future!」は抜きん出た存在である。

その由縁は「告白」の存在が大きい。

実を言うとまず一回目に「Future!」を聴いたとき、「オーケントレイン」「ディオネア・フューチャー」の二曲がピンと来ず、「人から箱男」を聴きながら己は不安を抱いていた。ずっと好きだった筋肉少女帯。ずっとぐっと来ていた筋肉少女帯に、ついに「何か違う」としっくり来ない感覚を抱く日が来たのかと。それは怖くもあり寂しくもあり、悲しい予感であった。

若干ではあるが、発売前から「Future!」という明るく前向きなタイトルに違和感を抱いてた。自分はまだここにいるのに先を越されてしまったような不安感があった。「ゾロ目」で何度も何度も過去をやり直そうと、巻き戻そうとしていた死ぬ物狂いの執着を見せ付けられ、その力強さに励まされていたのに、それを提示していた人が過去を振りきり未来へ向かってしまう後姿を眺める寂しさ。一本指立てて目指す先にまでまだ頭を切り替えられない悲しさ。その先を明るく見つめることが今の自分にはまだできない、と感じさせられる苦しさ。故に、パッカリと口を開けて獲物を待ち構えるハエトリソウ・ディオネアの色鮮やかなジャケットデザインから、その指し示される「Future!」に、どこか不穏なものがあって欲しい、と願う気持ちがあった。

その寂しさの、悲しさの、苦しさによる霧がパッと晴れたのが「告白」だった。

筋少初のテクノサウンド、という今までの筋少には無い異色の一曲は、「世間」や「普通」がわからない人間を歌った曲だ。これを聴き、歌詞を読んだ瞬間の衝撃は忘れられない。誰もいない部屋で、「ありがとうオーケン」という一言が零れ落ちた。

自分は決して誰も愛していないわけではないし、その場をしのぐために感謝の言葉を紡ぐこともない。しかし、「告白」に描かれる人物そのままではないが、いくらでも身に覚えがある。空気を読んで調子を合わせて迎合しきった結果、上手に化けた結果仲間意識を持たれてしまい苦しみに苛まれる経験なんぞ何回あったかしれやしない。大切に思う人はいる。大事に思う人もいる。友人もいる。ただしいつまで経っても性愛がピンと来ず、必要性も感じない。男性も女性もそれぞれ違って、それぞれ異性であるように思う。だが、自分の世界に同性はいない。故に距離感を間違えて傷つけてしまったこともある。何でこうなってしまったのだろうなぁ、と悲しむこともある。

それを歌ってくれた気がした。この歌詞そのままに歌われているわけではないが、そういった、世間一般の感覚とのズレを抱いて生きている人々を歌ってくれているような気がした。このとき、「Future!」の捉え方がガラリと変わった。

この「人間モドキ」にも、過去に苛まれ悪夢を見る者にも、何かをやらかしてしまって許されざる者にも、悔いが残ってやりきれない者にも未来があって、それがどんな未来かわからないし、希望があるかもわからないけど先を目指そうと。でも、未練を断ち切れない人を無理矢理連れて行くことはしないと。そう歌っているのである。

目指す先が希望であるとは決して断言されていない。もしかしたら絶望かもしれない。絶望の果て、来世でようやくニコニコ暮らせるかもしれない。でも、それもわからない。

それでも未来を目指そうと言う力強さ。未来を信じろと言う心強さ。それは「オーケントレイン」から「ディオネア・フューチャー」へ引き継がれている。そしてまた、「ディオネア・フューチャー」によって描かれる未来のあたたかさと、そこに至るまでの辛さが描かれる。ディオネアの、ハエトリソウの、あのトラバサミのような口に包まれ、ドロドロに溶かされ、栄養となって吸収され、つぼみとなり、ようやく白い小さな花を咲かせるまでの未来。どんなに恋しい過去も、しんどい現在も飲み込んで、ドロドロに溶かし消化する時間を持って初めて白い花へと咲くことができる。そこに至るには時間がかかる。故に無意識をもって、電波によって、メッセージを送って、脳Wi-Fiを使って何度も何度もおせっかいを言い切る。「信じろ!」と。そのうえで進んでようやくだ、と。そうしてあたたかな未来を見つけたら、ギュッと抱きしめて放すなよ、と。

自分は決して絶望していない。日々の暮らしをコツコツと重ね、ライブに行き、好きな音楽を聴き、本を読んで絵を描いて、時に忙しさに眩暈を覚えながらも平穏に暮らしている。少しの運動と地味ながらも品数のある夕飯。好きなときに観られるDVDに好きなときに聴ける音楽。たまの外食に、のどかな時間。幸福だが、パートナーがいない、子供がいない点を持って、不幸と決め付け哀れみの眼差しを送る人間もいる。そういった眼差しを受けるにつけ、参ったなぁ面倒くさいなぁ、と嫌気が差す。

まるでね、そういった独り身の人間には何も未来がないような、ただここからだらだら生きて死ぬだけだ、とでも言いたげな、そんな空気を感じていたのさ、プレッシャーをかけつつ哀れみの眼差しを送る人間に。

でも、どんな人間にも、人間モドキにも未来はある、と断言してくれたのがこの「Future!」なのだよ。

「オーケントレイン」で己が一等好きなのは「とらわれちゃイヤさ」という歌詞である。「とらわれちゃダメ」ではなく「とらわれちゃイヤ」。「ダメ」は単に否定するだけだが、「イヤ」には過去に囚われている人を見つめて、「そのままじゃイヤだな、解放されてほしいな」という思いが乗っている。その気持ちを乗せて歌ってくれているのである。

「ハニートラップの恋」は何と言っても最後の二行に全てが集約されている。ここに至るまで、ハニートラップの女が今まで普通に恋をできなかったこと、その果てに死ぬ悲しさが描かれる。だが、この女にはヒモの男がいたのだ。うっとりとハニートラップを仕掛けた男と最期の恋を楽しみながらも、もともと彼女にはヒモ関係の男がいた。そして、このヒモの男が彼女と相手の男を撃ち殺して泣くのである。

何が悲しいって、このヒモの男にとって彼女は大切な人間だったが、彼女にとっては何でもない存在だったってことなのだ。それを思い知らされる寂しさと悲しさ。何だよこれ。ヒューヒューワーワー言っている場合ではない。

「3歳の花嫁」は力技で感動させられる曲である。これはすごい。最後まで聴いたところで父親への印象が覆ることはないのに、空に向かってちっちゃな手をひらひら振る女の子の愛らしさで涙腺が刺激されるのである。

「結婚式」という人生の中でも大きなイベントを父親と開くことになって、将来黒歴史にならないだろうか、大丈夫だろうかと不安が募る。この父親の愛は本物だ。本気で娘を大事に思っている。だからこそ、愛情表現のズレ方が怖い。いくら愛娘の願いを叶えるためとはいえ普通結婚式を挙げることなぞしないだろう。

だからきっと、この父親も世間一般の感覚とはズレた人間モドキなのだ。でも、娘のことは本気で愛しているのだ。

ふと思ったのは招待リストに逃げた嫁を入れようか悩むシーン。普通なら「おいふざけんな」と言いたくなるところであるが、この結婚式をきっかけに自分の余命を伝え、愛娘の今後を託そうとしたのではないか……とも考えられる。そう思うと、ちょっと切ない。

「エニグマ」はアルバムの発売前に公開されたため、発売前からエンドレスリピートしていた一曲だ。これについて己がすごいなと思ったのは「ガストンの身にもなってみろ!」という歌詞。これの由来は「美女と野獣」で、ガストンは村に全く別の価値観が投入されたことによって、最終的には命を落とす役回りであると言う。あると言う、と伝聞形式なのはアニメ「美女と野獣」を観たのが二十年近く前でほとんど内容を覚えていないからである。すまぬ。

ただ覚えていないながらもその説明を聞いて思うことは、オーケンは決してガストン系の人間ではないのにガストンに思いを馳せられる人であるということ。自分が今まで生きてきた世界に全く別の価値観を投入されたら対応できるか? 考えを変えられるか? もし自分がその立場だったらどうだろうか? という自問自答がここにある。

自分の大切なものを守るのはたやすい。感情移入しているからだ。しかし、自分がどうでもいい、興味がない、と思っているものを守るのは難しい。自分の場合はまず煙草に喫煙所、コンビニの成人向け雑誌も卑猥な雑誌もいらない。だが、あくまでも自分がいらないだけで、必要としている人もいる。そこに意識を向けるにはエネルギーが必要で、それを常々痛感している。

そういった「自分と違うもの」へ思いを馳せることもできる人なのだ、オーケンは。

「告白」については前にも語ったが、もう一つ語りたいのは最後のシーン。「ボクの告白は以上さ 紅茶が冷めちゃったね」「そうか君も同じなのか」で、舞台が喫茶店のテーブルであることがわかる。ここでさ、「そうか君も同じなのか」と言っているけれど、「君」はきっと、勢いに押されて「うん、うん、わかるよ。私もそういうことあるよ」と同調してしまっただけで、彼との同類ではない気がするんだ。

同じように「同類ではないのではないか」と感じるのが「サイコキラーズ・ラブ」。「サイコキラーズ・ラブ」はアルバム発売前にライブで演奏されラジオで流されと、耳にする機会が多い曲で、聴くたびにじっくり考え、聴く前からも既に聞いた人々の評判を聞いて期待に胸を膨らませていた。それはもう、実在のサイコキラーについて自ら調べるほどに! そうして調べて、思ったことがあった。

この歌で描かれているのは、サイコキラーじゃないのではないかな、と。

この曲は、人間モドキの女とサイコキラーの男の物語のように思う。虫や鳥や猫や犬や人を手にかけた男と、世間一般とのズレを抱く女が出会って、全てが一致しないながらも共鳴した。女は愛も恋もわからない。ただ寂しい。男も愛も恋もわからない。ただ生きづらい。そこに人間モドキが提案する。ずっと一緒に生きていこう、と。だからこそ、最後の二行の言葉が出たのではないか、と。

「わけあり物件」は優しい曲だ。物件は売りに出された瞬間は新築だったものの、年数を重ねるにつれどんどん価値が低くなる。ここにおいて抗う術はない。時間を巻き戻すしかないからだ。

だが、この曲で歌われる「曰く付き」の描写の何と優しいことだろう! 赤い血にまみれるならまだしも、涙を流す程度で曰く付き認定。つまり、物件になぞらえられる人間の、過去を持つ全ては必ず曰く付きであり、わけのない物件なんぞないのである。それこそ新築の、産まれたての物件以外は! つまり、人は誰しもわけありで、それを肯定しているのである。

誰かがではなく誰しもわけあり。こういった視点が優しいなぁ、と思う。

アルバムの最後の一曲「T2」はプロレスラー入江茂弘選手の入場曲として作られた。故に力強く、勢いがあり、格好良い。そのうえで、この「Future!」というアルバムから浮くことなく、最後の締めを飾るにふさわしい一曲として機能している。退路を断たれようとも、天使の羽をもがれようとも、見下されようとも前へと進む意志。曲中の「曼荼羅」は「悟り」に言い換えられるだろう。我々の結論は何だ、まだ悟っていないままか? 我々の結論は何だ? まだ悟っていないふりか?

「曼荼羅」について、旺文社古語辞典第八版によると「(1)多くの仏・菩薩を安置する祭壇 (2)(1)に祭られた仏・菩薩のすべての徳のそなわった悟りの境地を一定の形式で絵にしたもの」とある。悟ったか、悟ったことをなかったことにしたいか、それでもタチムカウか、未来へ向けて!

タチムカウしかないのだ、我々は。未練や執着があっても。美しい過去や忘れられない思い出があっても。ただ、断ち切れない人を否定もしない。抱えたままでいたい人も否定しない。ただ示すだけなのである。そして同時に、それは人間モドキにも掲げられる未来なのである。それが「Future!」というアルバムであり、だからこそ優しく鮮やかなのだ。よって自分にとって、かけがえの無いアルバムになった。

しかし、周囲を見渡してみるとこの「Future!」にショックを受けた人も少なくない。その理由をなるべく追うようにしているが、まだピンと来ない状況である。人によってはザックリと胸を抉られた人もいるらしい。何故だろうか。知りたい。知りたいが。面と向かって聞けないままでいる。だってそれは、心のやわらかい部分に触れる行為だから。

よって。多分この先も、ずっと。