未分類0杯, 筋肉少女帯, 非日常

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最高に楽しかったなぁ…………!!

「ザ・シサ」ツアーの直後ということもあって「ザ・シサ」の曲を中心に構成しつつ、「ディオネア・フューチャー」「トリフィドの日が来ても二人だけは生き抜く」「僕の歌を総て君にやる」「ワインライダー・フォーエバー」に、定番曲の「サンフランシスコ」と「釈迦」という贅沢な構成。さらに、オーケンの弾き語りによる「人間のバラード」とインストゥルメンタルの「孤島の鬼」。

中でも「人間のバラード」はすごく嬉しかった。クリスマスにふさわしい曲かと言われれば首をかしげる侘しさが漂うが、後ろ向きで、とても寂しい人間賛歌だと己は思うのだ。

人に生まれて良かった。人に生まれて良かった。そう思いながら生きていたい。

毎年恒例の二十三日のライブということで、毎年恒例のクリスマスいじりがMCでは輝き、今日はクリスマスならぬ「キンニクマス」とオーケンにより命名される。そうしてクリスマスにも関わらず筋肉少女帯のことばかり考えている、世間一般で見れば隅っこにいる我々は水を得た魚のように大盛り上がりで、まるでここが世界の中心かの如く、キンニクマスを楽しんだのであった。

筋少物販では年に一度の福袋が販売され、橘高さんの物販では毎年恒例の抽選会が開かれる。つい、この空気を楽しみたくて早めに物販に並び、福袋をゲットできなかったもののこの日独特の賑わいに心がウキウキした。新商品のパーカーは買えたしね。

あとさ。嬉しかったのが。ずっと買う機会を逃し続けていた大槻ケンヂミステリ文庫の新譜を今日この場で買えて、さらにポスターとチェキがもらえたってことさ。これは予想していなかったことだったから尚更嬉しかった。こんなに素敵な特典をたくさんもらってしまって良いのかと、袋を抱えながらソワソワしてしまった。

いつだってこの日は特別なんだ。だから毎年、この日のために生きているんだ。

前方ゾーンに突入すれば、久しぶりの激しい圧縮とノリで全身汗だくになった。自分を含め、オーディエンスの群体がまるで一つの生き物のように感じられ、うねるうなりの中で何とか自分の足場を確保し、拳を突き上げてただひたすらステージを見つめる。特攻服を着たオーケンは激しく声を響かせ、赤いライトに照らされるとゾッとするほど格好良くて、「今後は母性だけでなく父性もくすぐっていく」と母性クスグラーを自称するMCでの姿とのギャップが凄まじかった。

アンコールではおいちゃんとふーみんがサンタの装いで現れ、ニコニコしながらお菓子を投げてくれる。取れなかったが、その姿を見るだけで幸せだった。開演前に流れるクリスマスソングの数々は普段イヤホンを耳に挿し、筋少ばかりを聴きながら街を歩く己にとって唯一、今日のみ耳にするものだ。そして開演を知らせる音楽は「二十一世紀の精神異常者」。そう、元号が変わろうとも我々はずっとここにいる。世の中の隅っこであろうとも、そこを世界の中心と信じ、いや、隅っこであると知りつつも信じるふりをして糧を得て、日常の世界を生きていく。元号が変わって例えこの日がこの日で無くなろうとも、この日があることを信じて一年を生き抜く。

そのように、信じさせてくれることがありがたい。
ありがとう筋肉少女帯。来年も、必ずこの日を。
メリー・キンニクマス! 



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未分類0杯, 筋肉少女帯, 非日常

何だろう。不思議なほど、新譜発売記念ツアーという感じがしなかった。新曲が演奏される通常のライブの空気に近いように感じた。

しかしそれは己にとって程良いものだったのかもしれない。アルバム「ザ・シサ」を何とか消化しつつも、消化しきれないものを抱いていた自分にとって、ちょうど良く心地良いライブであった。

それは「ザ・シサ」を象徴する三曲が演奏されなかったせいだろう。「セレブレーション」「セレブレーションの視差」、そして「パララックスの視差」の三曲。加えて「ケンヂのズンドコ節」が披露されなかったことも残念だが、特にこの三曲が披露されなかったのは印象的だ。同時に、この三曲こそがアルバムを象徴するものと改めて感じさせられる。

開演前に延々と流れていたのはザ・スターリンの数々の名曲。十月に膵臓がんの手術を受け、現在リハビリ中の遠藤ミチロウへの想いが込められたものだろう。「STOP JAP!」「メシ喰わせろ!!」と叫ぶ高らかな歌声を聴きながらじっと立ち続ける四十五分間。改めて、あぁ、筋少のライブだなぁとしみじみ思った。ザ・スターリンをリスペクトする筋少の。

「暴いておやりよドルバッキー」を歌った後、オーケンは言った。何てひどい歌詞だろうと。夢を持つ人や愛を語る人に水を差すことを言うなんて、と。それに対しおいちゃんが「気付いてたよ」と呟き、もっと早く指摘してよとオーケンが笑いながら叫ぶ。

そのシニカルなものの見方を心の支えにしている人間としては、ちょっと寂しいやりとりだった。

「衝撃のアウトサイダーアート」はやはり何度聴いても歌詞を理解できない。共感できない。わからない。わからないが、ライブで橘高さんを目の前にし、その指がバリバリ動く様を見て、全身に浴びる音の洪水の威力に胸がいっぱいになり、圧倒される。わからないながらも、格好良い。

同じくわからないながらも格好良く、その迫力に息を呑んだのが「マリリン・モンロー・リターンズ」。妖しい照明と相まって実に美しく格好良く、妖艶だった。本日はオーケンの声も絶好調で、シャウトも語り声も耳に心地良く、ゾワゾワさせる迫力を持っていた。アダルトな曲調を歌うのが響くようになってきているように思う。

格好良いなぁ。
格好良いけど、わからんなぁ。

そんな己にとって、アンコール最後の曲が「セレブレーションの視差」でも「パララックスの視差」でもなく、前作の代表曲「ディオネア・フューチャー」だったのは一つの救いだったかもしれない。同じ「来世でもお会いしましょう」という言葉も、「宇宙の法則」は美しいと思いつつもピンと来ず、「Future!」に収録される「オーケントレイン」の言葉であれば心を鷲掴みにされる。それは、たった一人の愛しい人に向けた言葉か、有象無象に向けた言葉か、その違いによるものだろう。

有象無象であるゆえ、有象無象への言葉が響くのだ。
そして、有象無象でありたいと願うのだ。

開演後と終演後に流れた録音の「セレブレーション」の美しさを聴きながら、終演後、皆で「セレブレーション」を歌うことを促す橘高さんを見上げながら、この曲が演奏されなかったことを残念に思いつつ、演奏されなくて良かったと思った。演奏されてしまっては、生で聴いてしまったなら、きっとしんどかっただろう。それほどの威力がある曲なんだ。

サプライズで挿入されたオーケンの弾き語りによる「パノラマ島失敗談」に、インストゥルメンタルの迫力が素晴らしい「夜歩く」と、語りの威力を堪能出来た「再殺部隊」。あぁ、どんなに嬉しかったことだろう! 特に「夜歩く」の息を呑む恐ろしいほどの美しさ。フレットレスベースを弾きながらぴょんぴょん跳ねてリズムをとる内田さんの格好良さよ! 「再殺部隊」の語りも素晴らしかった……。

新曲では「ゾンビリバー」と「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか」が印象的だった。「ゾンビリバー」の演奏の凄まじさと、のどかな曲調ながらも物騒なことを歌い上げる「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか」のギャップ。そして、泣きそうになったのは「ネクスト・ジェネレーション」だった。

新譜の発売前に初めてライブで聴いたときには、「おい、ちょっと待て、曲中のバンドマン!! 学生に手を出すのはやめなさい!!」と思ったものだが、アルバムを聴くにつれ切なさが募り、たまらなくなる。ぐらぐらと来るのは主人公の言葉よりもその母親の語り。「ライブだけが人生で他はみんな夢なんだ そんなことを言うからさ 捨てちゃった」「人は地に足をつけてこそ咲くのよ 夢よりも美しい向日葵」。あぁ、こうして現実を見据えて生きていく人の、その人の人生の遠くで今も生き続け、夢とされる世界で何十年も歩み続ける人がいるのだな、と。

それは「I,頭屋」に通じるものだと思う。いい気なもんだと思われて、夢のようなことや愛のようなことを叫んで金をもらい、馬鹿だなぁ、現実を見てないなぁ、世の中をなめているなぁと思われながら生きている。しかしそう思われる人は、クレイジーをやりきる役割と呑みこんでステージに立ち続ける。

そうしてきっと会ったのだ。かつてほんの一瞬、愛した人の娘に。そしてきっと去っていくのだ。その娘も母親と同じように現実を見て。夢に生きる人を「ちょっとバカなの」と苦笑して。

切ないなぁ。

MCでは勤労感謝の日には特に触れず、映画「ボヘミアン・ラプソディ」になぞらえて「もし、筋肉少女帯を映画化するとしたら」がメインに語られた。もし映画化するなら内田さんの家の火事から話が始まり、その火事で誰かが亡くなり、筋肉少女帯はその火事の犯人を四十年追うことが目的となると大変なフィクションが作られた。加えて、各メンバーの登場シーンの楽しい捏造も語られる。橘高さんは映画の演出を考慮し、時代背景をどのように表現するかまでリアルに考えていたのが実に面白かった。結果、ややアレな話に流れ、オーケンに「墓穴を掘っている」と指摘されるはめになるのだが。

ちなみに内田さんは「ボヘミアン・ラプソディ」を観て数回泣いたらしい。あの内田さんが、と思うと観に行きたくなるね。

楽しいライブだった。普通に楽しいライブだった。それが安心であり、同時に不安でもある。「ザ・シサ」の消化に手間取った人間としてはありがたかったが、「ザ・シサ」がガツンと来た人々にとってはどうなのだろう。そればかりが気になって仕方が無い。

と言うのも詮無いことか。とにかく、楽しく良いライブだった。



未分類0杯, 核P-MODEL, 非日常

毎回のように書いている気がするが、それでも何度も書きたくなるのはライブ会場で目にするたびにひしひしと実感してしまうからだろう。

あぁ、平沢進はこの世に実在するんだ、と。
そして、それをリアルタイムで観られる喜びを。

「回=回」東京公演の二日間に参戦し、のっけから喜びで心が爆発して、その瞬間だけは胸の中に溜め込まれていた様々な日常の不安や悩みが霧散し、その代わりとばかりに注入され充填されたのは感動と興奮で、固く手を握り締め、ずっと聴きたかった、でも聴けないと思っていた、今のヒラサワの声による「いまわし電話」に涙が流れそうになった。

だって、核P-MODELのライブで、今この平成が終わろうとする世で、「いまわし電話」が聴けるなんて誰が想像できるだろう。全くできなかった。予想も期待もしていなかった。だから嬉しかった。

白髪のヒラサワから奏でられる伸びやかな歌声をただただ全身に浴びる一時間半とその二日間。時折水を飲む以外は休むことなくステージに立ち続けるエネルギーと、オーディエンスを楽しませようとする様々な演出。今回はヒラサワの代名詞とも言える楽器レーザーハープの登場はなかったが、それを思い出させたのはライブが終わってしばらく経ってのことだった。それ以上に印象的だったのはあの「ギター嫌い」を強調するヒラサワがずっとエメラルドグリーンのギターを抱えていたこと。「幽霊飛行機」で両脇の会人と共に揃いの赤いギターを抱え、膝を折り首を振るコミカルな動きを挟みながら演奏する様を見て、誰が彼の人がギター嫌いと信じられるだろうか! と思わずにはいられない。無論、己も信じていない。

核P-MODELのライブの感想で恐縮だが、一日目は「いまわし電話」「Zebra」、二日目は「2D or not 2D」「OH!MAMA」に興奮せざるを得なかった。特に二日目は一曲目が「2D or not 2D」で、でかでかとステージ上のスクリーンに映し出されたあの懐かしの情緒あるCGを目にした瞬間の興奮は忘れられない。あぁ、この曲を聴けるのか! 今のヒラサワの歌声で聴けるのか、歌ってくれるのか! と!

「Zebra」の伸びやかな声はいつまでも聴いていたい美しさで、「OH!MAMA」はこれまた予想していない一曲だっただけに咽喉から悲鳴が搾り出されてしまった。ヒラサワのアルバムでは「LIVEの方法」が死ぬほど好きで、これを何度も何度も繰り返し聴いている身としてはたまらないものがある。あぁ、こうなると、いつか、「ATOM-SIBERIA」を聴きたいと欲を出してしまう。そして、いつか聴けるのではないかと希望を持ってしまう。

ありがとう、ヒラサワ。

「回=回」ではギターを横に倒し、まるで銃口を突きつけるかの如くネックをオーディエンスに向け、「遮眼大師」では下手に立つ会人「鶴」が在宅オーディエンス用のカメラを抱えて振り回し、オーディエンスやヒラサワを映し出す。あのカメラも凝っていたなぁ。てっぺんに大きく「回」の文字があしらってあって、カメラというよりも銃器か何かのような迫力があった。

そう、今回のライブではヒラサワを挟んで両脇に白会人の「鶴」と「松」がいた。鳥の頭を彷彿とさせるデザインの人物で、ヒラサワ曰く第9曼荼羅の会人とは中身が違うそうだ。ということで、会人は合計四人いる。しかしヒラサワの数には敵わないとうそぶくあたりが面白い。自らそれをネタにしてくるのか。

話が逸れたが、この会人二人のパフォーマンスがコミカルで実に良かった。己は一日目は下手側、二日目は中央寄りの上手側に立っていて、ステージ全景が見渡しやすかったのは一日目、ヒラサワだけをひたすら凝視しやすかったのは二日目だった。故に、会人の動きは一日目の方が印象に残っている。主に鶴。嘴をくいっくいっと動かすかわいらしい動きに、「それ行け! Halycon」で熱狂のキーボードソロを奏で終わると思うか否か、もとの立ち位置に戻り「あぁ~」とばかりに何かを後悔するかのように頭を抱える仕草。そうそう、会人二人にはふかふかの座り心地の良さそうな黒い椅子が用意されていたのも印象的だった。そこに座り、会人二人はタッチパネルのような楽器を奏で、立ち上がってはギターを爪弾き、カメラを抱え、キーボードを弾き、大忙しに動き回っていた。それでいて、忙しさを感じさせない動きが実にキュートだった。

二日目の「それ行け! Halycon」は特別だった。なんと、ギターソロを奏でる以外はほとんど中央の立ち位置から動かない平沢が、棒状のカメラを掲げ、頭上で振り回しながらゆったりとステージを上手から下手へ、下手から上手へと歩き回ったのである! 考えてみるとただステージを移動しているだけとも言えるのに、飼い慣らされたオーディエンスは大興奮で、己も日常では出したことのないような声を出し、拳を振り上げ、ぐるんぐるんカメラを回しながら歩きながら歌うヒラサワを凝視した。

ちなみにアンコールのMCでこれがカメラであるとヒラサワから説明を受けるまであれが何かわかっていなかったため、己は本当にただの棒をヒラサワが振り回していると思っていた。ヒラサワ曰く、今後使う人が増えそうなので今のうちに使ってしまえ、とのことである。振り回すカメラが映すのはヒラサワだそうだ。どんな映像が撮られているか興味深い。

新曲もかつての曲もたっぷり聴けて最高の二日間だった。核P-MODELとしてはまだアルバムが三枚しか出ていないためにまだまだ新人と名乗るヒラサワのおかしさったら。大混雑するドリンク列を抜け、ビールで咽喉をうるおしながらせっせとスタンド花から花を引き抜く人々を見て思う。あぁ、これから日常へ帰るのか。ZEPP 東京の頭上には巨大観覧車が非日常の光景を訴えかけてきているが、これから己は電車に乗って日常へと帰る。それでも、このひとときを、ヒラサワという非日常の存在を間近で観られた喜びを胸に、しばらく夢見心地を味わえそうで、それを反芻しながら生きていきたいと思う。

本当に楽しい二日間だった。



未分類

■10月21日10時「私も当選しました(前回に引き続き)~」の方へ

おめでとうございます! とっても嬉しいですね。己もまさかまた今回も当たるとは……と感激しました。当日が楽しみでなりません!



未分類ウタノコリ, 水戸華之介, 非日常

水戸さんの歌声は迸るエネルギーが具現化したものだと思う。今日この日も、朗々と響く太く美しい歌声を全身に浴びて、頭から、胸から、爪先から、漲るエネルギーを吸収する心地を得た。

それはとても有難く、気持ちの良い時間だった。

水戸さんのアコースティックライブはいつもパワフルで、これがアコースティックライブなのかと疑うほどにいつも水戸さんは大汗を流しながら熱気を纏い、全力で歌っている。楽器はピアノとパーカッション。腰痛により急遽参加できなくなった澄ちゃんのギターが聴けないことは寂しいが、代打で参加してくれたパーカッションのナカジマノブさんの存在感は一入だった。澄ちゃんの不在を残念に思いつつ、そのうえで何一つ損をしたとは思わない、むしろ貴重なものが聴けて嬉しいと思える素晴らしいライブだった。

五月に発売されたアルバム「ウタノコリ」に収録されている楽曲を中心に、アンジーからソロ、3-10Chainなどの幅広い楽曲が演奏された。一曲目で深く息を吸い込む水戸さんを見て、もしやと思えば予想的中。天井から壁までビリビリと声が伝うような、静かな迫力の中始まったのは「マグマの人よ」。この歌の迫力に引き込まれながら改めて思う。水戸さんの歌声の素晴らしさと、上手さと、エネルギーをこの身に浴びられる嬉しさを。そしてこの世の多くの人が、この歌声の威力を知らずに生きていることを惜しいと思う感情を。

強制しようとは思わない。殊更に布教しようとも思わない。ただただ、惜しいと思う。この歌声の響きが新大久保の労音大久保会館に留まっていることが。この歌声の威力が届かない人の耳があることが。

故にありがたいと思う。出会えるきっかけを得られたことに。同時に寂しいと思う。もっと届けば良いのにと。

扇さんの煌びやかなピアノの調べとノブさんによる細やかなパーカッション。ポコポコと響くコンガの音に、涼やかなタンバリンのリズム、耳に優しく切ない鈴の音。あのパワフルで元気な、人間椅子とのほほん学校での姿しか知らない己から見れば、とても繊細で優しくて、楽曲に合う音を慎重に選んで鳴らしてくれる様子が職人の手仕事のようにやわらかくて、この音を聴けることが嬉しくてならなかった。

ノブさんがここに来てくれたのは本当に運が良かったそうだ。普段が忙しいのに、ちょうどぽっかり空いていたという。澄ちゃんの腰痛による欠席が決まってから、水戸さんは急いであらゆる人々に連絡をとったそうだ。扇さんと二人でこなすことも出来るが、もともとそういう編成ならまだしも既に三人での演奏と発表してしまった後では観客から可哀想にと同情され、行き場のない母性が降り注がれるのではなかろうかと危惧したと言う。母性の降り注ぐ中でのライブは確かにまぁ、やりにくかろう。

そんな中での救世主の一人がノブさんである。ノブさんは連絡をもらったとき、用件を聞けなかったため水戸さんと趣味を共にするボードゲーム合宿かな、他には誰が来るのかなとうきうきしていたそうだ。あぁ、そんな中でライブに参加してくれたこの事実、本当にありがたくて仕方がない。

ノブさんの演奏の中で、特に印象に残っていたのは「天国ホテル」だ。シャンシャンと涼やかに鈴の音を鳴らしてくれて、それが実に美しく、切なかった。ツアーで焼肉定食を食べ、牛串を食べ、さらに夜に焼肉を食べ、水戸さんや扇さんがそろそろ収束に向かう中でさらにご飯をおかわりし、水戸さんに一日で牛一頭食べたと言われる人物とは思えないような、穏やかな手つきで楽器を鳴らしてくれた。

あの楽器に向かう目つきも覚えている。水戸さんの歌声と扇さんのピアノに調和する音を奏でる指先を操るその目は、ムードメーカーのアニキ像とはまた違った、涼やかな色をしていた。
ありがとう、ノブさん。

嬉しかったのは新曲の「浅い傷」が聴けたこと。デビュー三十周年を彩る楽曲にしてはネガティブな印象を与えるかもしれない……と水戸さんは仰るが、己はそうは思わない。転がり続けながら活動を続ける水戸さんが、そうしてずっと歌声を響かせてくれる水戸さんが、己は大好きだ。本当に死ぬほど、大好きなんだ。

嬉しかったよ。「センチメンタル・ストリート」が聴けたことが。嬉しかったよ。この曲で客席に下りてきた水戸さんと、拳をコツンとぶつけられたことが。そんな、水戸さんにとっては小さなことかもしれないことで、勇気とエネルギーを得られる人間がいるんだよ、と伝えたい。

澄ちゃんの欠席に伴い、各所へゲスト出演を依頼しセットリストを組み直すどさくさの中で紛れ込んだ一曲が「めぐり逢えたら」。曰く、扇さんが好きだからと紛れ込ませたらしい。歌った後に水戸さんは、この曲は五分ほどで書いた曲で、自分について省みることなくただただ都合の良いことを言っている歌詞だ、と分析していたのがおかしかった。

そのうえで、この曲を聴けたことが嬉しいし、紛れ込ませてくれた扇さんに感謝である。

今回唯一のカバー「マイウェイ」を熱唱する水戸さんを観て、ついついオーケンとうっちーの仲直りを連想してしまったのだが、その歌声の威力は雑念を振り払うほどのものだった。改めて思う、水戸さんは……、歌がうまい。とても。とてつもなく。

席に座っているのがもどかしいと感じるほど。拳を振り上げ、煽られれば歌い、立ち上がりたい衝動を抑えつつひたすら水戸さんと見つめる三時間。本日は新大久保駅でトラブルがあり、駅から出られず会場へ向かえなかっただろう人もいたことを水戸さんは聞いていたという。実はと言うと会場に着いたとはいえ己も他のでもないその一人で、新大久保駅に着いたと思ったら一歩も動かない人の海がぎゅんぎゅんになっていて、しばらく待ったもののどうにもならないため山手線で隣の駅の高田馬場へ移動、そうしてタクシーに乗ろうとするもタクシー乗り場は長蛇の列で……という塩梅で、通常であれば新大久保駅から十分で着く会場に、新大久保駅から会場まで一時間もかかった。それでも間に合ったとは運が良かったと思うし、開演時間を遅れても一曲目から全て聴けたのは、言葉にはされていないながらも思いやっていただけたのではなかろうか……と思ってしまう。

最後、「偶然にも明るい方へ」を聴いて胸の前で手を握りつつ思ったことは、これからも来年もその先も、ずっと水戸さんの歌声を聴きたいということ。
あなたの歌声を知れた人生を己は幸福に思います。故に、これからもずっと堪能していきたいです。そのように、強く願って。