未分類4杯, 日常

2017年11月5日(日) 緑茶カウント:4杯

連日筋肉少女帯の新譜「Future!」を聴き続けている。特典のライブ映像も観たいと思いつつ、筋少においては今現在「Future!」しか聴きたくない、とにかく「Future!」を聴き続けたい状態なので未だ手を付けられない。普段は作業中にライブ映像を流しっぱなしにしてBGM代わりにするのが常であるが、どうにも食指が動かず久しぶりに手に取ったのが「4半世紀」のオーディオコメンタリー。メンバーのトークを聴きつつ作業に没頭した。

あぁ、またオーディオコメンタリーを特典につけて欲しいな。もしも過去のライブ映像作品のオーディオコメンタリー集なんて作ってくれたら即座に予約するだろうなぁ、と夢を見つつサカサカと筆を動かす。「Future!」の感想をしたためたい衝動を抱えながら今描いているのは「Future!」から想起されたイラスト一枚。B4の紙に線を引き、透明水彩を塗り重ねている。楽しい。あぁ、だが感想も早く書きたい。

やりたいことがたくさんあるとは幸せなことだ。己は今も新譜の発売日の延長線上に生きている。楽しい。



日記録4杯, 日常, 筋肉少女帯

2017年10月17日(火) 緑茶カウント:4杯

好きなものについて徒然なるままに語り書き記すことを愛してはいるが、好きなものを人に勧めようとはあまり思わない。何故ならそれは、自己を基準に考えればさほど意味のない行為であるためだ。勧められる側に立って考えてみれば、「これはとても素敵なので一度見てほしい!」と頼まれたところで、それはあくまでも勧める側の好みでしかなく、勧められる側のことを考えての行為ではないからだ。

故に、相手方に興味を持ってもらうためには、相手方の好みを把握したうえで、その人が本当に喜んでくれるものを勧めるべきである。そうでなければただの好みの押し付けでしかない。

しかしその好みの押し付けを、したくてしたくてたまらなくなっている。

筋肉少女帯の新譜「Future!」に収録される一曲、「エニグマ」のミュージックビデオが本日公開された。それはわかりやすいコンピューターグラフィックスによる装飾もなければ、愛嬌のようなお笑い要素もない。ボーカル、ベーシスト、リードギタリスト、リズムギタリスト、ピアニスト、ドラマーの六名がスタジオに集い、演奏する様を収めただけのもの。彩度を落とし、黒と白を基調としたシンプルかつシックな色調と暗号のような歌詞に、変調を繰り返すプログレッシブ・ロック。積み重ねた技術と迫力が呪文のように渦巻く怪しさ漂うビデオである。

あぁ、叶うことならこのミュージックビデオのURLをQRコードに変換し、厚紙に刷って名刺代わりに誰彼ともなく配り歩きたい。これが己の愛するバンドの素晴らしい曲であると触れて回りたい! それが出来ないからここで、せめてここで。

プログレッシブ・ロックが好きな人。変わった音楽が好きな人。呪文のような歌詞に魅力を感じる人、筋肉少女帯をかつて聴いたことのある人、大槻ケンヂの本が好きな人へ。駆け巡る暗号を脳髄に浴びる夜はいかが? 困惑するも一興、心奪われるのも一興。どう転ぶかは、君次第。





日記録4杯, 日常, 漫画

2017年8月23日(水) 緑茶カウント:4杯

「月刊少女野崎くん」の新刊が発売された。いそいそと本屋に向かい、わくわくしながら購入した。本屋には野崎くんの新刊発売を告知する店員手作りのポスターが貼られていて、盛り上がりが感じられて心が高揚……といきたいところであったが、残念なことにそのポスター、描かれているのは嫌な悪ノリによる作品いじりで、せっかくの好きな漫画の発売日であるにも関わらず暗い感情がちりちり燃えたが、そんなこととは関係なく漫画はとても面白かった。読んだばかりだと言うのに既に次の新刊が待ち遠しい。

同時に今荒れ狂う衝動と言えば、この漫画の感想をとにかく人と語りたいということ。だが、己にこの漫画を教えてくれた友人は現在父親になりたての子育て暦半年足らず。あのキャラがこうで、あの話がこうで、と熱く語り合いたいところだが流石に今は叶わない。叶わないが語りたい、語りたいが、きっと友人もじっくり読みたいところを我慢している最中だろう。

そうして己は六畳間にて、迸る感想や熱情を身の内に秘め、一巻から読み返すべく黙って本の山を漁るのであった。心の中には今も激流が走っている。



日記録4杯, 日常

2017年8月6日(日) 緑茶カウント:4杯

シュルシュルと伸びる蔦はついに階段を上りきり、ぴょこりと天を指差すように玄関前で佇んでいた。毎日毎日、帰宅してカンカンカンとアパートの外階段を上るたび、少しずつ生長する黄緑色の蔓草を見た。鈍色の外階段にシュルシュルと絡まり、薄汚れたアパートの灰色の壁を這うように上る鮮やかな色が楽しくて、階段を上りきった様子を目にしたときはまるで幼子の成長を喜ぶかのように声をかけてやりたくなった。

頻繁にではないがたまに大家さんが草とりをしているらしく、朝にわっさわっさと繁茂していたドクダミが夜には綺麗サッパリなくなっていることがある。きちんと手が入れられているのはありがたい。だが、いつかこの愛らしく伸びる黄緑色の蔓草が忽然と姿を消し、曇った外階段と壁だけが残される日を思うと寂しい。故に、余計に愛着が出てくる。玄関の扉を開け、きつい日差しに眉をしかめつつ「やあ」と挨拶でもするように伸びる黄緑色を見ると「あぁ良かったまだいたね」と安心する。そして帰り道、朝よりもほんの少し伸びた黄緑色を見つけると嬉しくなる。「あぁ良かった、まだいたね」。

いっそこの小さなアパート全体が黄緑色で覆われてしまったらさぞや愉快だろう。蔦からまる鈍色の階段を踏みながら思い描くは鮮やかな色。ふっふっふっ、と笑みがこぼれた。



日記録4杯, 日常

2017年7月31日(月) 緑茶カウント:4杯

たまに、何でこの人はこんなに好いてくれているのだろうと不思議に思うことがある。例えばそれは毎年毎年、欠かさず誕生日プレゼントを贈ってくれる人、好きだよという言葉を目一杯伝えてくれる人に対して。そうして自分は、その人達に対していったい何ができているのだろうと思う。

それは自信の無さの表れかもしれない。その自覚はある。自分自身を過小評価するゆえに、自分ができることは誰しもできる些細なつまらないことと考え人を傷つける、そんな失敗もしたことがある。褒められても素直に受け取れず、自己卑下ばかりするのでせっかく褒めてくれた人をがっかりさせたり、面倒くさがらせてしまったこともある。今はそれを知ったため、褒められたことは素直に受け取って礼を言い、過剰に自己卑下しないように努めている。自信過剰になる必要はないが、自分自身しか持ち得ないもの、秀でているものもきっとあるのだ。

それでもたまに、その降りそそがられる愛は己にとって適切なものだろうか、と思うことがある。愛を全身に浴び、ありがたく思いつつ、何故この人はこんなにまでしてくれるのだろうと不思議に思う。そのぼんやりした表情をその人はどんな面持ちで眺めているだろう。

願うのは失望させたくないということ。報いたいということ。対等でありたいということ。しかしなかなか、まだ気持ちが追いつかない。