日記録2杯, 日常,

2017年10月22日(日) 緑茶カウント:2杯

よく利用するパン屋では、パンの耳を六十円で売っている。食パン一斤分がたっぷり袋に入ってなかなかお買い得だ。時間帯の関係もあろうが、いつも置いてあるわけではないので、たまに見かけるといそいそとトレイの上に乗せる。そうして他のパンと共にレジへと持って行くと、最近ちょっとした会話を交わすようになったパン屋のおかみがいやに真面目な目つきでじいっと己の両の目を見据え、こんな風に口を開いた。

「パンの耳なんてどうするの?」

その目には若干の困惑も入り混じっていた。えっ。え? あなたこれを六十円で売っているってことは、何かしらに使えることを知ってのことではないんですか? と言うより、何に使えるかわからんもんをわざわざ売ってるんですか……? と動揺しつつ返答する。冷凍して、ハンバーグを作るときに卸金で擦ってパン粉にしたり、パングラタンにしたり、溶かしたバターとにんにく、クレイジーソルトで味付けをしてトースターで焼き、ちょっとしたおつまみにしたり、こういった用途で活用している、と。

するとおかみはパッと表情を明るくして、「どこでそういうこと覚えるの? すごいわね~」とよくわからない賛辞をいただき、にこにこと手を振られて店を出た。片手には白いビニール袋。サンドイッチにクリームパン、オレンジジュース、たっぷりのパンの耳。最近会話を交わすようになったからこそ、彼女は今日切り出したのだろうか。すると、己は今までずっと、このパン屋で買い物をするようになってから数年もの間、彼女に「こいつ何でパンの耳なんか買ってるんだろう」と疑念を抱かれ続けたのだろうか。しかしパンの耳、利用用途はいろいろある。むしろ何故パン屋を営む彼女がそれを知りえない?

首を傾げながら帰路に着き、パンの耳を細かく切って冷凍庫に入れた。今夜はハンバーグにしよう、と心に思って。



日記録0杯, 日常,

2017年10月15日(日) 緑茶カウント:0杯

どうしたら常備菜を習慣化できるか、と人に問われることがある。己は休みの日に主食を一品、主菜を一品から三品、副菜を三品から五品作り、それを日々食べ続け、たまに惣菜を買い足したり外食をしたり、おかずを追加で作ったりしながら日々を過ごしている。昼食と夕食は基本的に作り置きで、作り置きにかかる時間は二時間から三時間ほど。調理中はライブDVDやアニメを流しっぱなしにして、時間経過を感じつつ楽しみながら作っている。参考にしているのは何冊かの料理本と、つくおきというサイトのレシピだ。

では、常備菜を習慣化するコツは何か。それは調理の手間を短縮する努力でもレシピを覚える記憶力でもなければ、料理の腕でもないと己は思う。要となるのは一つ、「毎日同じものを食べ続けても飽きない性質」である。

母は料理にことさら気を遣ってくれていた人で、毎日主菜副菜色とりどりの品々が食卓に並んでいた。煮物やキンピラ、カレーは二日続けて出てくることもあったが、トンカツは翌日カツの卵とじに姿を変え、一手間加えた品として出てきていた。三日目の煮物は万が一傷んでいたら良くないとって、子供に食べさせないよう注意を払っていた。

このような家庭で育ち、思い返してみても誠にありがたいなぁと思うものの、良いか悪いかわからぬが自分自身はわりと毎日同じものを食べることに頓着しない人間になった。なるべく日々変化が出るよう品数を揃えるも、毎日三品ずつにして日々の食事の種類を変えるのではなく、毎日七品同じものを食べ続ける方に行ってしまいがちなのである。何なのだろう。種類を食べたいのだろうか。

というわけで、朝昼夜で食べるものを変えているとはいえ、朝は一年三百六十五日毎日同じもの、昼は一週間同じもの、夜も一週間同じもの、といった有様で、たまにそこに外食や惣菜が食い込んできて彩りが変わる程度である。しかしどうしたことか、飽きない。毎日同じものを食べても平気である。

もしかしたらそれは、「今日は何を食べよう」と考えることが自分にとって、楽しみではなく面倒くさいことだからかもしれない。

美味しいものを食べる喜びよりも、食事のたびに考えなければならない面倒くささが勝ってしまう。美味しいものは好きだが、美味しいものを食べるために大きな労力は使いたくない。新しい店を探すのも面倒だし、毎日外食を続けるのも嫌だ。何より自分が作るものは、食材も味も自分好みでできている。無難なのだ、とにもかくにも。

故に二時間から三時間台所に立っていてもさほど苦痛ではなく、習慣として続けられるのだろう。決め手は食事への興味のなさと、毎日同じものを食べ続けても気にしない性質。これが常備菜を続けるコツである。……何て言ったら乱暴だろうか。



日記録0杯, 日常,

2017年7月21日(金) 緑茶カウント:0杯

歳をとって気付いたことは、子供の頃の自分は結構良いものを食べさせてもらっていたのではなかろうか、ということだった。

もしや。いや、きっとそうなのだろうと目の前の網で焦げる肉の切れ端を見て思う。紙のような肉の切れ端を。

焼肉食べようぜ、と適当に入った店で注文した食べ放題。端末を操り注文し、目の前に並べられた皿には今まで焼肉店で見たことがない形状の肉が乗っていた。薄い。ペラい。しかし肉である。網に乗せる。すぐにチリチリになる。焦げる。急いで食べる。焦げる。

それは己の知るカルビではなかった。しかし確かにカルビであった。メニュー表を見る限り。

また後日。年嵩の人に焼肉をご馳走してもらう機会があった。連れられた店でその人がほいほいとメニュー表を見ながら注文し、出てきた肉。一緒に連れられた人がわあわあと喜び、目の前の人は「今まで食べたことがないだろう」と優しく微笑む。その肉はとても美味しかった。同時にそれは見知った肉でもあった。

成人し、自分の懐と相談しながら物を買って物を食べ、そんな日々の日常の中でふと気付く。ないがしろにされた自覚なんてものはそもそも全くないが、それにしても自分は結構、大事に育てられていたらしい。

子供の頃の己が平静に食べていたそれらをいつか自力で平静に得られるだろうか。いつか掴みたい、と願いたい。



日記録4杯, 日常,

2017年7月1日(土) 緑茶カウント:4杯

誰かのために買うよりも、自分のために買った数の方が多いだろう。
何故なら東京ばな奈はおいしいからだ。

東京ばな奈はおいしい。とてもおいしい。やわらかくしっとりしたスポンジに包まれた、重みのあるバナナクリーム。ぱくりと一口齧り、もぐもぐと噛むごとに口の中に広がり、溶けていく濃厚な甘さ。常温で食べてもおいしく、冷やして食べると尚おいしい。冷蔵庫に入れてしばらく待つだけで、少しだけ特別なデザートに変わるような思いがする。そしてその素敵なデザートが、今我が家の冷蔵庫に六つある。

土産物の多くは自分で買って食べたり使ったりするものではない。人に贈るものであり、人からもらうものである。よって客人よりいただく場合は、その人の地元もしくは旅先の品が土産となる。新潟、青森、静岡、名古屋、大阪、広島、福岡、鹿児島などなど。そこに東京が入るかと言うと、まず入らない。無論浅草やスカイツリー、しながわ水族館などに行ったお土産をいただくことはあるが、その場合浅草やスカイツリーやしながわ水族館特有のお土産がチョイスされるので、「東京」に行った証である東京ばな奈が土産物としてチョイスされることは無いのである。

つまり。首都圏に住む自分が東京ばな奈を手にする機会はまず無い。

そう、己にとって東京ばな奈は近くて遠い存在だった。よく利用する駅の売店で必ずと言って良いほど見るのに得られる機会がない。そのように思っていた。そのように思っていたがあるときに気付いた。自分で自分のために買えば良いと。

己はずっと「土産物」という言葉の魔力に縛られていたらしい。そうだ! 土産でも何でもなく自分のために買って何の悪いことがあろうか! 確かにこれは土産物として販売されている、しかしこれは、ただの箱に入った菓子だ!!

気付いたのは大学生の頃。万葉集のレポートを書くために夜行バスで奈良に行く日だった。そうして目覚めた己は売店で東京ばな奈を購入し、奈良に向かうバスの中でもぐもぐ食べた。多くは帰り道で買われるであろう土産物の菓子を行き掛けに買って自分で食べる背徳感。おいしかった。

以来、売店で賞味期限が短いからお早めに、と店員に注意を促されながら「大丈夫、賞味期限が切れるまでにすぐに食べ切ってしまいますよ」と頭の中で答えながら自分のためにたまに買っている。家に持って帰るといそいそとお茶を淹れ、バリバリと包装紙を剥ぎ、まず常温で食べて、満足したら冷蔵庫に入れて、ひんやり冷えた東京ばな奈に舌鼓を打ち、あーーおいしいなーーーと幸福を噛み締める。八個で千円の幸福の味。東京ばな奈は、おいしい。



日記録0杯, 日常,

2017年6月25日(日) 緑茶カウント:0杯

好きだった店があった。そこは朝方まで営業しているこじんまりとしたイタリアン。カウンター四席に、テーブル席が一つだけ。手作りのピクルスに、原木から切り出す生ハム、チーズの盛り合わせ、釜焼きのピザ。ピザは八百円で、つまみをちょこちょこ食べた後に一人で食べるのにちょうど良い大きさ。ここに深夜、ふらりと入るのが好きだった。

しかしだんだんと色合いが変わっていった。カウンターの目の前のコーヒーメーカーに埃が積もり、ガチャガチャか何かで引いたらしいフィギュアが無造作に置かれ、凝った食器は簡易な丸皿に替えられた。以来、少しずつ足が遠のいていたのだが、昼間に道端で店主に偶然出会ったことをきっかけに、久しぶりに店に入ってみたのだった。そしてその日の帰り道、きっと自分は二度とここに来ないだろうことを悟ったのであった。

そこはとても好きな店だったが、最早過去形なのである。
内装は変わらず、店主も同じその人。しかし看板が挿げ替えられていたのだ。

カウンター席に座って真新しいメニューを開く。そこには手作りピクルスも生ハムもチーズ盛り合わせもなかった。前菜もメインも千二百円ほどの価格で、ちまちまつまめるものは一つもない。千二百円のサラダであれば結構な量と類推できる。一人で食べればサラダ一つで満腹してしまう場合もあるだろう。仕方なしに釜焼きピザが焼けるのを待ちながら、ちびちびと何もつままずビールを呑んだ。

八百円のピザは千二百円のピザになっていた。さもありなん、あぁ、何と巨大なピザよ!

カウンター四席に、テーブル席が一つ。一人でふらりと入るのにちょうど良い空間だったのに、すっかり変わってしまった中身。ここは一人客が多い店で、この日も二人先客がいて、二人ともそれぞれバラバラに一人で来たようだった。彼らは何を食べて呑んだのかはわからない。

この店は今後どのように変わっていくのだろう。わからないが、知る由もない。一つわかることは、己の好きな場所はとっくの昔になくなっていたということだった。