日記録0杯, 日常

2014年5月2日(金) 緑茶カウント:0杯

サイバラの漫画で、子供にずっと甘いものを与えずにいたら、甘いものに飢えるあまりに化粧水を塗った母の顔を子供がべろべろ舐めた、という話が出てきたのを何となく思い出している。そして自分は今、その子らが突然、蜂蜜と練乳を混ぜ合わせた菓子を与えられ、その甘さの強烈さに衝撃を受けつつ病み付きになり、心の底から堪能せずにはいられなくなっている様を見ているようだ、と思っている。

恋は劇薬のようである。その効果を第三者視点から眺めつつ、何だ………おい………すげえな………と思っている。

春だねぇ。



日記録0杯, 日常

2014年4月29日(火) 緑茶カウント:0杯

楽しかったなぁ。

友人と二人で西荻へ散歩に出かけた。思えば友人と二人だけで出かけたことは今まで一度も無かったが、想像以上に気安く楽しく過ごすことが出来た。しかし一度として二人だけで出かけたことが無いとはいえ、我々はいつからかプレゼント交換をしていた。誕生日のたびに贈り物を送り合っていた。郵送で。不思議な間柄だと思う。

自分はいったいどこで死ぬのだろう、ということを友人に漏らした。結婚という区切りがあれば別だが、それが無い人生であれば、自ら区切りを作らぬ限り、己はそこにい続けるだろう。今いるところは快適だ。だが、そこは永住する場所なのか。骨を埋める場所なのか。それはまだ、わからないのだ。今の己には。

それが今の自分にとって若干の不安であり、課題でもあるのだが、友人はひゃらーと流してしまったので、かえって自分は楽な気になって、しかしそれは一瞬で、やはり考え込むのだが、思案し過ぎたところでどうしようもないことを己は知っているのである。ははは。

いつか、好きなミュージシャンが全員引退した頃に、地元に戻ってみようかね。



日記録0杯, 日常

2014年4月28日(月) 緑茶カウント:0杯

祈りとは願いの具現化である。漠然とした願いを言葉に変え、意識の下に置き、自覚する。そして気付くのだ。あぁ、自分はこれを願っていたのかと。祈りながら。

観光目的で神社に行くとき、お賽銭を投げ、鈴を鳴らして神の前に立ち、二礼二拍をした段階で、急いで自分は何を祈ろうとしているか考えて、追いつかないまま一礼して終えてしまうこともある。その場合、自分はただ神様に挨拶をして済ますだけになるのだが、時折、そこで祈ることにより、望みと願いが具現化され、気付かれることがある。

もし自分が猿の左手を手に入れたら何を願うだろう。その答えは既に出ている。それは自分の努力ではどうしようもないことで支配されている。すると自分は意外と、自分で出来ることに関しては他力本願でいないのだな、と気付かされることもあり、同時にどうにもならないことが歯がゆくもある。

せめて自力で出来ることに関しては叶えられるようにしよう。自覚出来ているのであるからして。



日記録0杯, 日常

2014年4月22日(火) 緑茶カウント:0杯

空腹感があるのに食欲は無く、体がだるいのに眠れない。空腹で目の前に食事があるのに食が進まず、そのまま箸を置きたくなる。もったいないので食べきったが。

だが、何とかその渦から脱出することが出来た。運動も出来たし、少しサッパリした。このところ充分な睡眠を得られていなかったが、今日は無事眠れそうだ。あぁ、良かった。

良く眠るため、今日はあえてカテキンは摂取せず、変わりにショットグラス一杯のウイスキーだけを呑むことにする。咽喉が焼ける味がする。

平穏を得るにはなかなか、努力がいるね。



日記録0杯, 日常

2014年4月19日(土) 緑茶カウント:0杯

自分は一体どこに骨を埋めるのだろう、と思うことがある。それはまた、自分は終の棲家をどこに定めるのだろうという疑問に近い。己の故郷は群馬だが、大学入学と共に一人暮らしを始め、群馬に戻るのは年に数度。自分はいつか、群馬に帰るのだろうか。わからない。

さしてふらふらしているわけでもないはずなのに、根無し草のような気分である。まぁ、単に体調不良のせいかもしれないけどね。