日記録0杯, 日常

2016年1月7日(木) 緑茶カウント:0杯

友人達から次々と届いた「結婚式にご列席いただきましてありがとうございましたハガキ」「結婚しましたよハガキ」を眺めつつ、なんだって今年に限ってこんなにバリエーション豊富なのだろうと不思議に思った。この種のハガキはだいたい正装の新郎新婦がにっこり笑って寄り添う写真がスタンダードかと思うのだが、見事に全てど真ん中を外しに来ている。あるハガキは新郎新婦がドレスとタキシードで海をバックに大ジャンプをし、あるハガキは猿と化し、あるハガキはそっくりな似顔絵で、あるハガキはコスプレ。夫婦によって個性が出まくっていて非常に面白い。

そして自分はと言うと年末に祖父母に「写真を送ってくれ」と言われ、何に使うのかと問うたところ良い縁談があるので先方に渡したいと言われた。ちなみに縁談についての話はこれが初耳である。つまり己の与り知らぬところで勝手に事を進めようとしていたのである。

無論断った。断った結果いかに相手方が良いとこの生まれで素敵な人格で趣味が良いか長々と語られた。ちゃんと聞いた。聞いたうえで断った。すると「今付き合っている人がいるのか」と聞かれ「いない」と答え、「好きな人がいるのか」と聞かれ「いない」と答え、最終的に「いったいどうしたらいいの!」と悲痛な叫びを上げられた。どうしたらいいのって言うならば、放っておいてくれるのが一番ありがたいと十年前から言っているはずなのだが、まぁ通じない。まいるー。

という話を小学校一年生から付き合いのある友人と久しぶりに会ったときに語って笑い話として昇華した。友人は交際相手がおり、結婚も視野に入れているが、親戚にせっつかれて鬱陶しい思いをしていると言う。「仕方ないんだよ、あのくらいの年代の人にとっては、結婚できた人の他には、結婚したいけどできない人しかいないのだから、孫がそんな可哀想な存在になったら耐えられないんだよ」と笑う。「確かになぁ。仕方がないんだろうなぁ」「でも鬱陶しいね」「鬱陶しいな」「困ったものだねー」「そうだねー」

同じ学校に通ったり、同じ塾に通ったり、同じサークルで遊んだりしていた友人達が、だんだんと違う環境に身を置いていくことに対して、ちょっと前は寂しく思う気持ちが強かったが、最近は面白いなぁと眺めている。そんな自分も、自分自身はずっと同じ位置にいると思っているが、他者から見たら別のところに行ってしまったように見えるかもしれない。そんな中でたまに再会し、語り合うのも悪くない。きっと今までに聞けなかった新しい話を聞くことができるだろう。

「結婚式にご列席いただきありがとうございましたハガキ」の一枚には、今年子供が生まれますとの報告も添えられていた。ついに友人が父親に! おめでたいなぁと喜んでいたら、数年前サークルの呑み会の余興で女装したときに使ったカツラを貸してくれと同じ段に書かれていた。何に使うんだよパパ。とっくに捨てたよパパ。一枚のハガキに別々の要素を混ぜ込みすぎだろパパ。

祝福とともにツッコミの返信を送ろう。全くもって楽しいことだ。



日記録0杯, 日常

2016年1月6日(水) 緑茶カウント:0杯

石橋を叩いて渡る。いいことである。注意深く慎重なのはとてもよろしい。安心出来るしね。ミスの防止に繋がるしね。とっても良いと思います。ただし、それが自分の石橋ならね。

「申し訳ない。自分は非常に慎重かつ心配性な人間であるので、ついつい石橋を叩いてしまうのである」と言いながらカナヅチでガンガン叩くのは他人の石橋。ガンガンに殴られた己の石橋は傷だらけで見る影もない。あぁ、こんなに古びてしまって哀れだなぁ。

他人の石橋を叩く。叩いて叩いて叩きまくる。それはどんな風に? つまりこんな風にである。

「すみません、あのデータちゃんと送ってくれました?」「もう送ってますよ」「ごめんなさいメールチェックしていませんでした」

「そういえばあの予定大丈夫なんですかね?」「大丈夫、と言うかとっくに発表されていますよ」「すみません見ていませんでした」

「念のための確認ですけど『はなはだしい』なんて言葉ないですよね? 間違ってませんか?」「辞書引けば出てくるごく普通の日本語です。検索してもすぐに出てきますよ」「すみません調べてなかったです……」

「心配なので確認しますけどこの日って金曜日で合ってます?」「カレンダー見ろ」「あっ……すみません」

一事が万事この調子。おわかり! いただけ! ただろうか!

慎重なのは良い。心配性なのも良い。しかし自分自身で調べ確認することを全くせず、とにかく他人に聞きまくる。それはもう、簡単な英単語から今年の祝日まで! つまり他人をスケジュール帳もしくは辞書代わりに使うのである。そうして他人の時間と頭脳を使っているくせ、石橋をガンガン叩くことを美徳と思っているのである。叩いているのは自分の石橋ではなく、他人の石橋であると言うのに! そもそも「石橋を叩いて渡る」ってのは美徳ではなく、皮肉めいた意味合いもある言葉だと言うのに! おい! 「orange」のスペルくらい自分で調べなさいよ!

今日も今日とて叩かれる石橋はヒビだらけ。あぁ。慎重と言えば聞こえが良いが、それは怠惰なだけなんだぜ。確認しようぜ、自分で。引こうぜ、辞書。調べようぜ、物事を。呆れるべきか怒るべきか、迷いながらの日々である。石橋は自分のを叩きましょう。ウヲさんとの約束だよ。



未分類0杯, 町田康, 非日常

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憧れの町田康のライブを、ついに念願叶って生で目にして感動したのがちょうど一ヶ月前だったが、まさかその一ヵ月後に憧れの町田康による朗読を楽しみ、サインをいただき、握手をしていただき、脳が爆発することになろうとは夢にも思わなかった。夢にも思わなかった。

あー、嬉しい。

今回のイベントはタイトルの通り。「御伽草子」を各々の作家の味で現代風に書き換えた絵本の完結記念イベントである。場所は神保町の東京堂書店六階のホール。一階のカフェでイベントチケットとドリンクを交換し、会議室を連想させる無機質な部屋で作家の登場を待った。

穏やかな面持ちで現れた町田康は、一ヶ月前に暗闇の中で見たときと印象が変わらなかった。向かって左から町田康、堀江敏幸、藤野可織、三名の作家が長机を前に座る。長机にはコップとマイクとおしぼりが用意されていたが、コップは伏せられたままで、朗読が始まる前に作家から突っ込みが入るまで水が入れられることはなかった。どうやらスタッフが水を入れるタイミングを逃したらしい。

まずはこの「現代版 御伽草子」の仕事を依頼されたときの状況がほわほわと語られた。町田康が司会の代わりを務め、二人の作家に質問をすることでトークが回っていく。聞いたところ、この「現代版 御伽草子」の仕事は随分ふんわりしたかたちで依頼されたようで、最初は御伽草子をもとに何を書くべきなのかも作家によっては曖昧な認識で、堀江さんは絵がつくことすら後から知ったそうである。また、文章の後に絵を用意しなければならないため、締め切りが普段よりもきつかったらしい。

「現代版 御伽草子」を書くにあたっての姿勢もそれぞれ違い、藤野さんは町田康と堀江さんの作品を読んだとき、やりすぎてしまったと焦ったらしい。このとき、いったいどんな話を書いたのだろうと気になったのだが、後の朗読でその思い切りの良い改変っぷりを理解し、こりゃあ確かにと納得した。

トークは全体的にふわっふわしていた。自分は読書量が多くないうえ、かなり一極集中なタイプなので堀江さんも藤野さんも存じ上げなかったのだが、堀江さんがとても個性的な人であることが感じ取られた。動物園に行ったらゾウとキリンとカバだけで時間が潰せて、ゾウは二時間見ていられるほど好き、耳と尻尾が動くと幸せ、と淡々と語り、どこかに危うげな空気が混じる。そして締め切りについてはかなりな方らしい。その「かなり」とは、締め切りをきっちり守る真面目なパンクロッカー町田康と比較して、という意味である。

町田康が現代風にアレンジした「付喪神」については、町田康の言葉のセンスが面白いと堀江さんの口から語られた。例えば包丁がまな板に対して言う「おまえのそういう木材的にのんびりしたところが一番、嫌だったんだよ」という台詞。これを聞いたとき嬉しく思った。そうそう、「木材的にのんびり」という言葉の、何となく納得させられるイメージ。ここ、自分も好きだと思ったんだよなぁ。

あと、「御伽草子」を現代風に書き直すにあたって、古い言葉と新しい言葉をどのように混ぜるか、といった話も語られた。例えば堀江さんは「アンモラル」をあえて平仮名の「あんもらる」にして、あたかもその時代にあった言葉のように混ぜ込んでしまった。また、藤野さんは冒頭の「中ごろの事にやありけん」の意味を調べたところ気に入ったので、そこはその意味のままに書き下したそうだ。

町田康の「付喪神」について堀江さんからの言及も。ネタバレに配慮しつつ、後半でとんでもない展開になることについて触れた。そして後半、現代社会への批判が混ぜられているが、これは題材があった方が書きやすいんですか? だったかなぁ。ニュアンスを忘れてしまった。こういったことを聞いていた記憶があるのだが。それについて町田康はうーんと首をひねりつつ答えていた。

ちなみに町田康の「付喪神」は、「付喪神」と戦う相手が原典と異なっている。これについて、町田康は「そのままだと真言宗最強みたいになっちゃってつまらないから」といった内容のことを言っていたので家に帰ってから読んでみたが、確かに真言宗最強物語であった。なるほど。

トークの後は作家本人による朗読の時間に。町田康はいつものイントネーションで語っていて、ページをめくるときなどにたまに間が空くことはあれど、全く笑わないのがすごい。あの内容で噴き出さないのがすごい。いったいどんな内容なんだ、と気になる人は是非本を買って欲しい。わかるから。付喪神がヘッドバンギングするから。無論、会場からはたびたび笑いが起こっていた。

堀江さんはトークから時折醸し出される危うげな印象が引っ込み、淡々としていて聞きやすかった。藤野さんは語り口は普通なものの内容がぶっ飛んでいて、わりとストレートな現代批判が突っ込まれているように感じられた。正直最後まで聞きたかった。

最後はサイン会。もう興奮した。静かに興奮した。多くは語れなかったが、本も音楽も大好きなこと、新宿ロフトのライブに行ったことは告げられた。町田康はありがとうと言ってくれて、手を差し出してくれた。わーーーーーーーーーーーーーーー握手だーーーーーーーーうわあああああああああああ。気が狂った。

最後まで見届けてから会場を後にし、電車の中で町田康の「付喪神」とオリジナルの「付喪神」を読み比べた。あんなに荒唐無稽に感じられる町田康の「付喪神」は、意外にも原典に沿った内容になっていて、だから昔話って好きなんだようちくしょうめ、くーーーーーーと楽しさと嬉しさを改めて噛み締めたのであった。どっとはらい。



日記録0杯, 日常

2015年12月6日(日) 緑茶カウント:0杯

痒い。激烈に痒い。あまりに痒くて眠れないほど痒い。左足の小指の股。何でこうも痒いのか知らぬがとにかく痒く、キンカンを塗って痒みに耐えつつ眠ったが朝には靴下が脱げていて悲惨な有様。見事に掻き毟られて血液と汁がにじんでいる。じゅっくじゅくに。

絶対水虫だろこれは。って思うじゃん。思うでしょうよ。このじゅくじゅくした感じ、この痒さ。水虫以外の何者でもないでしょうよ。白癬菌をどっかからテイクアウトしたんでしょうよ。公衆浴場もプールも利用していないけどテイクアウトしたんでしょうよどっかから。って思ったらもう善は急げ。素人がどうこう考えても仕方がないっつーことで皮膚科へゴー。水虫の診断を受けるために皮膚科に行って参りました。

患部の皮膚をちょこっとつまみとられ、白癬菌の存在を調べる検査を実施。さあさっさと診断を下すがよろしい。そして薬を処方してくださいませ。己はとにかく早くこの痒みとじゅくじゅく感から解放されたいの、解き放たれたいのですと死刑宣告ならぬ水虫宣告を待っていたのに。いたのにだよ。我が左足の小指の股には白癬菌はいらっしゃいませんでした。

「湿疹が出来て掻き毟ったのが良くなかったんでしょう。湿疹のお薬出しておきますね」

マジか。マジかよ。あのね、このように書いているけどね、ちょっとはこう決心と言うか、踏ん切りが必要だったんですよ。だって嫌じゃん水虫持ちって宣告されんの。出来たら「あれー何か気付いたら治ってたー」って感じに水虫の薬を使わずにさらっと治ってたって状況が理想じゃん。でもめっちゃ痒いじゃん。眠れないほど痒いじゃん。激烈に痒かったら我慢出来ないじゃん。だから意を決して皮膚科の扉をノックしたのに水虫じゃあなかったよ! 湿疹だったよ! えー! 嬉しいけど! えー!!

薬は激烈に効いてじゅくじゅくも痒みも五日で治った。その後再検査を受けたもののやはり白癬菌はいなかった。嬉しかった。嬉しかったけどここまで決心して! と思う気持ちも残っていた。でも左足の小指の股がサラサラになったからもう何でも良いやと思った。快適って素敵だね!



未分類0杯, 平沢進, 非日常

サッカーや野球のようなスポーツ観戦とライブコンサートの違いの一つに勝敗の有無がある。前者にはあり、後者には無い。よって通常、ライブコンサートの場合、終了後に勝利の美酒に酔うこともなければ贔屓チームの敗北に肩を落とすこともない。だいたい「今日の演奏良かったなー」「あの曲をやってくれて嬉しかったー」と満足して終わるが、今日は帰りの電車の中で、確かに己はうなだれていたのである。

まさかの、二日連続バッドエンド。
しかも、ほとんど同じルートで。

初めて参戦したインタラ「ノモノスとイミューム」では、二日連続グッドエンドで、さらにそれぞれ別種のルートを観ることが出来たのでルンルン気分で帰宅したが今回は。橋が破壊されず安心したのも束の間、アヴァターのポケットから転がり落ちたΣ-12の目玉が谷底へ落ちた瞬間の絶望感と言ったら無い。もう一度チャンスをくれと叫びたい気分だが今日は公演最終日。もうチャンスは無いのである。

そしてこの二日間で己はすっかりアヴァターに愛着を持ってしまっていた。己が参戦した一日目でアヴァターは何度も谷底へ落ちた。家に帰ってストーリーを思い返しながら歌詞を読み曲を聴き、どうにか彼をグッドエンドへ連れて行きたい、自我が無く不安ばかり抱えているアヴァターが堂々と己の信じる道を歩けるようになってほしい、と思ったのに。己の選択ミスにより、アヴァターはふたたび谷底へ突き落とされたのであった。

悲しかった。

アヴァターが何度も谷底へ落とされたかと思えば火事場のサリーのところに戻り、また落とされ、といった繰り返しの映像を見た後の「鉄切り歌」。冒頭で「何度も落ちる人を見た」と歌われ、まさにさっきの映像そのものでともすればギャグになりかねないが笑う余裕が無い。過去向く士に利用され、過去向く士の差し向ける幻影の衛星からの声を頼りに必死にホログラムの断崖を登っていたアヴァター。実際その崖は崖でも何でもなかったが、確かにあいつは頑張ったと思うぜ。

平沢の全力の歌唱「ホログラムを登る男」は今日も迫力満点で、この一曲で全ての力を使いきろうとしているのではないかと思うほど。この曲もグッドエンドルートへ進めていれば、怯え迷いながらも断崖を登りきり、真実を見つめることが出来るようになったアヴァターを祝福する歌になっていたんだろうなぁと思うとまた切ない。

とはいえ悲しくて切ないばかりではない。バッドエンドは残念だったがライブそのものはとても楽しかった。昨日は二階席から俯瞰の眺めを楽しみ、本日はアリーナ九列目の中央寄り。真正面から平沢をガッツリ観ることが出来た。両方味わえてラッキーだった。

二階席から観たときは降り注ぎ旋回する光の雨を見下ろせたので、ステージと会場がキラキラと彩られる様を視界に収めることが出来た。対して本日はまさに光の雨の中にいると言った感じ。カラフルなスポットライトが平沢を照らし、ライトは色も形も変えて縦横無尽に動き回る。青いライトで照らされるとまるで海の中にいるような心地になり、幾本もの細く白いライトがステージを照らせばまるで平沢が後光に照らされているように見えた。神々しかった。

そしてとっておきが最後に一つ。今回自力で「WORLD CELL」を回すことが出来なかったが、アンコールでステージに再登場した平沢、「私はどの平沢でしょう?」と口にする。何とアンコールで登場した平沢は今までステージに立っていた平沢ではないそうで、さっきまでの平沢に頼まれて「WORLD CELL」を回しにやってきたという、別次元の平沢だそうだ。つまり谷底に落とされたショックで自我を取り戻し、元のタイムラインで「WORLD CELL」を回したアヴァターそのものか…!?

別次元の平沢は「コツをつかんだ」と言っていともたやすく「WORLD CELL」を回した。もしこの彼があのアヴァターであるなら、不安ばかり抱えていて、自分で考えることが出来ず、過去向く士についてきた挙句に利用された男が、我々の世界を救うためにまたタイムラインを飛び越えてやってきてくれた……と考えると、バッドエンドではあるが、ここまでの道は無駄じゃなかったのかもしれないと思える。

「WORLD CELL」はまるで花咲くように徐々に開き、回転し、「穏やかで創造的な知識活動」の象徴だろう、光の粒子を集めていく。光はWORLD CELLを中心に渦に飲まれるように回転し、気付けば平沢の頭上には銀色に輝くミラーボール。そしてスクリーンと会場が一体となり、まるで自分達がWORLD CELLの中心にいるかのような錯覚を覚える光景に包まれたのである。美しかった。

あぁ、でもこれをお情けでなく、自力で観たかったなぁ。

他に印象的だった場面も書き記しておこう。「オーロラ」の最後の繰り返しで、背が多少弓なりになりつつも、余裕の表情で歌っていたことに驚いた。まだまだ余力はたっぷりある、といった様子である。流石だなぁと舌を巻いた。

「火事場のサリー」ではPEVO一号と共にステージの段差に座り、タルボを抱えて弾き語り。足でトントンとリズムをとりながら歌っていたのがキュートで、サビの声の美しさに聴き惚れた。透明感があってたまらない。そして「ハッ!」と言うところでは真面目な表情で右を向く仕草。格好良かった。

特筆すべきは「鉄切り歌」。通常、ミュージシャンが観客に合唱を促す場合、観客にマイクを向けることが多いと思う。しかし平沢は歌っている最中に不意に口をつぐみ、明後日の方向を向いて黙った。ここでその様子から読み取れた。「おまえらがうたえ」という言葉が。そして発生した「だんだん切れ!」という楽しい合唱。腰に手を当てて仁王立ちをして客席を睨みつける平沢は合唱をしている我々の様子を見守っているようにも見えれば、二日連続でバッドエンドルートを選んでしまったことに対するお怒りの表情にも見え、「あぁごめんなさい平沢様!!」と叫びたい気持ちになりつつひたすら「だんだん切れ!」と合唱した。めっちゃ楽しかった。

あと、Σ-12が海水浴に行くと言っていたのが面白くもあり嬉しくもあった。白虎野で公開手術の刑を受けた別次元の平沢がΣ-12である。結構な悲劇である。そのΣ-12がノモノス・ハンターとして働いたり、海水浴に出かけたりと、何だかんだで楽しそうにしているのが嬉しい。

インタラクティブ・ライブから帰り、日常に戻りつつある今はひたすら「ホログラムを登る男」を流しながらちょくちょく歌詞カードを手にとって読んでいる。ライブの後からアルバムの聴こえ方が変わった。点と点が繋がったのである。ただ耳に心地良かっただけの音が意味を持って脳に入ってくる。

谷底に突き落とされるあの背中はきっと、誰のものにもなるのだろう。あの二日間であれだけの愛着をアヴァターに持ってしまったのは、彼の要素が自分の中にもあるからに違いない。また、平沢の発するメッセージと正反対の人物「アヴァター」もまた平沢進の姿そのものだ。彼は別次元の平沢という設定だが、平沢の中にもそういった部分があって、それを自覚しつつ外道であり邪道である道を選ぶ覚悟を持って進んでいるのだろうか。

バッドエンドの悔いがあるせいか、ついつい考えてしまう。グッドエンドを観たかった気持ちに変わりは無いが、この余韻はこれはこれで、少し楽しい。