日記録0杯, 日常,

2017年6月25日(日) 緑茶カウント:0杯

好きだった店があった。そこは朝方まで営業しているこじんまりとしたイタリアン。カウンター四席に、テーブル席が一つだけ。手作りのピクルスに、原木から切り出す生ハム、チーズの盛り合わせ、釜焼きのピザ。ピザは八百円で、つまみをちょこちょこ食べた後に一人で食べるのにちょうど良い大きさ。ここに深夜、ふらりと入るのが好きだった。

しかしだんだんと色合いが変わっていった。カウンターの目の前のコーヒーメーカーに埃が積もり、ガチャガチャか何かで引いたらしいフィギュアが無造作に置かれ、凝った食器は簡易な丸皿に替えられた。以来、少しずつ足が遠のいていたのだが、昼間に道端で店主に偶然出会ったことをきっかけに、久しぶりに店に入ってみたのだった。そしてその日の帰り道、きっと自分は二度とここに来ないだろうことを悟ったのであった。

そこはとても好きな店だったが、最早過去形なのである。
内装は変わらず、店主も同じその人。しかし看板が挿げ替えられていたのだ。

カウンター席に座って真新しいメニューを開く。そこには手作りピクルスも生ハムもチーズ盛り合わせもなかった。前菜もメインも千二百円ほどの価格で、ちまちまつまめるものは一つもない。千二百円のサラダであれば結構な量と類推できる。一人で食べればサラダ一つで満腹してしまう場合もあるだろう。仕方なしに釜焼きピザが焼けるのを待ちながら、ちびちびと何もつままずビールを呑んだ。

八百円のピザは千二百円のピザになっていた。さもありなん、あぁ、何と巨大なピザよ!

カウンター四席に、テーブル席が一つ。一人でふらりと入るのにちょうど良い空間だったのに、すっかり変わってしまった中身。ここは一人客が多い店で、この日も二人先客がいて、二人ともそれぞれバラバラに一人で来たようだった。彼らは何を食べて呑んだのかはわからない。

この店は今後どのように変わっていくのだろう。わからないが、知る由もない。一つわかることは、己の好きな場所はとっくの昔になくなっていたということだった。



日記録0杯, 日常

2017年6月24日(土) 緑茶カウント:0杯

布団に寝そべって意識して全身の力を抜くと、普段感じることのない腕や足の重さに気付き、ぐったりと重力に引きつけられる。

脱力している。

脳が焼け焦げるようだった。そんな一週間だった。今日はシーツを洗濯して、布団を干した。シーツと布団に染みこんだ汗と疲労とだるさしんどさが、ゴウンゴウンと水で洗われ太陽の光を浴びて蒸発していく。今、ベッドの上には真っ白な布団と清潔なシーツがある。これに横たわって今日はじっくり、ゆるい灯りの下で本を読もう。

明日は整骨院に行く。いつもよりも長く体をほぐしてもらう。図書館に行き、予約していた資料を受け取りその場で読む。夜は新鮮な野菜をたっぷり、そしてタンパク質を美味しく食べたい。それに心地良いだけのお酒を少々。

あぁ、休日だ。脱力の日を越えて、活力を得て動き回れる休日だ。



日記録0杯, 日常

2017年6月10日(土) 緑茶カウント:0杯

後悔はしていない。後悔はしていないが、馬鹿だとは思う。
三千九百円かけて、うっちゃんのストラップを手に入れた。

街中をふらふら散歩していたら、あるゲームセンターの入り口に設置せられたガチャガチャに目が行き、一瞬で釘付けになったのだ。何と、らんま1/2のガチャガチャ。小学校高学年の頃に夢中になり、お小遣いを貯めて中古の単行本を集めた思い出が蘇る。確か当時のお小遣いは週に二百十円で、ぷよぷよのプラスティックケースを貯金箱代わりにしてちまちまお金を貯めていた。そうしてようやく千円貯まった頃、親にブックオフへと連れて行ってもらって、一冊百円か二百円の中古の単行本をこれまたちまちま買っていたのだ。

当時の自分からすれば大金の三千九百円。こいつをガチャガチャの投入口に三百円ずつ差込み、ハンドルを十三回まわした。うっちゃんが欲しかった。最初に出たのはシャンプーだった。可愛い。次に出たのは女らんまだった。可愛い。その次に出たのは男らんまだった。可愛い。しかし、うっちゃんが欲しかった。一番欲しいのがうっちゃんだった。そのうっちゃんが出てくるまでに十二回ハンドルを回し、うっちゃん以外の全員をコンプリートした。

そうして三千九百円かけて手に入れたうっちゃんのストラップ。可愛い。後悔はしていない。後悔はしていないが、馬鹿だとは思う。

その後、菓子屋でスナック菓子を二つ買った。二百円だった。ストラップ一個分にも満たない値段だった。次にドラッグストアでコンタクトレンズの洗浄液、牛乳石鹸、風呂用洗剤、整髪料、整腸剤など必要なものをたっぷり買った。三千二百円だった。次に通りすがりのバーにふらりと入り、ベルギービール二杯とピクルス、ソーセージを食べた。二千九百円だった。

鞄の中にある十三個のストラップ。子供の頃より愛した漫画のストラップ。ドラッグストアの品々よりも、バーでの飲食よりも高い値段。後悔はしていない。しかし馬鹿だとは思う。馬鹿だとは思うが、きっと今後も魅力的な品を見つければ繰り返すだろう。帰宅して机の上にストラップを並べる。好きだなぁ、と思う。そうしてきっと、あの頃コツコツ小遣いを貯めて中古本を買っていた自分も今の自分を知れば喜ぶに違いにない、と確信した。手にとってかえずがえす眺める。幸せだな、と思った。


20170610



日記録0杯, 日常,

2017年6月7日(水) 緑茶カウント:0杯

作り置きしていたポーク・ソテーを温めながら、何のソースをつけようかと冷蔵庫を開く。目に入ったのはケチャップ、マヨネーズ、ウスターソース、青じそドレッシング、醤油、白だし、マスタード。この間はケチャップとマヨネーズとウスターソースを混ぜて温めたものをつけて食したが、それすらも面倒くさい気持ちが生じている今。で、あればと冷蔵庫の隅から取り出したのはトンカツソース。合わないことはないはずである。

そうして口の中に広がったのは驚くかな、錯覚の味である。これはポーク・ソテーである。しかし、卵もパン粉もついていないのにトンカツの味がするのである。トンカツソースをかけるだけで、脳がトンカツと錯覚するのだ。そう、それはまるで衣を剥いだトンカツを食べているような。そう、それはまるで衣を剥いだトンカツのような味になってしまったのだ。

一時の後、虚無の味が広がった。もともとはポーク・ソテーという一人前の料理だったはずの代物が、衣を剥いだトンカツのようなもの、という悲しい一皿に成り果てた。それはまるで二級品のトンカツのような、トンカツもどきのような、トンカツを食べたい人が無理矢理自分を騙しているような、そんな虚しい味がした。

虚無の味。

皿にあるのはポーク・ソテー。豚肉に塩胡椒を振って、小麦粉をまとわせ、オリーブオイルでソテーした肉料理、だったもの。傍らのトンカツソースは黙って食卓の上で直立している。己はそれを眺めている。脳には虚無が広がっていた。そんな一つの夕食だった。



日記録0杯, 日常

2017年6月5日(月) 緑茶カウント:0杯

筋肉少女帯が好きだ。水戸華之介が好きだ。平沢進が好きだ。
町田康が好きだ。江戸川乱歩が好きだ。太宰治が好きだ。
昆虫が好きだ。寄生虫が好きだ。微生物が好きだ。両生類が好きだ。爬虫類が好きだ。
ジョジョが好きだ。ネウロが好きだ。ミスフルが好きだ。

たくさんある好きなもの。これらについて「嫌い」と言う人がいたら、人はどう思うだろう。己はどう思うか? 聞きたいと思う。知りたいと思う。わくわくする。

しかし中には「悲しい」と思う人もいるだろう。それを知っている。だから、感想を語るのは難しい。

思い返せば高校生の頃。「Mr.FULLSWING」というギャグ野球漫画が好きだったあのときに確かに己は鍛えられた。当時の自分は感想を語り合える仲間を多く持っておらず、とにかく感想に飢えていて、ジャンプ感想サイトを五十個百個、いくつもいくつも巡っていた。しかしそれらのサイトでミスフルの評価は軒並み辛口、いや、言ってしまえばアンチ的意見を書くのが流行っている風潮もあっただろう。たった一言「作者死ね」と切って捨てるサイトも少なくなく、まともな感想を読める機会は少なかった。だからこそ、例え辛辣な意見でも、きちんとした感想を書いてくれるサイトを見つけたときは嬉しい思いがこみ上げた。

ミスフルのおかげで己は別の視点を持てたと思う。ミスフルに感謝したい。

「好き嫌い」は単なる好みの問題で、「好き嫌い」を語れるのはその対象を知った人間だけである。よって、「好き」の中にも「嫌い」の中にも一つの要素があって、ある人が「嫌い」と感ずる理由が己の「好き」な要素かもしれない。はたまた、全く納得できない内容かもしれない。だが、好きな理由も嫌いな理由も等しく興味深い感想だ。だから知りたいと思う、聞きたいと思う。好きな理由も嫌いな理由も。

しかし難しいのは、万人がそのように思っているとは限らないということである。「好き嫌い」は好みの問題だが、それを「良い悪い」と捉える人もいる。したがって、安易に好き嫌いを話すと人を傷つけてしまう場合もあり、注意が必要だと痛感している。特にその傾向は、万人に愛される作品のファンに対して顕著であり、気をつけたい。きっと、慣れていないこともあるのだろう。

そう。例え自分が「好きな作品の嫌いな理由」を知りたいと思っていても、他者もそうとは限らないのだ。だが、そのうえで伝えたい。あくまで好みの問題だ。他の誰かがその対象を作品を嫌いだと言っていたところで、自分自身が好きならば何の問題があるだろうか。所詮、あくまで好悪の問題であり、好みに由来するだけである。他者の嫌いな理由の中にこそ好きな要素があるかもしれない。そこに感じる魅力は、誰が何と言おうと関係ない。

好きなものは好きと自信を持って胸に刻み、語ろう。それこそが、対象の力になるかもしれないから。