日記録2杯, 日常

2015年10月29日(木) 緑茶カウント:2杯

口の中に入れた途端、ほろりと崩れる繊維質。歯を使わずとも上あごで潰れるやわらかさ。これは離乳食ですか? いいえオクラの胡麻和えです。

不味い。

何なのかってーくらい不味い。近所のスーパーで販売されている惣菜の一つ。ついこの間同じものを購入し食したところ、ちょうど良いサクサク感、ほの甘い醤油と胡麻の味。しつこくないねばり。あらこれ美味しいじゃーん、と同じ味を期待して購入したらべちゃっ。どう考えても茹ですぎている。三十秒茹でるところを三分くらい茹でて、やっべうっかり鍋余所見しちゃったらくたくたじゃーんでもまぁいいかバレないバレない、バレたらやばいおーけーおーけーと、調理担当者が非常にいい加減な態度でちゃちゃっと味付けしてタッパーに詰めたような味。というかそれそのもの。この食感でよくぞまあオクラの形状を保っていたと感心するレベルである。すごいなオクラ。

やわらかい不味さをひたすら飲み込む夜。良いことと言ったら不味さを噛み締める必要が無いほどやわらかいこと。噛み締める固さがありゃあ不味くはなかったんだが。むしろ美味しかったんだが。口の中で溶けるオクラ。不味かった。



日記録2杯, 日常

2015年9月27日(日) 緑茶カウント:2杯

親切心とわかっている。わかっているが、どうか放っておいてくれ! と叫びたくなるのである。

その人は己が眼鏡を手に取るたびにタイヤのついた姿見をガラガラと引っ張って顔の前、もしくは真横に持ってきてくれる。場所は眼鏡屋。そして己は眼鏡を新調するためにここに来ている。よって店員の気遣いはありがたいはずなのだが、とにかく、ちょいと試してみようと移動して眼鏡を手にとればガラガラガラガラ、何か違うなと思ってまた移動して眼鏡を手に取ればゴロゴロゴロゴロゴロンゴロン、一挙一動を見守るかのごとく、監視されているかのごとく、姿見を手についてくるのであり、そのプレッシャーたるや相当なものであり、騒がしさもなかなかのものであり、全くもって落ち着かない。

そもそも姿見が無くても己は困らないのである。何故ならその眼鏡屋の店内には至るところに大小の鏡が設置されているのだ。ちょっとかけて様子を見る程度なら事足りるし、事足りるように店舗も設計されているのである。一人の店員につきっきりで姿見を持ってきてもらう必要は無いのである。無いはずなのに、三歩進めばガラガラガラ、十歩移動すればゴロンゴロンゴロンゴロン、良いから! 良いから! お構いなく! どうか放っておいてくださいよ!

最終的にちょうど良い眼鏡を購入することに成功はしたが、眼鏡選びとは別のところで疲れきったのであった。どっとはらい。



日記録2杯, 日常, 重陽の節句

2015年9月9日(水) 緑茶カウント:2杯

本日は重陽の節句である、と会う人会う人に伝えることを己の使命として活動してきてはや何年か。なかなか成果が得られぬが、今年はついに「職場の人に重陽の節句の話をしたら物知りだねと言われた」というご報告をいただくことができ、やったね! 言い続けてきた甲斐があった! と握りこぶしをつくった喜び。

菊の花の節句である。五節句の一つである。重陽の節句である。どうぞよろしくお願いします。



日記録2杯, 日常

2015年8月23日(日) 緑茶カウント:2杯

縁あってkindleを手に入れたのが二ヶ月ほど前だっただろうか。目的は電子書籍を読むことで、まずは青空文庫をダウンロードし、夏目漱石や太宰治を読み、この年になって初めて読んだ「坊ちゃん」「人間失格」の面白さに感動し、中学生の頃、教科書に載っていた一部しか知らず、長らく前後の話を把握していなかった「こころ」を読みきって圧倒され、はるか昔に読んだものの、全く内容を覚えていないどころか主要登場人物すら記憶にない「吾輩は猫である」を読みながら首を傾げたり、気軽な読書ライフを楽しんでいる。

このように最近までは電子書籍を読む目的でしか使用していなかったが、ここ数日で様々なアプリのダウンロードを試すようになり、スケジュール帳やメモ帳、お絵描きアプリを入れてはその便利さを堪能している。特にスケジュール帳。毎年毎年、そうだ新しいスケジュール帳を買わねばなるまいなと思いつつ延ばし延ばしにした挙句、下半期に入ってようやく新しいスケジュール帳を購入し、前半は全く使わない、という愚行を繰り返している。その点アプリなら楽だ。だって買い換える必要が無いから。

kindleで漫画は買っていなかった。漫画は紙で読みたいなと思っていたためだ。しかし、我が家のスペースは圧迫されている。漫画は読みたいが、これ以上部屋が狭くなるのはつらい。だが捨てる本も無い。そこでついに電子書籍で漫画の購入を試みた。タイトルは「ゴールデンカムイ」。アイヌ文化と狩猟漫画が好きな己なら、絶対はまるに違いないと確信しつつ部屋のスペースの関係で手が出せなかった漫画である。しかし我慢出来なくなったので買った。だって絶対面白いじゃん!!

結果。滅茶苦茶面白かった。好みだった。満足した。しかしkindleでは見開きを一度に開くことが出来ず、まず右ページ、次に左ページとスライドさせながら読むことになり、迫力が失われるのが惜しい。やはりこれは紙で買うべき漫画だったかもしれない。いっそ紙でも買ってしまおうかしら、と思うほど好みだった。kindleで読むのは四コマ漫画のような、見開きが使われない漫画の方が合っているかもしれないと思いつつ、kindle版四巻の発売を心待ちにするのである。

以上、新しいおもちゃを手に入れて浮かれている話でした。



日記録2杯, 日常

2015年8月10日(月) 緑茶カウント:2杯

全くもって不思議なことだが、このところ「若い」「若く見える」と言われることが増えた。とても増えた。とても増えたのでいぶかしんでいる。何故なら今よりもっと若かった二十代前半の頃は、必ず実年齢よりも上に見られていたからである。三十代の人に「私より年上かと思った」と言われたことさえあった。それは流石にまず自己認識を改めたまえよと突っ込みたくなったが、とにかく実際の年齢よりも上に見られていたのである。

しかし不思議だろうが何だろうが二十九歳の自分が人様から若い若いと言われるのは事実であるので、その意味を考えてみようと思う。考えるべきである。このまま文字通りに受け取ったら恐ろしい目に合う気がしてならないのでしっかり原因を探ろうじゃないか。

そんなわけで、いったいどれが該当するかわからないが、考えられる可能性をピックアップしてみるとしよう。

(1)服装・外見が一般的な二十九歳の定型から外れている。

いわゆる「二十九歳らしい」、しっかりした格好をしていないので、それらしく見えない、かと言って何に分類されるのかもよくわからないため、年齢がわからず、若く見えるという錯覚を起こしている。ありそうである。

(2)思考・能力が幼稚である。

実年齢にあるべき思考・能力が伴っていないことを暗に非難されている。そのうえで「もっと成長したまえよ」と呆れられている。これだったら怖い。

(3)世間の「三十代前後」のイメージと実際の「三十代前後」が乖離している。

これは結構あるのではないかと思っている。三十代と言うと、やたらとおっさんおばさん扱いされるきらいがあり、当人達もおっさんおばさんを楽しそうに自称し出すが、そこにはまだ余裕が見え隠れしている。「おっさんおばさんなんてまだ早いよ」と他人に否定される前提での自称であり、その前提が通じるのである。

(4)白髪が無く、髪が多い。

襟足にハゲはあるけどな。

(5)周囲に気を遣われる立ち位置・年齢になっている。

これもあるかもしれない。事実がどうであれ、「お世辞を言われる」存在になっているのかもしれない。

(6)内面が外見に追いついた。

もしかしたらあるかもしれない。ここに記す文章もツイートも、老成している、じいさんのようだと言われることがままある。ゆえに二十代前半の頃は過剰に落ち着いて見えていたのが、三十代間近になり年相応に近付いてきて、ギャップが薄まり違和感が減ったのかもしれない。

まだあるかもしれないが、こんなところだろうか。何にせよ真に受けて調子に乗らないよう気をつけたいところである。だいたい同年代の友人達が、そもそも大きく変わった印象が無いのだ。そりゃあ腹が出たり白髪が生えたり多少の変化こそあるものの、さほどでは無い。よって(3)の世間の三十代前後のイメージと実際のそれが乖離している、が一番有力候補に思えるので、人様の言葉に影響されて若いと思い込まないよう気をつけたい次第である。

このように意識しつつ、何でここまで気を遣わねばならんのだ、恐怖するはめになっているのだと思う自分もいる。ううん、なかなか難しい。