日記録2杯, 日常

2016年10月12日(水) 緑茶カウント:2杯

筋肉少女帯の十七枚目のオリジナルアルバム「おまけのいちにち(闘いの日々)」に収録されている一曲「枕投げ営業」がDAMで配信されることが決まった。大好きな「枕投げ営業」をカラオケで歌えるようになることが決まった。

やったあああああああああああああああああ!!!! うわあああああああああああああ枕投げ営業だあああああああああああああ!!!! ついに! 枕投げ営業を歌える! あの素敵な枕投げ営業を歌える! 嬉しい! 嬉しい!! もうインストゥルメンタルをカラオケに持ち込んで自力で枕投げ営業を! 歌うなんてことを!! しなくて良いんだやったああああああああああああ!!!!

この日は遅くに帰宅して、就寝時間を過ぎてから夕飯を摂り始めた。睡眠不足は避けたいが栄養不足も日中の活動に支障を来たす。寝る直前に食べるのはあまり感心しないが仕方が無い、と冷蔵庫から作り置きの肉団子や野菜の酢漬けを出してもそもそ食べたその後に知ったニュース。くたくたに疲れ切っていたそのときに見たニュース。

な!ん!な!の!!!! この!事態!!!!
嬉しい嬉しい! やったー! やったーーーー!!!!
ひゃっほー明日も頑張るぞーーーーー!!!! いえーい!!!!



日記録0杯, 日常

2016年10月8日(土) 緑茶カウント:0杯

そういえばサディズムの語源がマルキ・ド・サドであることは知っているが、彼の著作は読んだことが無かったなぁ、と軽い気持ちで「ソドム百二十日」について調べた結果、あらすじを読んだだけで気分が悪くなった。人間は身の程をわきまえるべきである。

そんなサドの著作とは全く関係のない話題を供しよう。己は十年ほどコンタクトレンズを愛用しており、少なくとも七年以上はハード・コンタクトレンズの装着をし続けていた。そうして最近になって、ハード・コンタクトレンズが自分の眼球には合わないことを思い知り、ソフト・コンタクトレンズに戻ったのである。

ソフト・コンタクトレンズを通した世界は快適であった。頻繁に使っていた目薬は出番を失い、左目を苛む異物感も消え失せた。長い息が漏れた。早く戻れば良かったと思った。

コンタクトレンズを初めて購入したとき、選んだのは初心者向けのソフト・コンタクトレンズであった。そして問題なくソフト・コンタクトレンズを愛用し続たものの、視力が下がり新しいコンタクトレンズが必要になったとき、より目に優しいハード・コンタクトレンズに乗り換えたのである。装着の初めこそ異物感を抱くものの、こちらの方が酸素の透過性が良く眼球にとってはよろしい、という話を聞いて。

ハード・コンタクトレンズは快適だった。ケアも楽であるし、異物感も無かった。だが視力の低下と共に何度か交換を余儀なくされ、ある日のこと。左目だけ見えづらい事実に気がついた。何故だろうと思いつつ眼科に赴くと、眼球のカーブが変わったためと告げられた。ハード・コンタクトレンズはソフト・コンタクトレンズとは違い柔軟性が無い。よって、眼球のカーブとレンズのカーブが合わないと見えづらくなるのである。そこで別のカーブのレンズを新調したのだが、まだ違和感は目に合った。とはいえこれも最初だけ、慣れれば消えると思っていたのである。

しかし。慣れなかったのだ。慣れないのに慣れないことに慣れてしまって、二年近く装着を続けてしまったのだ。その慣れないレンズを。

だが、ついに転機が訪れた。外出時用につけ外しが容易なワン・デイのソフトコンタクトレンズを購入したのである。これさえあれば外泊時にも洗浄液などを持ち運ぶ必要がない。楽だ楽だイエーイ、という気分で購入したのであるが。何年かぶりにソフト・コンタクトレンズを通して見た世界は鮮明そのもの。異物感も無く目薬もいらない。「快適」という二文字を表した世界がそこには広がっていたのであった。

暗い気持ちになった。まさか。ずっと長年愛用し続けていたが。そもそも自分はハード・コンタクトレンズに不向きな人間だったのか? と。

まさかと思いつつ、カーブさえ調整すれば問題ないかもしれない、とすがる思いでハード・コンタクトレンズを新調したが、検査の上では全く問題が無いにも関わらず視界は不明瞭で、どうしてもレンズの際が視界に入って見えづらい。眼科医曰く、たまにそういう人もいるとのことで、眼科医の勧めに従い己は新しいハード・コンタクトレンズを返品し、長く使えるソフト・コンタクトレンズを新調した。視界は快適であった。

あの長年の違和感は何だったのだろうと思いを馳せる。それでも己の眼球は健康であると言う。ただただ不可解だなぁ、と思った。



日記録2杯, 日常

2016年10月4日(火) 緑茶カウント:2杯

千葉県佐倉市の佐倉駅で己は呆然としていた。時刻は二十四時を過ぎ、当に終電は終わっている。改札近くの時刻表を見上げ続けても事実を突きつけられるばかり。己にできることといえば、犯した失態にただひたすら言葉を失うことだけであった。

鎌倉で友人と呑んでいた。楽しかった。まずはドイツ料理の店に入ってソーセージを食べてビールを呑み、二軒目ではイタリア料理の店に入って生ハムを食べてビールを呑んだ。己を含めてたった三人の集まりであるにも関わらず大いに盛り上がり、話しに話して気持ちよく別れた。そうして一人改札を抜け電車に乗り、三つか四つ駅を過ぎたら乗換えをする予定だったのに、わずか十分かそこらで寝入ってしまい、あぁ! ガタンゴトンガタンゴトンと意識のないまま神奈川、東京、千葉へと大移動をするはめになったのである。

解散したのは二十二時。本来であればどう見積もっても二十三時には家に着くはずだったのに、二十四時、全く縁もゆかりも無い千葉県佐倉市佐倉駅に佇まざるを得ないこの事実。今まで酔っ払って乗り過ごしたことなどほとんど無く、乗り過ごしても一駅程度だっただけに自分を信じられなかった。狐につままれた気分だった。だが、狐は何も悪くない。ただ単純に呑みすぎたのだ。

帰れるところまでタクシーで帰ろうか、どうしようかと思いつつ駅を抜け、真っ暗な道をてくてく歩き、見つけたビジネスホテルの門を叩いて宿を借りた。部屋の風呂に入って思ったことは、唯一の救いはこの駅が、己の好きな漫画のヒロインと同じ名前だってことだなぁ、ということで。飽きることなくしみじみと、ただただ呆然とし続けたのであった。



日記録3杯, 日常

2016年10月2日(日) 緑茶カウント:3杯

気持ちの良い午後の日差しを浴びながら、蝶々がひらひらと追いかけっこをしている。花壇の手入れが行き届いているお宅が続いているためか、小さく可憐なシジミチョウ、木の葉のようなタテハチョウがあっちでもこっちでもひらひらしていてとても楽しい。そんな愛らしい虫を眺めながらも己の頭の中は、のどかな景色とは正反対にNATOとKGBと冷戦と戦車と鬼でいっぱいだった。

NATOとKGBと冷戦と戦車と鬼。

「痴人の愛」を読み終わった。「痴人の愛」については、もうあんたが幸せならそれで良いんじゃないっすかね……と主人公に対して思った。諦めの境地である。そもそも関わりなぞ持ちように無いにも関わらず、無念さを抱かずにはいられなかった。そしてちょうど「痴人の愛」を読みながら、同時に読んでいた漫画が「エロイカより愛をこめて」。読んでいた、と言いつつ今も読み進めている最中であり、これがものすごく面白い。

「エロイカより愛をこめて」は東西冷戦時代を舞台に、美術品愛好家の大泥棒ドリアン・レッド・グローリア伯爵、通称「エロイカ」と、NATO軍情報部の陸軍少佐クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ、通称「鉄のクラウス」が、各々のターゲットや任務が絡み合いながら時に衝突、時に共闘、したかと思えば裏切ったり手を貸したり裏切ったりし、そこにKGBやCIAが絡んでくるスパイ漫画である。

これの文庫の七巻か八巻までは亡き母が所有していて、中学だか高校の頃に途中まで読んでいた。当時も面白いなーと思っていたのだが、ふとこの間実家に帰ったときに改めて手にとってみたらどうだろう。子供の頃よりも多少知識が増えたせいかより物語を読み解けるようになり、気付いたら電子書籍で毎日毎日二、三巻ずつ買っては読み進めているのである。今は二十五巻まで読んだところだ。

物語の展開もさることながら、己はこの世界観が好きである。男色家である伯爵はずっと少佐に片思いをしていて、ちょっかいを出しては怒鳴られている。そして作中で「異常性硬派」と揶揄され、男はもちろんグラマラスな女性エージェントにも全くなびかない少佐は伯爵の愛を拒絶し、ホモだなんだと言いたい放題罵倒する。しかし少佐は伯爵の下心が自分に向かうことさえなければそれなりに普通に接し、同じくゲイであるが伯爵一筋のボーナム君、つまり少佐に恋愛的な意味で興味のない存在についてはごく普通に接するのである。

それはKGBのエージェント「仔熊のミーシャ」も同じで、伯爵に対し退廃的だの変態だの言いたい放題言うのだが、それを理由に伯爵の存在を拒絶しない。他のあらゆる悪口の「ハゲ」や「チビ」程度の扱われ方であり、伯爵はゲイであることをオープンにしても自由に生きられる世界に住んでいるのである。この描写のバランスが心地良い。

好きな話は第一部ラストの「皇帝円舞曲」。あの少佐が伯爵に肩を貸すシーンはまさに一級品だった。他、細かいところでは伯爵が感謝の意を示すために「食前食後にコカ・コーラを飲むよ」と言うところや、普段敵対している伯爵と少佐とミーシャが協力し合ってコントを演じる箇所、酒場での殴り合い、揚げ芋などが好きである。

そんなわけで頭の中はエロイカでいっぱいなのだが、同時に今興味津々なのが「鬼」である。そして蝶々が舞う住宅地の先にある図書館こそが己の目指す目的地。予約した資料を受け取って気持ちよく帰路に着き、鬼の本を両手に抱えのどかに遊ぶ蝶を見る。せっかくなら冷戦関連の本も借りておけばよかったことに気付いたのは家が近付いた頃だった。



日記録3杯, 日常

2016年9月30日(金) 緑茶カウント:3杯

改めて考えてみるに、己が「痴人の愛」のヒロインを心から拒絶し、その品性下劣さに呆れ返り、嫌な気分になったのは、彼女を育てた主人公と歳が近いからかもしれない。

それはきっと、接し方さえ間違わなければ彼女はそんな浅はかかつ下劣な人間になぞならなかっただろうと落胆するから。そしてそれを育ててしまった人間に心から嫌気が差すから。うんざりすると同時にがっかりする。呆れ返ると同時にため息が出る。そのうえで、彼女が主人公にこそ発揮するであろう可愛げが、己には全く感じられないのである。

あぁ、嫌だなぁ。嫌だなぁと思いながら読んでいる。ろくなことにならないと思いながら読んでいる。唯一の救いは、彼女の世界と己が隔たれているということ、ただそれだけだ。だから読書は面白い。

あぁ、嫌だなぁ。