日記録0杯, 日常, 漫画

2017年7月13日(木) 緑茶カウント:0杯

四十年ぶりに描かれた「ポーの一族」を傍らに置き、めくるページは角が丸くなった文庫本。四十年前に発表され、何度も読み返したそれをパラパラとめくりながら、時にじっくりと物語に耽り、思い出を反芻して世界に浸る。「わたしのことなぞ忘れたろうね」「覚えているよ 魔法使い」のやりとりは何度見てもこみ上げるものがある。

まさか新作が出ようとは夢にも思わなかった作品の新たなページに、物語。しかし買ったもののページを開かず、つい書棚に手を伸ばしてしまったのは、読みたい気持ちと半々に混ざるものの由縁だろうか。「ポーの一族」を教えてくれた人は新作の発表を知らずにこの世を去った。読むことで生まれる死者との相違が怖いのか、寂しいのか。死者の時間が進まないことを認識させられるのが悲しいのか。それとも、四十年を越えて動き出す物語の行く末が不安なのか。

時が止まった少年達の物語。描く筆致には四十年の歳月が滲み、表紙には流れる時と流れない時が同じように横たわっている。

もう少し経てば開けるだろう。それまではしばらく、このままで。



日記録0杯, 日常

2017年7月8日(土) 緑茶カウント:0杯

部屋の真ん中で仰向けになり、堂々と死ぬゴキブリの遺骸。それはむしろ、知らない誰かがこっそり部屋に入って、ポトリとイタズラを仕掛けたと考えた方がよっぽど自然な光景で、故に翌日も翌々日も、帰宅するなり恐々と、遺骸の所在を確かめた。

ポトリと一つ、ある遺骸。

翌日も翌々日もその次の日も四日目も、同じ場所に同じように、ゴキブリが仰向けになって死んでいる。最早誰かによる作為を信じずにはいられぬ状況がそこにあり、つまりそれは一人暮らしの我が家に、誰かが悪意を持って無断で入り込んでいる気色の悪い事実がそこに、と恐ろしい想像をしながら家路を辿り、今現在は他者の気配は何もなく、ゴキブリの遺骸も以来見かけることもなく、平和な日々を過ごしていて、電灯を点けるたびにほっと一息ついている。

パーソナルスペースは多少広い自覚があるが、部屋に誰か見知らぬ人が入るのは誰だって嫌だろう。特に来客など滅多にない我が家では、年に一度か二年に一度ある、業者の点検すら、本心を言えばご遠慮願いたい。そもそも四人家族で暮らしていて、自分以外の足跡も色濃い実家ではたまの来客も違和感がなかったが、今の家は本当に自分一人しかいないため、他者の存在に大きな違和感と抵抗感を抱くのである。

それはきっと、自分の色合いが強すぎるせいかもしれない。一人暮らしであれば、床に落ちる髪もゴミも全て根源は明確で、部屋にある本やポスター、干された衣服の持ち主も明確で、他者の想像をする余地がない。対して家族で住んでいると、落ちている髪もゴミも誰のものかと断定できず、本もポスターも家族の誰かの趣味としか思われない。自分が若干曖昧になるのである。ところが一人暮らしの場合、トイレが汚れていれば百パーセント掃除を怠った人間を特定できて、あらゆる趣味も全て個人のものと断定される。それこそが抵抗感の根源に違いないと思う。

そしてまた、ゴキブリが出る原因も己のせいだと責められているような気分になり、いやいやだいたいここは古い木造建築の一室だし、と思うも掃除が苦手で収集癖のある自分、自覚するところもないではなく、またまたホウ酸団子の新調を検討するのであった。



日記録0杯, 日常

2017年7月5日(水) 緑茶カウント:0杯

それはむしろ、知らない誰かがこっそり部屋に入って、ポトリとイタズラを仕掛けたと考えた方がよっぽど自然な光景だった。

部屋の真ん中でゴキブリの成虫が仰向けになって死んでいた。

時刻は二十三時頃。あー疲れた疲れた早く夕飯を食べて休むとしよう、とコンビニエンスストアーで買ってきたナポリタンを提げ、暗闇の中手探りで玄関の鍵を開けて中に入り、数歩程度の台所を抜けて居間であり寝室でありリフレッシュスペースであり作業部屋である、いくつもの要素を兼ね備えたハイブリッドな六畳間に足を踏み入れ電灯をつけたら、此はいかなる凶事ぞ。部屋の真ん中でゴキブリの成虫が仰向けになって死んでいて、その姿を見止めた己はナポリタンを揺らしながら大きくたたらを踏んだのだった。

彼か彼女かわからぬそれはピクリとも動かない。天井を見上げるも何もない。何も見当たらないそこで仰向けになって死んでいる。動きもしないゴキブリがこんなに堂々と落ちている様を見るのは初めてで、生きたゴキブリを見たとき以上の衝撃と驚きを己は感じた。外傷はない。恐らく部屋中に仕掛けているホウ酸団子の影響と考えられるが、それにしたってこんなに堂々と死体を晒しているとびっくりしてしまう。君よ、何故そこを死に場所に選んだ。いや、選択肢すら持ち得なかったのか。

ホウ酸団子を食べたゴキブリは脱水症状を起こし、水を求めて外へ出て行くと言う。このゴキブリも咽喉の渇きに耐えかねて水場へと向かう途上で力尽きたのかもしれない。するとそこに無念さを感じずにはいられないが、何もここで死ななくっても良いじゃあないかと思うのも性であり、今日この日に呑み会がなかったこと、酔っ払って帰る自分がいなかったことに感謝して、ゴミに出す予定で置いていた古いタオルで彼を包んで捨てたのであった。酔ってたらどうなっていたかって? そりゃあもちろん、足をしっかり洗うはめになっただろうよ。



日記録3杯, 日常

2017年7月2日(日) 緑茶カウント:3杯

自分にとっての幸福とは何だろうと思うことがある。

久しぶりに「動物のお医者さん」を読み返した。子供の頃、今は亡き母の所有する単行本を読み、大人になって完全版を自らのために所有した。この世界では小さな事件は起こるものの大きな事件はなく、恋愛も無ければ憎悪も無く、淡々と時が過ぎ、人物は歳を重ねていく。子供の頃には大学生や大学院生の生活を知らずに読んだため、なるほどそのようなものか、とただただ描かれたものを受け入れていたが、大学を経て社会に出た今、彼ら彼女らが世間に比してどのように生きてきたか見えるようになった。例えば、二階堂はこんなに主体性がない人物だったのか! など。無論それは漫画の中でも言及されていたが、子供の頃の自分はその意味合いの深さを読めなかったのである。

自分にとっての幸福とは何だろう。自炊をする時間があり、そこそこの品数の料理を食べ、趣味に使える時間がたっぷりあり、きちんと睡眠がとれ、運動ができる。たくさんの気に入りの本を書棚に並べ、ライブに行って爆音の音楽に身を任せ、その感想を書いて興奮を昇華し、次の公演に思いを馳せる。このようにつらつらと何でもない日記を書く時間があり、美味しい緑茶を淹れる余裕がある。これらは部分的に得られているが、部分的に得られていない。しかし限りなく理想に近いところに近付こうとしているのではなかろうか、と思う。

「動物のお医者さん」の世界にはほとんど恋愛が描かれない。せいぜい菱沼さんの小さなエピソードくらいで、ハムテルにも二階堂にも浮いた話がない。その世界は自分にとってとても楽なもので、安心しながらその世界に浸ることができた。そして今、それに近しい世界に生きているように思う。面倒なことを言う人も中にはいるが、何とか遠ざけることができている。

しかしその面倒なことを言う人は血が繋がっており、地理的には遠いが血縁的には近く、また、あと何年この世に滞在するかもわからない。ボケの兆候が見られるとの声も聞く。会いたいと望まれている。だが、会えば己は苦しい思いをする。故に極力会わない選択をしている。

夏と冬。つらい電話を聞くのがしんどい。いつからか自分が苦手に感じていた人に、とても好かれ、会いたいと望まれている現実。そして己が距離を置くために、人の不幸があるとその人らは喜ぶようになった。葬式や法事があるなら来るだろうと、来るに違いないと。きっと悪気はないのだろうが、なかなかしんどい。

自分にとっての幸福とは何だろうと思うことがある。口中に広がるは苦い味。きっと自分は、その答えを知っている。



日記録4杯, 日常,

2017年7月1日(土) 緑茶カウント:4杯

誰かのために買うよりも、自分のために買った数の方が多いだろう。
何故なら東京ばな奈はおいしいからだ。

東京ばな奈はおいしい。とてもおいしい。やわらかくしっとりしたスポンジに包まれた、重みのあるバナナクリーム。ぱくりと一口齧り、もぐもぐと噛むごとに口の中に広がり、溶けていく濃厚な甘さ。常温で食べてもおいしく、冷やして食べると尚おいしい。冷蔵庫に入れてしばらく待つだけで、少しだけ特別なデザートに変わるような思いがする。そしてその素敵なデザートが、今我が家の冷蔵庫に六つある。

土産物の多くは自分で買って食べたり使ったりするものではない。人に贈るものであり、人からもらうものである。よって客人よりいただく場合は、その人の地元もしくは旅先の品が土産となる。新潟、青森、静岡、名古屋、大阪、広島、福岡、鹿児島などなど。そこに東京が入るかと言うと、まず入らない。無論浅草やスカイツリー、しながわ水族館などに行ったお土産をいただくことはあるが、その場合浅草やスカイツリーやしながわ水族館特有のお土産がチョイスされるので、「東京」に行った証である東京ばな奈が土産物としてチョイスされることは無いのである。

つまり。首都圏に住む自分が東京ばな奈を手にする機会はまず無い。

そう、己にとって東京ばな奈は近くて遠い存在だった。よく利用する駅の売店で必ずと言って良いほど見るのに得られる機会がない。そのように思っていた。そのように思っていたがあるときに気付いた。自分で自分のために買えば良いと。

己はずっと「土産物」という言葉の魔力に縛られていたらしい。そうだ! 土産でも何でもなく自分のために買って何の悪いことがあろうか! 確かにこれは土産物として販売されている、しかしこれは、ただの箱に入った菓子だ!!

気付いたのは大学生の頃。万葉集のレポートを書くために夜行バスで奈良に行く日だった。そうして目覚めた己は売店で東京ばな奈を購入し、奈良に向かうバスの中でもぐもぐ食べた。多くは帰り道で買われるであろう土産物の菓子を行き掛けに買って自分で食べる背徳感。おいしかった。

以来、売店で賞味期限が短いからお早めに、と店員に注意を促されながら「大丈夫、賞味期限が切れるまでにすぐに食べ切ってしまいますよ」と頭の中で答えながら自分のためにたまに買っている。家に持って帰るといそいそとお茶を淹れ、バリバリと包装紙を剥ぎ、まず常温で食べて、満足したら冷蔵庫に入れて、ひんやり冷えた東京ばな奈に舌鼓を打ち、あーーおいしいなーーーと幸福を噛み締める。八個で千円の幸福の味。東京ばな奈は、おいしい。