未分類100曲ライブ, 水戸華之介, 非日常




「20×5=100 LIVE」第三公演目に行ってきた。今回の楽器はピアノで、奏者は枕本トクロウさん。水戸さん曰くゲーム仲間であり、何かの後輩にあたる人らしい。澄田さん、ワジーに比べると元気いっぱい! という感じの人で、MCでの話し方もまるで「はい!」と挙手して話すような、勢いのある人だった。

楽器がピアノということで本日はバラード中心。計五日間の公演の中でもちょっと特殊なものになるとのこと。ただ、最初からしっとりと落ち着いてばかりではお客さんが死んでしまうので最初はノリノリなものから始まった。そして中盤からしっとり系が続き、その総まとめとして歌われたのが「ジョンのうた」。もし百曲の中に含まれるなら今日だろうと予測はしており、聴きたいとも思っていたが、やはりつらい。

「ジョンのうた」はアル中の父親から逃げるため、母と子が必要最低限の荷物を持って家を出るところから物語が始まる。子供は犬のジョンを飼っていたが、連れて行くことが出来ず父親のもとに置き去りに。酒びたりの父親は当然犬の世話などせず、子供がたまに目を盗んでジョンの様子を見に行くと犬小屋はひどい有様。うんちまみれになっているのに、子供の姿を見ると尻尾を振って喜ぶジョン、でも連れていくことは出来ない。そしてある日ジョンは父親によって保健所に連れて行かれ、そのことを知った母と子は急いで保健所に駆けつけたが既にジョンは処分された後だった。

迫力を感じるとともに、心臓を直に掴まれてぎゅうっと引っ張られるような歌だ。この迫力を是非その身に感じたいが、しんどい曲なのでなるべく聴きたくないのも本音。歌う水戸さんはもちろん、聴き手にも体力がいる歌だ。

またピアノの演奏が悲しさに拍車をかけるんだよなぁ………。

水戸さんの歌う「どうにもならない」と「やるせない」悲しい感情が、わかりやすく、それでいて共感しやすい形で集約されている歌だと思う。これはちょっとずるい。ひどい。ライブが終わって何時間も経つのに、あのジョンの悲しく吼える声が今も脳に木霊する。引きずられるなぁ。

そして今日ライブの帰り道にふと思ったのだが、既に処分された後と知ったとき、母親の方は内心ほっとしたんじゃないかなぁ。例え生きていたとしても飼うことは出来ない、里親のあてがあるなら放置せずに済んだだろう、と思ったら。

あと、「処分ってなに?」と子供は母に尋ね、「遠くのお山に放してあげたのよ」という答えをもらうが、………「処分」という言葉は理解出来なくても、死んでしまったことはわかったんだろうな、と思うんだ。あぁ、だめだあまり「ジョンのう」たについてばかり考えない方が良い。せっかく楽しかったのに落ち込んでしまうじゃないか。

あちこちで聞こえる啜り泣き。しんみりとした空気の中で、水戸さんがこれからノリノリの曲をやる、と言いつつ、いくらなんでもこの状態じゃ感情がついていかないだろうから、と前置きして正月に温泉に行った話に。普段は空いているその温泉も正月は流石に混んでいて、聞き耳を立てていたわけでは無かったが近くにいた男性二人組みの話が聞こえてきたそうだ。二人はパワースポットなどのスピリチュアルな話をしていたが、会話の流れでカップルだったことが発覚、不意を突かれてびっくりする水戸さん、さらに驚くべきことはその温泉、実はゲイが集まる有名スポットだったそうな。

脱衣所のところに『携帯電話を出していたら盗撮と見なします』といった、他の温泉施設ではまず見たことの無い貼紙があり、「男風呂の脱衣所で盗撮………?」と違和感を抱いていたそうで、真相を知って納得したらしい。そして「でも良いお湯だからまた行くけどね」と朗らかに締めくくり、恋愛繋がりで客いじりの定番曲「ふたりは」に! この曲では水戸さんが歌いながら客席を練り歩いて手を握ったりしてくれるのである。今回自分はちょうど良い席に座っていたので、運良く頬を撫でてもらった。嬉しかったが「ジョンのうた」で泣いた直後だったので若干恥ずかしかった。

他、今回の目玉は「天国ロック」と「ラブソング」だろうか。「天国ロック」はCD発売以来ずっと存在を忘れていた曲で今日は二十数年ぶりの演奏だったらしい。水戸さん曰く、「オチが無いのでライブではやりづらい」らしい。「でくのぼう」だったら「で、で、でくのぼー!」と皆で盛り上がることができるが、「ててててんごく~?」と自己完結してしまうので、中盤で盛り上がったテンションを爆発させることが出来ず、扱いに困るらしい。

「ラブソング」は「でくのぼう」の別歌詞バージョン。何かのおまけでカセットに入れて出したらしい。普段のライブなら、「これをやるならでくのぼうをやってくれよ……」という空気になることが予測されるので出来ないが、今日みたいな「濃い人達」ばかりが集まっているライブなら出来るとのこと。「で、で、でくのぼー!」の合いの手が「ラブ・ラブ・ラブソーング!」に変わり、もちろん他の部分の歌詞もまるっきり「でくのぼう」とは違うもので、すごく新鮮で面白かった。

そうだ。「サカナ」は当時すごく嫌なことがあって、そのネガティブな思いがはっきり表れていると水戸さんが言っていた。水戸さん曰く、珍しいくらい暗い歌、とのことだった。

最後のアンコールは前回前々回と同じく、二十面あるサイコロを振り、本日の曲順から選ぶ方式。サイコロを振る前に水戸さんが「二十番目が出るのが最悪だけど、ジョンのうたが出ても辛いな。今回は地雷が多い」といった内容を喋り、カップに入れてサイコロをかき混ぜ、さぁ、丁か! 半か! という勢いで数字を見ると………十三番。

十三曲目、ジョンのうた。

流石に振り直しというか、ちょっとサイコロに衝撃を与えることになった。水戸さんは自分に課したルールを破ることに抵抗があったようだが、恐らく観客も全員振り直しを望んでいたことだと思う。枕本さんはルールを破ることに対し、「いやいやそれはだめでしょう」とばかりに不服な態度を見せていたが、そしてそれも水戸さんを困らせるための演技だとわかってはいたが、「ジョンのうた」は良い曲だが、一日に二度聴くのはつらい。

振り直しの結果サイコロが選んだのは「電波塔の丘」。本編では寂しさが強調されていたが、アンコールは楽しく終わりたい、ということで水戸さんが枕本さんに楽しい曲調にリクエスト。もし振り直しをしなかったら「ジョンのうた」もちょっと楽しい感じになったのだろうか。いやそれは………無理か。

そういえばどの歌か忘れてしまったのだが、枕本さんがノリノリ系の曲でピアノから立ち上がり、まるで地団太を踏むように、バンバンバンバン激しく床を踏み鳴らしてリズムをとっていたのだが何だかすごく面白かった。ピアノというと落ち着いて着座して弾くイメージが強いのだが、何でもありなんだな。

未分類100曲ライブ, 水戸華之介, 非日常




「20×5=100 LIVE」に行ってきた。水戸さんが一人のギタリストと共にのべ百曲を五つの公演に分けて歌うという催しであり、その初日。デビュー二十五周年を記念したこの興行、水戸さんファンなら行かないわけには行くまい、ということでチケットを獲得。こじんまりとしたライブハウスなのでチケットが取れるか不安だったが何とかなった。番号もなかなか。見晴らしの良い席で水戸さんの歌と澄田さんのギターを堪能することが出来た。

セットリストは水戸さんの公式ブログ地球日記より転載。未聴の曲が一曲だけあったが、「涙なんか海になれ」がそれだった。

1.雨のパレード
2.百花繚乱

MC

3.特急キノコ列車
4.幻想の世界
5.ひとつの火

MC

6.2丁目の奇跡
7. 夜の行進
8.新しいメルヘン

MC

9.涙なんか海になれ
10.トゥルーロマンス

MC

11.しあわせのしずく
12.月に抱かれて
13.火星のショッピングモール

MC

14.Hello!
15.?-a-go-go
16.地図
17.わいわいわい

MC

18.小さな罪と小さな罰

マグマの人よ
私の好きな人

ダブルアンコール

わいわいわい

のべ百曲を一曲ずつ歌うというライブの特性上、今日歌われた歌は次回の公演で歌われることは無い。とすると、普段のライブなら本編のラストで歌われることの多い曲も顔を出すのは一度きり。いったいどの曲がどのタイミングで来るのかが注目どころである。そして「わあ! この曲が聴けて嬉しい!」と思いつつ、「今日やったってことはもう次は聴けないんだな……」と寂しく感じもする。無論この「20×5=100 LIVE」の後にはまた聴ける機会も来るだろうが、ついいつも以上に一期一会を噛み締めてしまう。

また、このライブは「五回の公演で百曲歌う」ことが決まっているため、アンコールも「ある」ものとしてセットリストに組まれている。もともとアンコールはライブのお約束であり、予定調和なものだが、だからと言って本編終了後、ステージから去らず、着席したままアンコールを受け、そのままアンコールを始めるミュージシャンは見たことが無い。そしてMCであっさりと今日やる二十曲の中にアンコールが含まれていること、だからアンコールは最初からやると決まっていることを暴露し、よって無駄を省くために俺はステージを降りず、このままここでアンコールを受ける! と宣言する水戸さんはお見事。やっぱり面白かった。

最初の方のMCで、水戸さんは「面白いと売れない」「面白いことを言うと等身大になりすぎてしまう。面白いことを言わずに色々と想像を膨らましてもらった方がカリスマ性が出る」といったことを冗談めかしながら語り、「だから今日は面白いことを言わない!」と言っていたが、サービス精神に溢れたこの方のこと、案の定その後のMCも非常に楽しいものだった。もっと多くの人に知られて欲しいと思うが、やっぱり面白い水戸さんが好きだな。

そしてアンコール終了後、今度こそステージを去る水戸さんと澄田さん。しかし……まぁそりゃあ起こるわけです。ダブルアンコールの要求が。二十曲と決まってても起こるのです。とはいえ二十曲やってしまった今日、残りの曲は無いわけだし、いったいどうするのだろう………? と思いつつコールをしていたら水戸さんと澄田さんがステージに登場! 歓声を浴びて戻ってきた水戸さんが持っていたのは二十面サイコロだった。

ダブルアンコールが起こることは予測していた、しかし百曲というこだわりがあるので、新しい曲は出来ない、よってこの二十面サイコロを振り、今日やった曲の中から一曲を歌う、と水戸さん。なるほどその手があったか。感心しつつ振られたサイコロの目に注目。結果は………十七番、わいわいわいだ!

まさかの「わいわいわい」。観客参加型の盛り上がり曲をまさか一日に二度やることになろうとは! 水戸さんもびっくりのこの結果、そして繰り返されるお祭り騒ぎ。自分としては楽しく盛り上がって終われたので、しんみりしたバラードが来るよりも嬉しかった。二十面サイコロの働きに感謝。

今回聴けて嬉しかったのは「雨のパレード」「夜の行進」「しあわせのしずく」「月に抱かれて」「地図」「マグマの人よ」「私の好きな人」。特に「私の好きな人」は、水戸さんの曲の中でもダントツに好きなものなのでアンコールで聴けて感無量である。「好きな人と一緒になりたい」というラブソングは数あれど、大切な人がいつも幸せでいられるように、優しい人に巡り合えますようにとひたすら幸せを祈る歌はちょっと珍しいだろう。こんなに優しい「願い」が詰まった歌は他に知らない。

さて、残り八十曲では何が聴けるだろう。「(ナミダ)2」「生きる」を聴けたら良いなぁ。楽しみにしつつ、次回に臨む。

未分類平沢進, 非日常


 
 
「ノモノスとイミューム」最終日。公演終了後、公演祝いの花を自由に抜き取って良いとアナウンスされていたので、記念に有難く頂戴した。これまで我が家に花が飾られたことが無かったので気付かなかったが、花がある景色というのもなかなか良い。玄関にイミュームが配置される家。家を出入りするたびに己のサファオンがイミュームに影響し、イミュームがサファオンに影響して物語が生成されるのだ、と思うと愉快な気持ちになる。

初日と二日目は同じエンディングを迎えたが、三日目の今日は異なるルートを辿り別種のエンディングを観ることが出来た。思わぬ歌謡ショーにオーディエンスは大爆笑。ハンドマイクを握るだけで笑いが取れる男ヒラサワ。つくづく面白い人だ。

興味深かったのがエンディングの後のMC。細部を失念してしまったが、「これからはSP-2のヒラサワから、Amputeeのヒラサワに」という言葉。「Amputeeのヒラサワ」の後に続く言葉が「なった」か「なる」か「なったと思われる」か「なったと思われている」か忘れてしまったのだが、最初会場でこれを聞いたとき意味がわからなかったのだ。SP-2のヒラサワ? Amputeeのヒラサワ? ヒラサワはSP-2でもAmputeeでも無いだろう?

と、思ったが、あれはヒラサワ自身がSP-2やAmputeeという意味では無く、SP-2やAmputeeに「傾倒する」「影響を受ける」「尊敬する」「愛する」「愛される」という意味合いなのだろうと咀嚼した。いわゆる「ふつーの人達」の枠外にいて、両者とも、外見的な美しさも魅力だが、それ以上に困難を乗り越えて、力強く生きる人達。無論、性同一性障害者や切断者の全てがそれに該当するわけではない。彼ら彼女らの中で、そういった精神を持った人にヒラサワが強く惹かれているのだろうと思う。

この「枠の外にいる人」は「ノモノスとイミューム」の中に登場する「幽霊船」も該当する。「幽霊船」は公式サイトの用語解説から引用すると、”有意義な「反射」になり得るサファオンでも「前例が無い」「飛躍的過ぎる」などの理由で社会から暗黙のうちに拒絶されるサファオンがある。そうしたサファオンが採用される可能性に賭けて10年後の世界へと運ぶ船”である。あくまでも「サファオン(感情、思考、記憶の混合物に生じるある種のパターン)」であり、人間では無いが、それを乗せるのが「幽霊船」とは何とももの悲しい。

つい、幽霊船に乗せたサファオンを秘めた人は、彼ら彼女らが受け入れられない時代で生きていかざるを得ないことを考えて、しんみりしてしまうのだ。そしてそういった人々は「ノモノスとイミューム」の外にそれはもういくらでもいるのである。

だが、幽霊船が乗せたサファオンは役立てられ、物語は危機を脱出する。このあたりがヒラサワの描く希望なのかなぁ、と思うのだ。思えばヒラサワ自身も「ふつー」という枠の外で生きてきた人で、それ故に苦労もしてきたそうだが、反面枠の外にいるからこそ多くの人に愛されている。それを本人が知っているから、幽霊船を登場させたのだろう。だってサファオンを補充するならばドナーに要求すれば良いだけなのだ。

類推ばかりの文章だが、枠の外の人であり、枠の外の人を尊敬する人だからこそ、自分はヒラサワの音楽や文章、キャラクターに惹かれるのだ。昨日今日二日間参戦出来て良かったと思う。

未分類平沢進, 非日常



インタラクティブライブ「ノモノスとイミューム」に行ってきた。ヒラサワのライブに参戦するのはこれで二度目だが、一度目はいわゆる普通のライブコンサート、通称「ノンタラ」こと、ノン・インタラクティブライブであるので、インタラに参加するのは初めてである。

インタラとは物語形式のライブコンサートであり、途中途中に分岐が与えられ、観客の選択により物語が変質していくというものだ。さらに、インターネットとも連携をしており、会場にいなくてもネット環境さえあればライブのストーリーに関与することが出来る。参戦したことは無いものの、インタラのDVDは一枚持っており、若干ではあるがその雰囲気は知っていたので、今日の日をとても楽しみにしていた。

が、不安もあった。自分はヒラサワの作る物語を一発で理解出来るのだろうか。それというのも公演前に公開された「ノモノスとイミューム」の特設サイトに、今回の物語の概要や用語などが記されていたのだが、多いのである。造語が。ヒラサワ独特の造語が。本で読むなら前のページに戻ることも出来るが、ライブに巻き戻し機能は無い。置いていかれないか心配だった。特に、唯一所有しているインタラのDVD「白夜野」も、初見では物語を把握しづらかったので。

この心配に関して、結論から言うと杞憂だった。無論、細かいところは理解しきれていないが、物語の大筋には付いて行くことができた。むしろシンプルだったように思う。エンディングもびっくりするような大サービスで腹を抱えて笑った。あんなに格好良く殺虫スプレーを噴射する男を自分は他に知らない。

さて、今回のライブの感想を簡単にまとめてみようか。まず驚いたこと。物販の列が長い。ものすごく長い。物販は開場後に販売が開始されるのだが、まず開場待ちの列がとんでもない。そして並んでいる人々のうちのほとんど、と感じられるくらいの人間がそのまま物販に並ぶのである。すごかった。この施設は階段が入り口から向かって右と左の両端にあるのだが、まず一階から右手側の階段で二階へ上がり、二階の右端から左端へ移動して、左手の階段から三階に上り、三階の左手側から右手側の端まで移動しUターン、さっきのぼった階段を使って二階に降り、また端から端へ移動しUターン、二階から一階に降りてようやく物販に辿り着く、という非常に長い道のりで、物販の列で左手側の階段の人口密度がえらいことになっているのである。こんなに並んでまで欲しいのか、と問うならば欲しいと答える。自分が買ったのはカレンダーとタオルとハットピン。欲しいものを全て買えて満足した。並んだ甲斐があったというものだ。

物販を購入してからは大人しく席で待っていた。場所は一階後方下手側。何をするでもなくゆったり待っていたのだが、開場十分前あたりだろうか。音楽がいかにも、物語が始まる前奏のようなものに変化して、まだ人が席に立ったり座ったりする中、このまま開演の合図も無く唐突に始まってしまっても面白いなと思った。実際はきちんとブザーが無り、照明が落とされたので非常にわかりやすかったが。

特筆すべき点は今回のゲスト、折茂さんだろう。とはいえ自分は折茂さんのことをほとんど知らない。彼女の曲もヒラサワのソロCDボックス「ハルディン・ドーム」に収録されている一曲「ガーベラ」しか聴いたことが無い。ただ、ヒラサワのツイートや、特設サイトにある物語の記述などから、「ノモノスとイミューム」は彼女無しでは発想されなかっただろうとは感じていた。この物語におけるもう一人の主役と言っても過言ではないだろう。

折茂さんの姿は初めて見たが、年齢がよくわからない人だと思った。声からは甘い雰囲気の女性をイメージしていたが、どちらかというと格好良いと言う言葉の方がふさわしい。そして赤いスカートから見え隠れするスラリとした黒い義足が美しいのだ。この義足から着想された物語について思ったことを書きたいが、材料が少ないのでそれについては明日の公演を観てからにしよう。

ところですごく驚いたこと。まさか今回の物語に、あの白虎野に登場した強烈な印象を見る人に与えるキャラクター「Σ-12」が再登場するとは思わなかった。しかもほとんど出ずっぱりの大活躍。あのビジュアルをDVDで初めて見たときの衝撃は忘れられない。白虎野で分岐マニアとして主人公であるヒラサワを導いたΣー12は、外見は人ではないものに変えられていたが、人間的な感情を持っていた。それが「ノモノスとイミューム」ではサファオン(思考、感情、記憶の混合物に生じるある種のパターンを指す物語中の造語)を持たない存在になってしまっていたのが、何だか寂しい。

映像について思ったこと。比較対象が「白虎野」しか無いが、コミカルと言うか、ギャグ要素が多かったように思う。エンディングも綺麗にオチがついてあの大サービス。異空間に幽閉されたヒラサワが正しい分岐を辿ることにより、元の世界に戻ることが出来たが、注文していた果物の入った箱を開けると中身がすっかり腐ってしまっていて、ハエが大量発生。スクリーン上を飛び回るハエの群れを両手に構えた殺虫スプレーを武器にスタイリッシュにポーズを取りつつ戦いながらステージ所上を練り歩きつつ歌うヒラサワ。それはダンスのようにも見え、どうしたらこんなことを思いつき、かつ実行しようと思うのだろうかと考えつつゲラゲラ笑った。

笑うといえば「Amputeeガーベラ」で、歌い出しを間違えて固まるヒラサワを見られてすごく得をした気分になった。しかもこの後、折茂さん演ずる「サンミア」が、「台無しだわ!」と言ってのけるのである。この「台無し」はあくまでも物語上の台詞なのだが、まるでヒラサワのミスを言っているようで笑ってしまった。グッドタイミングと言うか何と言うか。

だが、歌い出しを間違えたからこそヒラサワの声のすごさがわかるわけで。固まった途端に当然のことながらヒラサワの歌が聞こえなくなり、あんな声が人間から出ているのだなぁ、と改めて思わされたのだった。

そういえば三曲目、四曲目あたりでは咽喉を振り絞って無理矢理歌っているように見え、だいぶ辛そうで心配したのだが、五曲目六曲目と進むにつれ悠々と声が出るようになっていた。そういうところを見るとあぁ、ちゃんと人間なんだなぁ、と思う。ただアンコールの「Aria」は歌いづらそうだったな。

初日は行けなかったが、MCによると初日と二日で同じエンディングを迎えてしまったそうなので、明日は別のルートに行けるよう試行錯誤しようと思う。殺虫スプレーもまた見たいが、それではDVDになるときボーナストラックが減ってしまって寂しい。まぁ成功ルートを選べているので三日連続バッドエンドでDVD化されず、などという真の意味でのバッドエンドを迎えずに済むのは確定しているのでちょっと気楽だ。明日も楽しむぞ。

未分類ケラリーノ・サンドロヴィッチ, 非日常




興味を抱きつつも他の色々なことに気をとられているうちに気付けばチケット完売、しかしもしやと問い合わせてみれば席数に限りはあるものの当日券の販売はあるとのこと。だが、今月は大分散財してしまったし、と悩んだが、せっかくのクリスマスイブということで腹を括ることにし、いつもより早く起きて家を出て、見事当日券を手に入れた。ケラリーノ・サンドロヴィッチ脚本・演出の芝居「祈りと怪物」。休憩時間込みで四時間越えの大作だ。

自分は芝居と縁が薄く、今まで観たことがあるものと言えば学校の演劇教室と、演劇部の友人が手がけた芝居、それと筋肉少女帯が関わっているエンゲキロックこと「アウェーインザライフ」くらい。芝居の良し悪しもわからない人間であるが、四時間があっという間。退屈する暇もなく終わってしまった。途中十分の休憩時間が二回設けられていたのだが、休憩時間を迎えるたびに終わりが近付いていることを感じ時間の経過が惜しまれた。

この物語の着地点はどこなのだろう、と考えながら観劇をしていた。物語の舞台は「ウィルヴィル」という架空の町。町はドン・ガラスという横暴な独裁者とその三人の娘が幅を利かせており、些細なことで住人は殺され、被差別階級の人間達はより一層の差別に喘ぎ苦しんでいる。教会の司祭は呑んだくれで、荒廃した教会のミサに訪れる者は無く、司祭の弟子すら神を信じず夜な夜な幼馴染とともに盗みを働いている。ドン・ガラスに対抗するための地下組織が秘密裏にことを進める中、それぞれの思惑を持ったよそ者達が町を訪れ、ドン・ガラスの三人の娘達に直接的・間接的に影響を与えていく。

物語が進むごとに町は破滅へと向かっていく。それはまるで向かうべくして向かっているかのようで、自然と言えば自然だ。横暴な独裁者が住人の反感を買うのは当然であり、独裁者を破滅させようとするグループが生まれるのも自然の理。ただ、面白いのが、町を破滅へ導く一番のきっかけを作ったのが独裁者を倒すべく活動していた「地下組織」の面々では無いということだ。

町を破滅へ導く大きなきっかけを作ったのは自称錬金術師の手品師と、そのお供の白痴の青年である。自称錬金術師は教会の司祭と手を組んで、「インチキ」で町の住人に神の奇跡を見せ、神と教会への信仰を取り戻し、願いが叶う奇跡の粉を売りつける。それはただのライ麦粉のはずだったが、白痴の青年に「不思議な力」が備わっていたため、インチキだったはずなのに、小さな奇跡が至るところで本当に起きた。だが、白痴の青年の体調が急変したことで奇跡の力は悪魔の力に変わり、粉は人々を異形に変えて命を奪い、また、人々の気を狂わせた。

そしてもう一つ、淡々と破滅を生み出して行ったのも「よそ者」である。被差別階級の母親のもとに生まれ、自身も被差別階級の者として背中に焼印を押され、赤子のときに母親とともに海に捨てられた。赤ん坊は母親の死体を喰らって生き延びて、自分と母親を殺そうとした父親を殺す呪いを完成させるため旅を続けている。呪いには人の生首や目玉、内臓などの様々な供物が必要とされ、青年は自身の望みを達成させるため、上手い具合にドン・ガラスの家に居候として入り込み、三姉妹の次女を惚れさせ、善人の顔をしながら殺人を続けていく。そして最後に、青年とその母親を殺そうとした男がドン・ガラスであることがわかり、隠されていた因縁が明るみに出るのだ。

奇跡の粉が悪魔の粉に変わり人々に異変を与えるのと同じ頃、地下組織はリーダーがドン・ガラスの手によって拷問を受けたことでただの暴徒の集団と化し、町は力を無くして行く。だが、ドン・ガラスと三姉妹は町に活気があったときと同じように、自分達に都合の悪い者を容赦なく殺して行く。町には死人が溢れ、町として機能しなくなり、崩壊への道を転がり落ちて行く。

新しい異変の波が起きたにも関わらず、異変の大きさの危機性を重要視せず、今までどおりの横暴な振る舞いを続けた結果、ドン・ガラス一家は波に飲まれて破滅した。これでおしまい、めでたしめでたし………というわけでも無い。そういう、悪い奴はいなくなりました良かったね、という話では無いのである。ドン・ガラス一家は横暴でいけ好かない独裁者だが、この一家は一家なりの倫理観を持っており、また、他の登場人物も善と悪では区分けできない、いや、区分けしにくいそれぞれの内情や事情を持っていて、それがぐちゃぐちゃに絡み合って交差して、殺し合いの末結果としてほとんどが死んでしまった、というものなのである。正直後味は、悪い。

ただ「御伽噺」風になっているためか、後味の悪さはいくらか緩和されている。人間関係のぐちゃぐちゃ加減はリアルなのだが、人を食べるオオイソギンチャクや、人間の苦痛を電力に変える機械に、奇跡の力という魔法の存在、笑いながらピストルをぶっ放して遊び踊る三姉妹の異常性の高さが、舞台と観客の間の地続きを破壊し、線引きを作ってくれていて、物語の一員ではなく第三者の視点で見ることが出来るのである。おかげで観終わった直後はどんよりした気分にはならず、笑顔で拍手喝采を送ることが出来た。

また、パスカルズの音楽と、舞台装置も非常に良かった。ある場面で舞台が真っ暗になり、舞台セットの輪郭がかすかにぶれながら赤や緑に光る場面があったのだが、それがまるで手書きのアニメーションのようで、ぐっとフィクションっぽさが増したのである。音楽もおもちゃの笛のような音や太鼓の愉快な音が、どこかチープで、安心感を与えてくれるのである。時間と予算があればもう一度観に行きたいものだなぁ。