日記録3杯, 日常

2020年2月17日(月) 緑茶カウント:3杯

すごく嬉しいことがあったんだ。歯牙にもかけられていないというかそもそも視界にすら入っていないと思っていた、己がとても尊敬している方から嬉しい言葉をいただいたんだ。それはもう、予想外に。
で、気付かされたんだ。自分はいつまでも自分に自信がなくて、故に自分の影響範囲などほぼ無いと信じ込んでいることがとても危ういということに。

己はそれなりに頑張っていて、頑張って生きているものの、未だに「UNDERGROUND SEARCHLIE」の歌詞の後半で描かれる鬱屈とした気持ちを脱しきれなくて、ずっとそんな気持ちを抱いている。そしてそれが良くない方向に出ると、自分のできることを「誰でもできる」と過小評価した挙句、それができない人を理解できなかったり、自分の言葉なんか滅多に届かないと信じ切った挙句強い言葉を使ってしまい、言わなくて良かったじゃんと思ったり、手前ぇがどれだけ偉いんだよと後悔したりして、ダメだなぁと思ったりしつつ、ちゃんと自分のできることに自信を持って、自分の持つ言葉にもそれなりの威力があることを意識していかなきゃならんよなぁと思うのだ。

この間のこの日記もさ。内容的には正しいんだ。正しいに違いないんだ。ただ、それを言うのは自分なのだろうかとも改めて思うのさ。そりゃあ無断転載には気を配るし、しないよう注意しているし、無断転載系botをリツイートしないよう意識もしている。運良く都合が悪くなってチケットを手放さなければならない事態に陥ったこともなく、誰かに譲ってもらう必要が生じたこともない。まぁ、落選したことはそれなりにはあるが、自分で申込みするチケットに全ての運を賭けているため現状を受け入れて終わりである。ということでそれなりに気を使ってはいるのだが、ただ、それを最低ラインと信じ込んでしまっているのが良くない。

これは本当にどうにかしないとならんのだけど、こいつはインターネットの外の話なのだが、自分の影響範囲がほぼないと思って作ったものに「感動した」「泣いた」みたいなでっかい反響をいただいて滅茶苦茶びっくりすることもあれば、逆に傷つけることもある。つまり常に己は自分を最低ラインだと思っていて、最低である自分ができることをできない人を理解できなかったり、最低ラインを超える事象に対し攻撃的になったりするきらいがあるのだ。

しかしそれはそれで驕りなのだ。自分自身を最低ラインと信じることも。

そうだ。いつまでも弱者気分でいたら、場合によっては斧を持ちながらまるで丸腰のような口ぶりで攻撃する人になってしまう。というか最早なりかけている。

せっかくすごく嬉しいことがあったんだ。尊敬している方から嬉しい言葉をいただいたんだ。だからそれを糧にしてきちんと自信を持ち、自分の言葉の威力を自覚しよう。ということを思い知らされて、反省した。どうにかこうにか、バランス良く生きられるようになりたい。



日記録3杯, 日常

2020年2月3日(月) 緑茶カウント:3杯

年齢を重ねるごとに時代が変わり世の中の価値観が移り行く中で、自分自身の価値観をアップデートしないとどうなるか、ということを考えたとき、「若者に距離を置かれる」というのも一つの側面ではなかろうか。そしてその若者は路上で行きかう接点も無ければ関係も無い言ってみればどうでも良い人間だけでなく、子供や孫といったその人にとってどうでも良くない、愛すべき存在も含まれるのだ。

無論全部が全部そうと言い切るつもりはない。しかしその側面はあるだろう。だからなるべく、価値観はアップデートしていった方が良いのである。愛すべき子供や孫から距離を置かれたくなければ。

そして自分がまさにそのアップデートできなかった人物の孫であり、会いたい会いたいと電話や手紙で訴えられながらじっと距離を置いている。何故なら、会うと疲弊するからだ。そして会えば会うほど苦い感情が増え、今はまだ嫌いとまではいかないまでも、そこに辿りついてしまいそうだからだ。

同情もなくはない。スーパーマーケットも老人ホームも潰れた山奥の過疎地に住む祖父母は得られる情報が限られている。ただ、全くチャンスがないわけではなかった。祖父母の古い固定観念による決めつけや要望に対し、己は苦言を呈してきたし、正面から拒否してきた。しかし祖父母が見ているのはいつまで経っても実像ではなく虚像の孫であり、実像が虚像に近づくことを望んでいた。また祖父は悪意なく失礼な発言を周囲にすることが多々あり、祖父母の子供である叔母達は「年だからしょうがない」と時には怒りつつも許してきた。そこには血のつながりゆえの寛容があり、祖父母も叔母達もその寛容を他者にも期待してきた。しかし子世代はともかく孫世代ではその寛容は薄く薄くなっていて、不快の方がよっぽど勝ってしまったのである。結果、我々孫は諦めて距離を置いている。

きっと祖父母は気付きもしなかったのだろう。当たり前に存在した「血のつながりを大切にすべき」という価値観だけでなく、今の世には「例え家族や親戚であっても気が合わないなら距離を置くべき」という価値観が存在していることに。

そうして自分はと言うと、祖父母と距離をとりながら何とも言えない気持ちを抱いている。この日記を書いたのは別に自分を正当化したいわけではなかった。反面教師にしようと教訓めいたことを言いたかったわけでもない。ただやるせなさを抱きつつ、こういう面ってあるよなぁ、とただただ寂しく思っているのである。



日記録3杯, 日常,

2018年11月10日(土) 緑茶カウント:3杯

ラ・フランスを口にしたことはあるかい? あれは甘く、濃く、ねっとりしていて、そのうえでざらりとした質感を舌の上に残す芳醇なる果物だ。

で、だ。外れたラ・フランスを口にしたことはあるかい? あれは無味で、うっすら甘さの香りがし、ジャリジャリと砂利を噛むような味がして、何一つ美味しくなく、見た目が美しいだけに味のギャップが凄まじくて、ただただ悲しい。

君は食べられているか。適切なタイミングの、きちんと熟したラ・フランスを。

これをさぁ。見分けるのがさぁ、難しくってさぁ。
舌の上に広がるのは砂利の味。何一つ美味しくなく、ただひたすら砂を噛む味。
不味い。

故に思う。完熟したラ・フランスの美味しさを知っているだけに思う。熟しきったラ・フランスを丁寧に美しく切り、小さな白い皿に盛り合わせ、そっと目の前に差し出してくれるサービスがあるならどんなに素晴らしいだろう。利用したいだろう、と。

それほど己はあの涼やかで美しい味を求めているのに、未だ悲しく辿り着かない。
美味しいラ・フランス。食べたい。



日記録3杯, 日常

2017年7月2日(日) 緑茶カウント:3杯

自分にとっての幸福とは何だろうと思うことがある。

久しぶりに「動物のお医者さん」を読み返した。子供の頃、今は亡き母の所有する単行本を読み、大人になって完全版を自らのために所有した。この世界では小さな事件は起こるものの大きな事件はなく、恋愛も無ければ憎悪も無く、淡々と時が過ぎ、人物は歳を重ねていく。子供の頃には大学生や大学院生の生活を知らずに読んだため、なるほどそのようなものか、とただただ描かれたものを受け入れていたが、大学を経て社会に出た今、彼ら彼女らが世間に比してどのように生きてきたか見えるようになった。例えば、二階堂はこんなに主体性がない人物だったのか! など。無論それは漫画の中でも言及されていたが、子供の頃の自分はその意味合いの深さを読めなかったのである。

自分にとっての幸福とは何だろう。自炊をする時間があり、そこそこの品数の料理を食べ、趣味に使える時間がたっぷりあり、きちんと睡眠がとれ、運動ができる。たくさんの気に入りの本を書棚に並べ、ライブに行って爆音の音楽に身を任せ、その感想を書いて興奮を昇華し、次の公演に思いを馳せる。このようにつらつらと何でもない日記を書く時間があり、美味しい緑茶を淹れる余裕がある。これらは部分的に得られているが、部分的に得られていない。しかし限りなく理想に近いところに近付こうとしているのではなかろうか、と思う。

「動物のお医者さん」の世界にはほとんど恋愛が描かれない。せいぜい菱沼さんの小さなエピソードくらいで、ハムテルにも二階堂にも浮いた話がない。その世界は自分にとってとても楽なもので、安心しながらその世界に浸ることができた。そして今、それに近しい世界に生きているように思う。面倒なことを言う人も中にはいるが、何とか遠ざけることができている。

しかしその面倒なことを言う人は血が繋がっており、地理的には遠いが血縁的には近く、また、あと何年この世に滞在するかもわからない。ボケの兆候が見られるとの声も聞く。会いたいと望まれている。だが、会えば己は苦しい思いをする。故に極力会わない選択をしている。

夏と冬。つらい電話を聞くのがしんどい。いつからか自分が苦手に感じていた人に、とても好かれ、会いたいと望まれている現実。そして己が距離を置くために、人の不幸があるとその人らは喜ぶようになった。葬式や法事があるなら来るだろうと、来るに違いないと。きっと悪気はないのだろうが、なかなかしんどい。

自分にとっての幸福とは何だろうと思うことがある。口中に広がるは苦い味。きっと自分は、その答えを知っている。



日記録3杯, 日常

2017年5月21日(日) 緑茶カウント:3杯

羽をコンパクトに畳んでいる。体長は三センチほどで、スリムな体型。羽の色は茶色で、今は天井近くに佇んでいる。もしかしたら、息を殺しているのかもしれない。

大分遅くなったがこたつ布団を取り払い、カバーを洗濯して中身の布団ともども日に干した。カンカン照りの夏のような日差しが降り注ぐ昼。己よりも年上の木造建築は熱を溜め込みやすいらしく、部屋の室温は三十二度。外の方がよほど涼しいのは窓を開けた瞬間に痛感した。では、書を持って外に出よう。鞄にkindleと財布とIC乗車券と携帯電話、そしてハンカチを詰め込み、ポケットにウォークマンを入れて家を出た。あぁ、やはり涼しい。

空調のきいた電車にガタゴトと揺られ、目指すは元町・中華街。欲しいシャツを売る店がここにあると言うので若干の遠出。座席に腰かけてポチリとkindleの電源をつけ、変わる風景を感じながら本を読む。最近は専ら太宰治ばかり読んでいて、このときは「お伽草紙」のページをめくっていた。

そして辿り着いた駅の先はお洒落な町並みで、あぁ、これは時間のあるときにゆっくり散策すべきところだった、と後悔したのは夕方に近い時間帯だったから。まだまだ明るく日中とはいえ日が落ちるのは早いもの。脇道を彩る敷石の鮮やかさに心を奪われつつも、地図を片手にさくさくと目当ての店へと進んだ。

店はあった。しかし欲しかった品は売り切れていた。あぁ、無念。しかし店員曰く、現在百貨店に出店しているので、そちらに在庫があるかもしれないとのこと。場所は東京・府中の街。電車でおよそ一時間先にある。

まぁ、どうせ他に用事もない。本も読みたいし足を延ばすか、とまたもや電車に揺られガタゴトガタゴト。「お伽草紙」を読み終わり、同じく太宰の著作「彼は昔の彼ならず」に移行し、百貨店に辿り着いたのは閉店二十分前。焦りつつも落ちついてエスカレーターのベルトを掴み、ようやく念願叶ったのであった。

そうして一時間かけて最寄り駅に着いた頃には日がすっかり落ちて真っ暗、玄関を開け窓を開き、冷めたこたつ布団を取り込めば一緒に入りたる来訪者。茶色の布団カバーの上で羽を休めていた小さな蛾がパタパタと、部屋の中を飛び回ったのだ。

それから彼か彼女かわからぬが、その蛾は天井近くに身を落ち着けて、休んでいるのか息を殺しているのか。ただただじっと固くなっている。自分は時々来訪者を見上げながら、視力の弱い目では彼の種類を特定出来ず、誰だろうなぁと思いながら、昆虫図鑑をめくっている。