日記録2杯, 日常, 漫画

2018年3月20日(火) 緑茶カウント:2杯

アルバムを買いライブに通い、十年以上も熱狂的に愛し続けているにも関わらず、一曲だけ聴けない曲がある。それは筋肉少女帯の「ララミー」で、理由は少女が理不尽に可哀想な目に遭うからだ。己は、何と言うか、どうにもそういった物語が苦手で、あまり楽しむことができない。

しかし不思議なことに、可哀想どころではなくとんでもない目に遭うながらも、淡々と読むことができる作品に出会った。それを読もうと思ったきっかけは、この方ならきっと何か面白いものを見せてくれるんじゃないかと期待したためである。

そしてその期待は確かに、裏切られることなく実ったのであった。かくして自分は、共感できるできないは面白さには何も関係しないことをしみじみと実感するに至った。何故なら己はその作品の登場人物の、加害者にも被害者にも共感できないながらも、こんな世界もあるのだなと楽しく読むことができたからだ。

それは新鮮な体験であり、興味深い体験でもあった。

作品のタイトルは「殺彼」で、大介さんと旭さんのコンビにより描かれている。ざっと説明すると様々な殺人鬼が登場する漫画で、ドメスティック・バイオレンスを趣味とする男に、サディスト、食人鬼、あとは……ネクロフィリアかな? なるべくならお近付きになりたくなく、可能であれば会話もしたくない方々が主要登場人物として出演する。主人公格はドメスティック・バイオレンスを趣味とする男だ。

この作品はそんな猟奇的な殺人鬼達が紹介されつつ、被害者視点で殺されるロールプレイングを楽しめるという一風変わった作品である。故に「殺人鬼を彼氏として体感できる」、という意味合いで「殺彼」。このあたりの需要の有無を己は知り得ない。故に、知らないながら面白いと思ったところを語ろうと思う。ただその前に、この作品を読もうと思ったきっかけについても触れておきたい。

「殺彼」を読もうと思ったのは、きっと何か面白い出会いがあるに違いないと思ったからだ。というのも、己はこの作品の作者である旭さんのツイートをきっかけに、やおいに対する認識に変化が生じた経験があるからである。以来、ずっと楽に生きることができるようになった。それは己の人生にとって有意義な体験であった。

そうして……恐々読んでみた「殺彼」は、何一つ共感できないながらも、興味深く読み進めることができる作品であった。

一番大きいのは被害者側の心情があっさり描かれる点にあると思う。この作品は読者が「殺人鬼に無惨に殺される疑似体験」を楽しめる作りになっているため、殺される被害者の心理は深く掘り下げられない。描かれる指先や靴、SNSの発言によってどんなタイプの女性かは類推できるものの、基本的に彼女らの内面は描かれない。そこは読者の想像と妄想に任されるべき部分であり、自由にイメージされることが重要視されるゆえ、台詞も悲鳴も描かれないのだ。

しかし考え方を変えてみると、故にあっさり読めるのである。辛くしんどく悲しい内面が描かれないおかげで、そこになりきりたいわけではない人物はさらっと読み進めることができるのだ。これは「ララミー」の物語さえしんどく悲しく感じる者にとって、ありがたい救いであった。

そして、それはとても優しい物語とも考えられる。だってさ、被害者はあくまでも「読者である自分自身」なのだ。他に悲しい目に遭う人はいないのだ。だったらそれは、ある意味でとても健全なことではなかろうか。殺人鬼に殺されることを望む人が感情移入して読み、殺されることを望まない人はあくまでも蚊帳の外にいるのである。考え方によっては誰も傷つかない物語だ。

そのうえで、だ。殺人鬼達の猟奇的な描写と言ったらどうだろう。えーと、あの、あなた、南京虫ってご存知? この虫はね、メスにも生殖器があるにも関わらず、オスはメスの生殖器でも何でもないところに生殖器をぶっ刺して場合によっては死に至らしめるという、自然界の中でもクレイジーな昆虫なんですけど、それを人間が行うとこうなるんだなぁ……というのが見られまして、世界は広いんだなぁ……と思わされます。マジで。何一つ理解できない。本当に。何なんだよ松本記知という男は。キュートなうさぎちゃんマークを飛び散らせている場合じゃなかろう。やめなさい、そういったことは。

そうしてそこから思い出すのは高校生か浪人生のとき、和月伸宏の「エンバーミング」を読んで悪役の所業にショックを受けたこと。女性の人体を切り取って家具にして愛でる描写があり、何て気が狂ってるのかと慄いたが、後に「魔人探偵脳噛ネウロ」を読み返したとき、しみじみと「ネウロのあれは……少年漫画向けに手加減してくれていたのだなぁ」と感謝し、「エンバーミング」のそれがその作者の思いついた特別な描写でないことを知って遠い目をしたのだった。世の中いろいろな趣向があるね。ははは。

ということで、殺人鬼である故に言うまでもないことだが、この作品の主要登場人物は見事にろくでもない人間ばかりである。見事に。結構最低なドメスティック・バイオレンス男がまともに見えるほど、倫理観を突破したキャラクターが登場してむしろ清清しい。人間を鹿か猪の如く狩って食べる人なんざ、冷静に理屈を並べつつも全く会話が通じないんだぜ。出会った時点で終わりである。サディスティック野郎に至っては会話の余地も……、いや、誰であっても会話のしようがない。それは彼らが独自の世界観を持っているからである。

根っこから狂っているのではなく、日常生活を営み、大切な日常やパートナー、常連客を持ちつつも、さらっと道の外に踏み出す描写。ただの狂人ではなく、あくまでも我々の生活の中に潜んでいると思わされるが故に……怖い。

それを美しいと思うか、恐ろしいと思うか、気持ち悪いと思うか、奇妙と思うか、興味深いと思うか。それは全て読者に委ねられている。故に自由度が高く、面白い。自分は恐ろしくも興味深いと思いつつ、作中人物には絶対に関わりたくないと感じるし、殺される疑似体験もしたくない。それは描かれる彼らが非常に生々しくてリアルだからで、生きているように感じるからだ。

どうか、彼らが空想の世界だけに生きる人物でありますように。そしてそれをよその世界から眺められますように、と願って。そう思わずにはいられない作品であった。

「殺彼」。無惨に殺されたい方も、殺されたくない方も、是非。


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殺彼-サツカレ-



日記録2杯, 日常

2018年3月14日(水) 緑茶カウント:2杯

その人はとても見事な技術を持っていて、目の当たりにするたびに己は感心する。それはさながら上方からテトリスが組まれるのを眺めるようで、見ていて楽しく面白いのだが、直後の仕事を思うと己は「ここに並んでしまったか……」と別の列を選ばなかったことを後悔するのであった。

その方はスーパーマーケットの店員であり、己が立っているのはレジである。その方の仕事は非常に見事で、バーコードを読み取り籠から籠へと商品を移すその手つきには一つも無駄がなく、籠の中にもデッドスペースを作らない。テキパキとテトリスを組み上げるように縦横に商品を並べ、噛み合わせ、一分の隙もなくぎっちり商品を詰め込むのである。

それは惚れ惚れする仕事だ。素晴らしい技術だ。いつまでだって見ていたい。
しかし己はこの後、この複雑に組まれたパズルを解いて商品をレジ袋に詰め直さなければならないのである。

これがまー、なかなか、うん。面倒なんだ。

ぎっちりと組まれた籠を眺めて思うことは、他の客も同じようなことを思っているのだろうか、ということ。
見事な技術に感嘆しつつ、いったいどこから手を出せばいいのやら……と途方に暮れるのであった。



日記録2杯, 日常

2018年3月9日(金) 緑茶カウント:2杯

これまで特に触れたことがなかったがひそかに楽しんでいる趣味がある。それは「名字集め」というもので、散歩をしながら家々の表札に書かれた名字をメモに書き留めていく遊びだ。珍しい名字に出会えば感動するし、一つの名字が集中している地域を歩けば興味が湧いて想像が広がる。新興住宅地を歩けば沖縄や北海道に多い名字も見る機会があって面白いし、やけに川の字が多い地域には何かしらの歴史がありそうでわくわくする。

そんなわけで手元には数々の名字のメモがあり、公開してみたいなぁとも思うのだが、ものがものだけに人様のプライバシーに関わるし、己の行動範囲がモロバレで下手をすれば最寄り駅までバレッバレになってしまうため一人でひっそりと楽しんでいる。ではどうして今になってこの趣味に触れたかと言えば、本日放送されたラジオ番組「オーケンのオールナイトニッポンプレミアム」のメールテーマが「オーケンにおすすめの趣味」で、この「名字集め」を投稿してみたところ採用され、興味を持ってもらえたのが嬉しかったからだ。それでちょっと喋りたくなってしまったのさ。

ちなみにこの趣味を遊ぶとき、いちいちメモをとるために立ち止まると明らかに怪しく地域の方々に恐怖を抱かせる恐れがあるので、「山田、吉田、川本、木村、渡辺、安田……」と記憶しながら歩き、曲がり角や横断歩道の手前などでまとめて書き留めるのが吉である。記憶しているとたまに名字が頭の中で歌のようになるのも楽しい。



日記録2杯, 日常

2018年1月25日(木) 緑茶カウント:2杯

靴が崩壊しかけている。故に己は新しい靴を買わねばならない。しかし靴を買えずに困っている。何故か、欲しいデザインが無いからだ。

気に入って履いていたスニーカーが古くなり、ポジティブに表現するならば非常に風通しが良くなった。それはもう空気の入れ替えし放題で、靴の中に湿気がこもる心配なんぞ無く、故に水虫に罹患するリスクも低減されるし、砂利道を歩けば小石がピョコピョコ靴の中に遊びに来て何てキュートなのかしら。こんな感覚、普通の靴じゃあなかなか味わえるものではない。

故に己は普通の靴を求め、流石に崩壊しかけた靴を履いて靴屋に行くのは恥ずかしいのでまだ息のあるその他の靴を履いて靴屋を見て回ったのだが、無い。良い感じのスニーカーが無い。いやスニーカーでなくても良い、ブーツはいかがか? と思ったがブーツも好みのものがない。歩き回ってみても無い。

そうして途方に暮れる夜。選択肢は三つあった。一つは無難な靴をとりあえず買う。もう一つは今所有しているブーツと全く同じものをもう一足買う。最後の一つは風通しの良さを楽しみエンジョイする。さぁ、いかがか。

己が選んだのはこの中の一つだ。どうぞ好きに想像なさってください。



日記録2杯, アルバム感想, 日常, 筋肉少女帯

2017年12月3日(日) 緑茶カウント:2杯

発売日から毎日毎日、憑かれたように聴き続けたのは筋肉少女帯の新譜「Future!」。「新人」も「シーズン2」も「蔦からまるQの惑星」も、「THE SHOW MUST GO ON」も「おまけのいちにち(闘いの日々)」も、それぞれ特別なアルバムであったが、中でもこの「Future!」は抜きん出た存在である。

その由縁は「告白」の存在が大きい。

実を言うとまず一回目に「Future!」を聴いたとき、「オーケントレイン」「ディオネア・フューチャー」の二曲がピンと来ず、「人から箱男」を聴きながら己は不安を抱いていた。ずっと好きだった筋肉少女帯。ずっとぐっと来ていた筋肉少女帯に、ついに「何か違う」としっくり来ない感覚を抱く日が来たのかと。それは怖くもあり寂しくもあり、悲しい予感であった。

若干ではあるが、発売前から「Future!」という明るく前向きなタイトルに違和感を抱いてた。自分はまだここにいるのに先を越されてしまったような不安感があった。「ゾロ目」で何度も何度も過去をやり直そうと、巻き戻そうとしていた死ぬ物狂いの執着を見せ付けられ、その力強さに励まされていたのに、それを提示していた人が過去を振りきり未来へ向かってしまう後姿を眺める寂しさ。一本指立てて目指す先にまでまだ頭を切り替えられない悲しさ。その先を明るく見つめることが今の自分にはまだできない、と感じさせられる苦しさ。故に、パッカリと口を開けて獲物を待ち構えるハエトリソウ・ディオネアの色鮮やかなジャケットデザインから、その指し示される「Future!」に、どこか不穏なものがあって欲しい、と願う気持ちがあった。

その寂しさの、悲しさの、苦しさによる霧がパッと晴れたのが「告白」だった。

筋少初のテクノサウンド、という今までの筋少には無い異色の一曲は、「世間」や「普通」がわからない人間を歌った曲だ。これを聴き、歌詞を読んだ瞬間の衝撃は忘れられない。誰もいない部屋で、「ありがとうオーケン」という一言が零れ落ちた。

自分は決して誰も愛していないわけではないし、その場をしのぐために感謝の言葉を紡ぐこともない。しかし、「告白」に描かれる人物そのままではないが、いくらでも身に覚えがある。空気を読んで調子を合わせて迎合しきった結果、上手に化けた結果仲間意識を持たれてしまい苦しみに苛まれる経験なんぞ何回あったかしれやしない。大切に思う人はいる。大事に思う人もいる。友人もいる。ただしいつまで経っても性愛がピンと来ず、必要性も感じない。男性も女性もそれぞれ違って、それぞれ異性であるように思う。だが、自分の世界に同性はいない。故に距離感を間違えて傷つけてしまったこともある。何でこうなってしまったのだろうなぁ、と悲しむこともある。

それを歌ってくれた気がした。この歌詞そのままに歌われているわけではないが、そういった、世間一般の感覚とのズレを抱いて生きている人々を歌ってくれているような気がした。このとき、「Future!」の捉え方がガラリと変わった。

この「人間モドキ」にも、過去に苛まれ悪夢を見る者にも、何かをやらかしてしまって許されざる者にも、悔いが残ってやりきれない者にも未来があって、それがどんな未来かわからないし、希望があるかもわからないけど先を目指そうと。でも、未練を断ち切れない人を無理矢理連れて行くことはしないと。そう歌っているのである。

目指す先が希望であるとは決して断言されていない。もしかしたら絶望かもしれない。絶望の果て、来世でようやくニコニコ暮らせるかもしれない。でも、それもわからない。

それでも未来を目指そうと言う力強さ。未来を信じろと言う心強さ。それは「オーケントレイン」から「ディオネア・フューチャー」へ引き継がれている。そしてまた、「ディオネア・フューチャー」によって描かれる未来のあたたかさと、そこに至るまでの辛さが描かれる。ディオネアの、ハエトリソウの、あのトラバサミのような口に包まれ、ドロドロに溶かされ、栄養となって吸収され、つぼみとなり、ようやく白い小さな花を咲かせるまでの未来。どんなに恋しい過去も、しんどい現在も飲み込んで、ドロドロに溶かし消化する時間を持って初めて白い花へと咲くことができる。そこに至るには時間がかかる。故に無意識をもって、電波によって、メッセージを送って、脳Wi-Fiを使って何度も何度もおせっかいを言い切る。「信じろ!」と。そのうえで進んでようやくだ、と。そうしてあたたかな未来を見つけたら、ギュッと抱きしめて放すなよ、と。

自分は決して絶望していない。日々の暮らしをコツコツと重ね、ライブに行き、好きな音楽を聴き、本を読んで絵を描いて、時に忙しさに眩暈を覚えながらも平穏に暮らしている。少しの運動と地味ながらも品数のある夕飯。好きなときに観られるDVDに好きなときに聴ける音楽。たまの外食に、のどかな時間。幸福だが、パートナーがいない、子供がいない点を持って、不幸と決め付け哀れみの眼差しを送る人間もいる。そういった眼差しを受けるにつけ、参ったなぁ面倒くさいなぁ、と嫌気が差す。

まるでね、そういった独り身の人間には何も未来がないような、ただここからだらだら生きて死ぬだけだ、とでも言いたげな、そんな空気を感じていたのさ、プレッシャーをかけつつ哀れみの眼差しを送る人間に。

でも、どんな人間にも、人間モドキにも未来はある、と断言してくれたのがこの「Future!」なのだよ。

「オーケントレイン」で己が一等好きなのは「とらわれちゃイヤさ」という歌詞である。「とらわれちゃダメ」ではなく「とらわれちゃイヤ」。「ダメ」は単に否定するだけだが、「イヤ」には過去に囚われている人を見つめて、「そのままじゃイヤだな、解放されてほしいな」という思いが乗っている。その気持ちを乗せて歌ってくれているのである。

「ハニートラップの恋」は何と言っても最後の二行に全てが集約されている。ここに至るまで、ハニートラップの女が今まで普通に恋をできなかったこと、その果てに死ぬ悲しさが描かれる。だが、この女にはヒモの男がいたのだ。うっとりとハニートラップを仕掛けた男と最期の恋を楽しみながらも、もともと彼女にはヒモ関係の男がいた。そして、このヒモの男が彼女と相手の男を撃ち殺して泣くのである。

何が悲しいって、このヒモの男にとって彼女は大切な人間だったが、彼女にとっては何でもない存在だったってことなのだ。それを思い知らされる寂しさと悲しさ。何だよこれ。ヒューヒューワーワー言っている場合ではない。

「3歳の花嫁」は力技で感動させられる曲である。これはすごい。最後まで聴いたところで父親への印象が覆ることはないのに、空に向かってちっちゃな手をひらひら振る女の子の愛らしさで涙腺が刺激されるのである。

「結婚式」という人生の中でも大きなイベントを父親と開くことになって、将来黒歴史にならないだろうか、大丈夫だろうかと不安が募る。この父親の愛は本物だ。本気で娘を大事に思っている。だからこそ、愛情表現のズレ方が怖い。いくら愛娘の願いを叶えるためとはいえ普通結婚式を挙げることなぞしないだろう。

だからきっと、この父親も世間一般の感覚とはズレた人間モドキなのだ。でも、娘のことは本気で愛しているのだ。

ふと思ったのは招待リストに逃げた嫁を入れようか悩むシーン。普通なら「おいふざけんな」と言いたくなるところであるが、この結婚式をきっかけに自分の余命を伝え、愛娘の今後を託そうとしたのではないか……とも考えられる。そう思うと、ちょっと切ない。

「エニグマ」はアルバムの発売前に公開されたため、発売前からエンドレスリピートしていた一曲だ。これについて己がすごいなと思ったのは「ガストンの身にもなってみろ!」という歌詞。これの由来は「美女と野獣」で、ガストンは村に全く別の価値観が投入されたことによって、最終的には命を落とす役回りであると言う。あると言う、と伝聞形式なのはアニメ「美女と野獣」を観たのが二十年近く前でほとんど内容を覚えていないからである。すまぬ。

ただ覚えていないながらもその説明を聞いて思うことは、オーケンは決してガストン系の人間ではないのにガストンに思いを馳せられる人であるということ。自分が今まで生きてきた世界に全く別の価値観を投入されたら対応できるか? 考えを変えられるか? もし自分がその立場だったらどうだろうか? という自問自答がここにある。

自分の大切なものを守るのはたやすい。感情移入しているからだ。しかし、自分がどうでもいい、興味がない、と思っているものを守るのは難しい。自分の場合はまず煙草に喫煙所、コンビニの成人向け雑誌も卑猥な雑誌もいらない。だが、あくまでも自分がいらないだけで、必要としている人もいる。そこに意識を向けるにはエネルギーが必要で、それを常々痛感している。

そういった「自分と違うもの」へ思いを馳せることもできる人なのだ、オーケンは。

「告白」については前にも語ったが、もう一つ語りたいのは最後のシーン。「ボクの告白は以上さ 紅茶が冷めちゃったね」「そうか君も同じなのか」で、舞台が喫茶店のテーブルであることがわかる。ここでさ、「そうか君も同じなのか」と言っているけれど、「君」はきっと、勢いに押されて「うん、うん、わかるよ。私もそういうことあるよ」と同調してしまっただけで、彼との同類ではない気がするんだ。

同じように「同類ではないのではないか」と感じるのが「サイコキラーズ・ラブ」。「サイコキラーズ・ラブ」はアルバム発売前にライブで演奏されラジオで流されと、耳にする機会が多い曲で、聴くたびにじっくり考え、聴く前からも既に聞いた人々の評判を聞いて期待に胸を膨らませていた。それはもう、実在のサイコキラーについて自ら調べるほどに! そうして調べて、思ったことがあった。

この歌で描かれているのは、サイコキラーじゃないのではないかな、と。

この曲は、人間モドキの女とサイコキラーの男の物語のように思う。虫や鳥や猫や犬や人を手にかけた男と、世間一般とのズレを抱く女が出会って、全てが一致しないながらも共鳴した。女は愛も恋もわからない。ただ寂しい。男も愛も恋もわからない。ただ生きづらい。そこに人間モドキが提案する。ずっと一緒に生きていこう、と。だからこそ、最後の二行の言葉が出たのではないか、と。

「わけあり物件」は優しい曲だ。物件は売りに出された瞬間は新築だったものの、年数を重ねるにつれどんどん価値が低くなる。ここにおいて抗う術はない。時間を巻き戻すしかないからだ。

だが、この曲で歌われる「曰く付き」の描写の何と優しいことだろう! 赤い血にまみれるならまだしも、涙を流す程度で曰く付き認定。つまり、物件になぞらえられる人間の、過去を持つ全ては必ず曰く付きであり、わけのない物件なんぞないのである。それこそ新築の、産まれたての物件以外は! つまり、人は誰しもわけありで、それを肯定しているのである。

誰かがではなく誰しもわけあり。こういった視点が優しいなぁ、と思う。

アルバムの最後の一曲「T2」はプロレスラー入江茂弘選手の入場曲として作られた。故に力強く、勢いがあり、格好良い。そのうえで、この「Future!」というアルバムから浮くことなく、最後の締めを飾るにふさわしい一曲として機能している。退路を断たれようとも、天使の羽をもがれようとも、見下されようとも前へと進む意志。曲中の「曼荼羅」は「悟り」に言い換えられるだろう。我々の結論は何だ、まだ悟っていないままか? 我々の結論は何だ? まだ悟っていないふりか?

「曼荼羅」について、旺文社古語辞典第八版によると「(1)多くの仏・菩薩を安置する祭壇 (2)(1)に祭られた仏・菩薩のすべての徳のそなわった悟りの境地を一定の形式で絵にしたもの」とある。悟ったか、悟ったことをなかったことにしたいか、それでもタチムカウか、未来へ向けて!

タチムカウしかないのだ、我々は。未練や執着があっても。美しい過去や忘れられない思い出があっても。ただ、断ち切れない人を否定もしない。抱えたままでいたい人も否定しない。ただ示すだけなのである。そして同時に、それは人間モドキにも掲げられる未来なのである。それが「Future!」というアルバムであり、だからこそ優しく鮮やかなのだ。よって自分にとって、かけがえの無いアルバムになった。

しかし、周囲を見渡してみるとこの「Future!」にショックを受けた人も少なくない。その理由をなるべく追うようにしているが、まだピンと来ない状況である。人によってはザックリと胸を抉られた人もいるらしい。何故だろうか。知りたい。知りたいが。面と向かって聞けないままでいる。だってそれは、心のやわらかい部分に触れる行為だから。

よって。多分この先も、ずっと。