筋肉少女帯「Future!」感想
2017年12月3日(日) 緑茶カウント:2杯
発売日から毎日毎日、憑かれたように聴き続けたのは筋肉少女帯の新譜「Future!」。「新人」も「シーズン2」も「蔦からまるQの惑星」も、「THE SHOW MUST GO ON」も「おまけのいちにち(闘いの日々)」も、それぞれ特別なアルバムであったが、中でもこの「Future!」は抜きん出た存在である。
その由縁は「告白」の存在が大きい。
実を言うとまず一回目に「Future!」を聴いたとき、「オーケントレイン」「ディオネア・フューチャー」の二曲がピンと来ず、「人から箱男」を聴きながら己は不安を抱いていた。ずっと好きだった筋肉少女帯。ずっとぐっと来ていた筋肉少女帯に、ついに「何か違う」としっくり来ない感覚を抱く日が来たのかと。それは怖くもあり寂しくもあり、悲しい予感であった。
若干ではあるが、発売前から「Future!」という明るく前向きなタイトルに違和感を抱いてた。自分はまだここにいるのに先を越されてしまったような不安感があった。「ゾロ目」で何度も何度も過去をやり直そうと、巻き戻そうとしていた死ぬ物狂いの執着を見せ付けられ、その力強さに励まされていたのに、それを提示していた人が過去を振りきり未来へ向かってしまう後姿を眺める寂しさ。一本指立てて目指す先にまでまだ頭を切り替えられない悲しさ。その先を明るく見つめることが今の自分にはまだできない、と感じさせられる苦しさ。故に、パッカリと口を開けて獲物を待ち構えるハエトリソウ・ディオネアの色鮮やかなジャケットデザインから、その指し示される「Future!」に、どこか不穏なものがあって欲しい、と願う気持ちがあった。
その寂しさの、悲しさの、苦しさによる霧がパッと晴れたのが「告白」だった。
筋少初のテクノサウンド、という今までの筋少には無い異色の一曲は、「世間」や「普通」がわからない人間を歌った曲だ。これを聴き、歌詞を読んだ瞬間の衝撃は忘れられない。誰もいない部屋で、「ありがとうオーケン」という一言が零れ落ちた。
自分は決して誰も愛していないわけではないし、その場をしのぐために感謝の言葉を紡ぐこともない。しかし、「告白」に描かれる人物そのままではないが、いくらでも身に覚えがある。空気を読んで調子を合わせて迎合しきった結果、上手に化けた結果仲間意識を持たれてしまい苦しみに苛まれる経験なんぞ何回あったかしれやしない。大切に思う人はいる。大事に思う人もいる。友人もいる。ただしいつまで経っても性愛がピンと来ず、必要性も感じない。男性も女性もそれぞれ違って、それぞれ異性であるように思う。だが、自分の世界に同性はいない。故に距離感を間違えて傷つけてしまったこともある。何でこうなってしまったのだろうなぁ、と悲しむこともある。
それを歌ってくれた気がした。この歌詞そのままに歌われているわけではないが、そういった、世間一般の感覚とのズレを抱いて生きている人々を歌ってくれているような気がした。このとき、「Future!」の捉え方がガラリと変わった。
この「人間モドキ」にも、過去に苛まれ悪夢を見る者にも、何かをやらかしてしまって許されざる者にも、悔いが残ってやりきれない者にも未来があって、それがどんな未来かわからないし、希望があるかもわからないけど先を目指そうと。でも、未練を断ち切れない人を無理矢理連れて行くことはしないと。そう歌っているのである。
目指す先が希望であるとは決して断言されていない。もしかしたら絶望かもしれない。絶望の果て、来世でようやくニコニコ暮らせるかもしれない。でも、それもわからない。
それでも未来を目指そうと言う力強さ。未来を信じろと言う心強さ。それは「オーケントレイン」から「ディオネア・フューチャー」へ引き継がれている。そしてまた、「ディオネア・フューチャー」によって描かれる未来のあたたかさと、そこに至るまでの辛さが描かれる。ディオネアの、ハエトリソウの、あのトラバサミのような口に包まれ、ドロドロに溶かされ、栄養となって吸収され、つぼみとなり、ようやく白い小さな花を咲かせるまでの未来。どんなに恋しい過去も、しんどい現在も飲み込んで、ドロドロに溶かし消化する時間を持って初めて白い花へと咲くことができる。そこに至るには時間がかかる。故に無意識をもって、電波によって、メッセージを送って、脳Wi-Fiを使って何度も何度もおせっかいを言い切る。「信じろ!」と。そのうえで進んでようやくだ、と。そうしてあたたかな未来を見つけたら、ギュッと抱きしめて放すなよ、と。
自分は決して絶望していない。日々の暮らしをコツコツと重ね、ライブに行き、好きな音楽を聴き、本を読んで絵を描いて、時に忙しさに眩暈を覚えながらも平穏に暮らしている。少しの運動と地味ながらも品数のある夕飯。好きなときに観られるDVDに好きなときに聴ける音楽。たまの外食に、のどかな時間。幸福だが、パートナーがいない、子供がいない点を持って、不幸と決め付け哀れみの眼差しを送る人間もいる。そういった眼差しを受けるにつけ、参ったなぁ面倒くさいなぁ、と嫌気が差す。
まるでね、そういった独り身の人間には何も未来がないような、ただここからだらだら生きて死ぬだけだ、とでも言いたげな、そんな空気を感じていたのさ、プレッシャーをかけつつ哀れみの眼差しを送る人間に。
でも、どんな人間にも、人間モドキにも未来はある、と断言してくれたのがこの「Future!」なのだよ。
「オーケントレイン」で己が一等好きなのは「とらわれちゃイヤさ」という歌詞である。「とらわれちゃダメ」ではなく「とらわれちゃイヤ」。「ダメ」は単に否定するだけだが、「イヤ」には過去に囚われている人を見つめて、「そのままじゃイヤだな、解放されてほしいな」という思いが乗っている。その気持ちを乗せて歌ってくれているのである。
「ハニートラップの恋」は何と言っても最後の二行に全てが集約されている。ここに至るまで、ハニートラップの女が今まで普通に恋をできなかったこと、その果てに死ぬ悲しさが描かれる。だが、この女にはヒモの男がいたのだ。うっとりとハニートラップを仕掛けた男と最期の恋を楽しみながらも、もともと彼女にはヒモ関係の男がいた。そして、このヒモの男が彼女と相手の男を撃ち殺して泣くのである。
何が悲しいって、このヒモの男にとって彼女は大切な人間だったが、彼女にとっては何でもない存在だったってことなのだ。それを思い知らされる寂しさと悲しさ。何だよこれ。ヒューヒューワーワー言っている場合ではない。
「3歳の花嫁」は力技で感動させられる曲である。これはすごい。最後まで聴いたところで父親への印象が覆ることはないのに、空に向かってちっちゃな手をひらひら振る女の子の愛らしさで涙腺が刺激されるのである。
「結婚式」という人生の中でも大きなイベントを父親と開くことになって、将来黒歴史にならないだろうか、大丈夫だろうかと不安が募る。この父親の愛は本物だ。本気で娘を大事に思っている。だからこそ、愛情表現のズレ方が怖い。いくら愛娘の願いを叶えるためとはいえ普通結婚式を挙げることなぞしないだろう。
だからきっと、この父親も世間一般の感覚とはズレた人間モドキなのだ。でも、娘のことは本気で愛しているのだ。
ふと思ったのは招待リストに逃げた嫁を入れようか悩むシーン。普通なら「おいふざけんな」と言いたくなるところであるが、この結婚式をきっかけに自分の余命を伝え、愛娘の今後を託そうとしたのではないか……とも考えられる。そう思うと、ちょっと切ない。
「エニグマ」はアルバムの発売前に公開されたため、発売前からエンドレスリピートしていた一曲だ。これについて己がすごいなと思ったのは「ガストンの身にもなってみろ!」という歌詞。これの由来は「美女と野獣」で、ガストンは村に全く別の価値観が投入されたことによって、最終的には命を落とす役回りであると言う。あると言う、と伝聞形式なのはアニメ「美女と野獣」を観たのが二十年近く前でほとんど内容を覚えていないからである。すまぬ。
ただ覚えていないながらもその説明を聞いて思うことは、オーケンは決してガストン系の人間ではないのにガストンに思いを馳せられる人であるということ。自分が今まで生きてきた世界に全く別の価値観を投入されたら対応できるか? 考えを変えられるか? もし自分がその立場だったらどうだろうか? という自問自答がここにある。
自分の大切なものを守るのはたやすい。感情移入しているからだ。しかし、自分がどうでもいい、興味がない、と思っているものを守るのは難しい。自分の場合はまず煙草に喫煙所、コンビニの成人向け雑誌も卑猥な雑誌もいらない。だが、あくまでも自分がいらないだけで、必要としている人もいる。そこに意識を向けるにはエネルギーが必要で、それを常々痛感している。
そういった「自分と違うもの」へ思いを馳せることもできる人なのだ、オーケンは。
「告白」については前にも語ったが、もう一つ語りたいのは最後のシーン。「ボクの告白は以上さ 紅茶が冷めちゃったね」「そうか君も同じなのか」で、舞台が喫茶店のテーブルであることがわかる。ここでさ、「そうか君も同じなのか」と言っているけれど、「君」はきっと、勢いに押されて「うん、うん、わかるよ。私もそういうことあるよ」と同調してしまっただけで、彼との同類ではない気がするんだ。
同じように「同類ではないのではないか」と感じるのが「サイコキラーズ・ラブ」。「サイコキラーズ・ラブ」はアルバム発売前にライブで演奏されラジオで流されと、耳にする機会が多い曲で、聴くたびにじっくり考え、聴く前からも既に聞いた人々の評判を聞いて期待に胸を膨らませていた。それはもう、実在のサイコキラーについて自ら調べるほどに! そうして調べて、思ったことがあった。
この歌で描かれているのは、サイコキラーじゃないのではないかな、と。
この曲は、人間モドキの女とサイコキラーの男の物語のように思う。虫や鳥や猫や犬や人を手にかけた男と、世間一般とのズレを抱く女が出会って、全てが一致しないながらも共鳴した。女は愛も恋もわからない。ただ寂しい。男も愛も恋もわからない。ただ生きづらい。そこに人間モドキが提案する。ずっと一緒に生きていこう、と。だからこそ、最後の二行の言葉が出たのではないか、と。
「わけあり物件」は優しい曲だ。物件は売りに出された瞬間は新築だったものの、年数を重ねるにつれどんどん価値が低くなる。ここにおいて抗う術はない。時間を巻き戻すしかないからだ。
だが、この曲で歌われる「曰く付き」の描写の何と優しいことだろう! 赤い血にまみれるならまだしも、涙を流す程度で曰く付き認定。つまり、物件になぞらえられる人間の、過去を持つ全ては必ず曰く付きであり、わけのない物件なんぞないのである。それこそ新築の、産まれたての物件以外は! つまり、人は誰しもわけありで、それを肯定しているのである。
誰かがではなく誰しもわけあり。こういった視点が優しいなぁ、と思う。
アルバムの最後の一曲「T2」はプロレスラー入江茂弘選手の入場曲として作られた。故に力強く、勢いがあり、格好良い。そのうえで、この「Future!」というアルバムから浮くことなく、最後の締めを飾るにふさわしい一曲として機能している。退路を断たれようとも、天使の羽をもがれようとも、見下されようとも前へと進む意志。曲中の「曼荼羅」は「悟り」に言い換えられるだろう。我々の結論は何だ、まだ悟っていないままか? 我々の結論は何だ? まだ悟っていないふりか?
「曼荼羅」について、旺文社古語辞典第八版によると「(1)多くの仏・菩薩を安置する祭壇 (2)(1)に祭られた仏・菩薩のすべての徳のそなわった悟りの境地を一定の形式で絵にしたもの」とある。悟ったか、悟ったことをなかったことにしたいか、それでもタチムカウか、未来へ向けて!
タチムカウしかないのだ、我々は。未練や執着があっても。美しい過去や忘れられない思い出があっても。ただ、断ち切れない人を否定もしない。抱えたままでいたい人も否定しない。ただ示すだけなのである。そして同時に、それは人間モドキにも掲げられる未来なのである。それが「Future!」というアルバムであり、だからこそ優しく鮮やかなのだ。よって自分にとって、かけがえの無いアルバムになった。
しかし、周囲を見渡してみるとこの「Future!」にショックを受けた人も少なくない。その理由をなるべく追うようにしているが、まだピンと来ない状況である。人によってはザックリと胸を抉られた人もいるらしい。何故だろうか。知りたい。知りたいが。面と向かって聞けないままでいる。だってそれは、心のやわらかい部分に触れる行為だから。
よって。多分この先も、ずっと。