日記録0杯, アルバム感想, 日常, 筋肉少女帯

2018年11月11日(日) 緑茶カウント:0杯

筋肉少女帯の新譜を聴いて、こんなにも辛く、悲しく、感情が揺さぶられたのは初めてだった。そして思い出したのは、前作「Future!」を聴いて大きなショックを受けた人達がいたこと。そのショックの由縁を未だ己は知り得ないが、「ザ・シサ」にショックを受けている自分自身に対しては、その理由を紐解くことができている。

かつて、こんなにも愛や恋に駆られる人々が熱心に描かれ、愛や恋がポイントとして語られることがあっただろうか。いや、無い。だからショックだったのだ。「きらめき」の「愛など存在はしない、この恋もどうせ終わるさ」という歌詞に、愛は万能ではなく日常の一つであると感じ取って安心感を抱いていた故に。だから悲しかったのだ。恋愛に対してどこかシニカルな態度を見せてきた筋肉少女帯が、恋愛を至上のものとして描いたことが。

よって、この「ザ・シサ」というアルバムは己にとって難解で、理解したくても理解できないものだった。そして同時に苦しかった。恋愛の本質は理解できなくても、その人が嬉しそうなら嬉しい、悲しそうなら悲しいと理解して生きてきて、それで何とかなっていたのに、本質に共感できないことを突きつけられてしまったような気がして。

苦しかった。どうかどうか愛や恋を語らない曲が出てきてくれとざわざわしながら歌詞カードをめくり、「セレブレーションの視差」で、ここでも激しい恋がポイントとして描かれてたときの絶望感。歌詞を辿りながら、これならわかるかな、近づけるかな、と思いきや。

……遠かった。

聴き終わった直後は呆然として軽く吐き気すら感じた。びっくりするほど、わからなかった。難解だった。そして、ごく普通に世の中に溶け込んで暮らしていたつもりが、このアルバムによって見事に化けの皮が剥がされた心地がした。

何故今、愛や恋に駆られている人々が密に描かれているのだろう? 好きすぎて人を殺す人もいるだろうが、別の理由で殺す場合もいくらでもあるだろうに、何故好きすぎて人を殺した人が描かれているのだろう? どうして、こんなに愛や愛する人々が重視されているのだろう? 考えれば考えるほどわからなく、寂しく、悲しかった。頭がぐらぐらした。前作「Future!」の「告白」という一曲に救いを感じた人間だけに。

だが、「告白」をきっかけに「ザ・シサ」を自分なりに解釈することができた。よってここから先の文章は「告白」で言うところの「夢見る人間モドキ」による「ザ・シサ」の視差である。きっと他の人々にはまた別の感想、別の視差があるだろう。一つの視差として、ご覧いただきたい。

「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」というシリアスな問いに似つかわしくない、明るくポップな曲。この曲を最初聴いたとき、愛が殺人の理由として描かれることに違和感を抱いたが、聴き続けるうちにふと気付いた。

この黒いスーツを買いに行く男は、「告白」の男なのではなかろうか、と。

夢見る人間モドキである男は、誰も愛しておらず、愛の意味もわからない。ただ愛情とは永遠のものらしいとぼんやり理解している。そして彼は悲しい場面でも共感や同情ができない、ただ空気を読んで嘘の涙を流す配慮はある。

「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」と「人を殺しちゃいけないのはなぜか?」は同じようで意味合いが全く異なる問いだ。前者には「人を殺してはいけない」という前提条件がなく、殺人そのものに疑問を呈している。対して後者は「人を殺してはいけない」という前提条件がありつつ、そのうえでその理由に迫っている。

そう、この男は「人を殺してはいけない」とは特に思っていないのだ。そんな折、友達の女の子が恋人を殺してしまった。自分はピンと来ないが、世間的には人を殺してはいけないとされている。じゃあ、どうして彼女は殺してしまったのだろうか?

そうして考えて至った結論が「愛しすぎたから」。彼は愛の本質を理解できないまでも、愛は永遠であり、至上のものと語られていることは知っている。だから、愛がそれほどすごいものなら、愛しすぎた結果殺してしまったに違いないと考え、愛のための殺人なら許されるに違いないと思い、ちゃんとした服を買って証人として立ったのである。

このとき彼は「感傷的」と言われたが、きっと感傷になぞ全く浸っていなかったに違いない。「同情はしないけどくやしいな」という言葉には、夢見る人間モドキとしての愛がわからないからこそのあっけらかんとした憧れが見える。店員との会話でさらっと友人が彼氏を殺したことを語り、普通の人を装って「ダメっすよね」と語るも店員はきっと引きつった笑みを浮かべていただろう。そして極めつけの台詞は「人が殺されるとめんどくさい」。葬式に行く必要があるということは、殺された男も友人か知人だろうに、そこに対しての感傷はなくただただ黒いスーツを買いに行くことに対して面倒臭さを感じているだけなのだ。

恐らく、思う。彼女の殺人は愛が原因ではなかったのではないか。単に夢見る人間モドキの男がそう解釈しただけで、本当の理由は別のところにあったのではないか。

そんな彼が彼女に宛てた手紙には何が書かれているだろう。「君のことがうらやましいと思いました」と無邪気に綴られているかもしれない。

そして「夢見る人間モドキ」の視点に立って眺めてみれば、「ザ・シサ」は恋愛をポイントとして「人間」が描かれているアルバムと言えるだろう。必死で歌い叫び身代わりを立てようとするも、娘が恋に堕ちてしまったせいで逃げられてしまい、覚悟を決めて歌い続ける男、片想いのために地球を二度も滅亡させる男、妻と死別する老いた男、帰って来た美女の暴露に怯える男、そして一つのバンドのボーカルに恋をした母娘の物語。

「夢見る人間モドキ」にとって理解できない象徴のような一曲が「衝撃のアウトサイダー・アート」だ。これは自分自身、何度聴いても何も理解できない。唯一感じ取れるのは曲調が格好良いということだけで、びっくりするほど共感のしようがなく、何が描かれているのかもよくわからない。クレイジーな美って何だ……? いったいそれが、だからどうした……?

恐らく己は一生、この曲を感覚として捉えることはできないのだろう。

もう一つ、物語としては理解できるが感覚としてわからないのが「マリリン・モンロー・リターンズ」。そうか、ふむ、そんなに怖いのか……? と思いつつ、いまいちピンと来ない。同時に興味を覚える。この曲に芯からゾッとする人の存在に。

「ネクスト・ジェネレーション」は初めてライブで聴いたときには「若いファンに手を出すのはやめなさい!」と曲中のバンドマンに対して思ったものだが、重ねて聴くにつれ切なさの方が勝るようになった。

「ライブだけが人生で、他はみんな夢なんだ」と付き合っていたバンドマンが語る言葉を聞いて、呆れて捨ててしまったと母親は娘に語る。確かに、交際を続けている中で言われてしまえば冷めてしまうのも無理はない。

だがこの言葉は、ステージで叫ばれていた頃には、「彼氏」ではなく「ステージ上のボーカリスト」が発する言葉であったなら、きっと胸をときめかせるものだったに違いないのだ。

バンドマンである男は恐らく何も変わっていない。ただ、関係性の変化により見え方が変わってしまったのだ。そして、同じことが娘にも起こることが示唆されている。今付き合っていて、仲良しで、いい人で、でもバカ。この言葉が出てきてしまった時点で彼女にとってバンドマンはもうステージ上の存在ではなく、現実の視点から捉える存在になってしまっているのだ。

ライブだけを人生にステージに立ち続けるも、ファンと付き合うたびに現実を見せてしまい、別れを告げられる男のもの悲しさ。この女の子もかつてと同じように夢を語る彼に愛想をつかせ、異なる対象に心を燃え上がらせたとき、ずっと夢中になっていたバンドが、まるで別の人々とすっかり入れ替わってしまったような、そんな感覚を抱くかもしれない。

と、真面目に語りつつ、女の子の年齢が気になる。せめて高校生、できたら大学生であって欲しい。でも何となく中学生の可能性もあってざわざわする。頼むからお茶おごって映画連れてく程度のお付き合いであってほしい。頼む! 頼む!!

といった形で己にとって「ザ・シサ」は全体的に心がざわざわするアルバムなのだが、そんな中で「ゾンビリバー」「オカルト」「ケンジのズンドコ節」は癒しである。ありがたい。「ゾンビリバー」の「流れていったあの娘はひととき好きだった かまうな他にもきっと出会うさ」という歌詞には「そうそう、これこれ! これだよ!」と妙に安心してしまった。

「オカルト」は恋愛云々と言うよりも、個人の欲望を優先させて地球を滅亡させた物語なのでわかりやすかった。それにしても「献杯!」という言葉を歌詞に突っ込んでくる悪意よ。「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」の「人が殺されるとめんどくさい」もそうだが、じわっと滲む悪意が恐ろしいアルバムである。

「ケンヂのズンドコ節」は、まさか「猫のテブクロ再現ライブ」で語られた「悪陰謀」「いい陰謀」が今になって歌詞に描かれるとは思わず驚いた。ストレートな説教くささもありつつ天使の描写が実にダークでゾッとする。オーケンの描く天使はどうしてどいつもこいつも恐ろしいのか。声もあいまって非常に怖い。

インストゥルメンタルの「セレブレーション」から続く二曲目は「I,頭屋」。頭屋とは神社の祭礼や講に際し、神事や行事を主催する役に当たった人や家のことで、輪番制だったそうである。その頭屋に自身をなぞらえ、これが自身の役割であり運命であると言い切る。描かれる描写にはロックバンドのボーカリストとして歌い続ける疲れが見え、同時にそれでも歌い続ける覚悟が感じられ、オーケンにとっての筋肉少女帯の価値と、筋肉少女帯で歌い続ける自分自身への叱咤激励が読み取れる。見方を変えれば生け贄であり、人身御供であり、道化だが、「役割」であり「運命」である視差を選び取る力強さ。

オーケンはよく、自分がこうしてロックバンドのボーカルをしていることを不思議に思うと語る。それは、ロックバンドのボーカリストとして生き続けることへの不安もあるのかもしれない。そのうえで歌い続けると叫ぶ覚悟の先には何があるだろう。夢見る人間モドキとして「ザ・シサ」を楽しみながら、次はどこへ転がっていくのか期待したい。

怖さを抱きつつ、同時に楽しみだ。どこまでも必ず、見届けよう。



筋肉少女帯「Future!」感想



日記録2杯, アルバム感想, 日常, 筋肉少女帯

2017年12月3日(日) 緑茶カウント:2杯

発売日から毎日毎日、憑かれたように聴き続けたのは筋肉少女帯の新譜「Future!」。「新人」も「シーズン2」も「蔦からまるQの惑星」も、「THE SHOW MUST GO ON」も「おまけのいちにち(闘いの日々)」も、それぞれ特別なアルバムであったが、中でもこの「Future!」は抜きん出た存在である。

その由縁は「告白」の存在が大きい。

実を言うとまず一回目に「Future!」を聴いたとき、「オーケントレイン」「ディオネア・フューチャー」の二曲がピンと来ず、「人から箱男」を聴きながら己は不安を抱いていた。ずっと好きだった筋肉少女帯。ずっとぐっと来ていた筋肉少女帯に、ついに「何か違う」としっくり来ない感覚を抱く日が来たのかと。それは怖くもあり寂しくもあり、悲しい予感であった。

若干ではあるが、発売前から「Future!」という明るく前向きなタイトルに違和感を抱いてた。自分はまだここにいるのに先を越されてしまったような不安感があった。「ゾロ目」で何度も何度も過去をやり直そうと、巻き戻そうとしていた死ぬ物狂いの執着を見せ付けられ、その力強さに励まされていたのに、それを提示していた人が過去を振りきり未来へ向かってしまう後姿を眺める寂しさ。一本指立てて目指す先にまでまだ頭を切り替えられない悲しさ。その先を明るく見つめることが今の自分にはまだできない、と感じさせられる苦しさ。故に、パッカリと口を開けて獲物を待ち構えるハエトリソウ・ディオネアの色鮮やかなジャケットデザインから、その指し示される「Future!」に、どこか不穏なものがあって欲しい、と願う気持ちがあった。

その寂しさの、悲しさの、苦しさによる霧がパッと晴れたのが「告白」だった。

筋少初のテクノサウンド、という今までの筋少には無い異色の一曲は、「世間」や「普通」がわからない人間を歌った曲だ。これを聴き、歌詞を読んだ瞬間の衝撃は忘れられない。誰もいない部屋で、「ありがとうオーケン」という一言が零れ落ちた。

自分は決して誰も愛していないわけではないし、その場をしのぐために感謝の言葉を紡ぐこともない。しかし、「告白」に描かれる人物そのままではないが、いくらでも身に覚えがある。空気を読んで調子を合わせて迎合しきった結果、上手に化けた結果仲間意識を持たれてしまい苦しみに苛まれる経験なんぞ何回あったかしれやしない。大切に思う人はいる。大事に思う人もいる。友人もいる。ただしいつまで経っても性愛がピンと来ず、必要性も感じない。男性も女性もそれぞれ違って、それぞれ異性であるように思う。だが、自分の世界に同性はいない。故に距離感を間違えて傷つけてしまったこともある。何でこうなってしまったのだろうなぁ、と悲しむこともある。

それを歌ってくれた気がした。この歌詞そのままに歌われているわけではないが、そういった、世間一般の感覚とのズレを抱いて生きている人々を歌ってくれているような気がした。このとき、「Future!」の捉え方がガラリと変わった。

この「人間モドキ」にも、過去に苛まれ悪夢を見る者にも、何かをやらかしてしまって許されざる者にも、悔いが残ってやりきれない者にも未来があって、それがどんな未来かわからないし、希望があるかもわからないけど先を目指そうと。でも、未練を断ち切れない人を無理矢理連れて行くことはしないと。そう歌っているのである。

目指す先が希望であるとは決して断言されていない。もしかしたら絶望かもしれない。絶望の果て、来世でようやくニコニコ暮らせるかもしれない。でも、それもわからない。

それでも未来を目指そうと言う力強さ。未来を信じろと言う心強さ。それは「オーケントレイン」から「ディオネア・フューチャー」へ引き継がれている。そしてまた、「ディオネア・フューチャー」によって描かれる未来のあたたかさと、そこに至るまでの辛さが描かれる。ディオネアの、ハエトリソウの、あのトラバサミのような口に包まれ、ドロドロに溶かされ、栄養となって吸収され、つぼみとなり、ようやく白い小さな花を咲かせるまでの未来。どんなに恋しい過去も、しんどい現在も飲み込んで、ドロドロに溶かし消化する時間を持って初めて白い花へと咲くことができる。そこに至るには時間がかかる。故に無意識をもって、電波によって、メッセージを送って、脳Wi-Fiを使って何度も何度もおせっかいを言い切る。「信じろ!」と。そのうえで進んでようやくだ、と。そうしてあたたかな未来を見つけたら、ギュッと抱きしめて放すなよ、と。

自分は決して絶望していない。日々の暮らしをコツコツと重ね、ライブに行き、好きな音楽を聴き、本を読んで絵を描いて、時に忙しさに眩暈を覚えながらも平穏に暮らしている。少しの運動と地味ながらも品数のある夕飯。好きなときに観られるDVDに好きなときに聴ける音楽。たまの外食に、のどかな時間。幸福だが、パートナーがいない、子供がいない点を持って、不幸と決め付け哀れみの眼差しを送る人間もいる。そういった眼差しを受けるにつけ、参ったなぁ面倒くさいなぁ、と嫌気が差す。

まるでね、そういった独り身の人間には何も未来がないような、ただここからだらだら生きて死ぬだけだ、とでも言いたげな、そんな空気を感じていたのさ、プレッシャーをかけつつ哀れみの眼差しを送る人間に。

でも、どんな人間にも、人間モドキにも未来はある、と断言してくれたのがこの「Future!」なのだよ。

「オーケントレイン」で己が一等好きなのは「とらわれちゃイヤさ」という歌詞である。「とらわれちゃダメ」ではなく「とらわれちゃイヤ」。「ダメ」は単に否定するだけだが、「イヤ」には過去に囚われている人を見つめて、「そのままじゃイヤだな、解放されてほしいな」という思いが乗っている。その気持ちを乗せて歌ってくれているのである。

「ハニートラップの恋」は何と言っても最後の二行に全てが集約されている。ここに至るまで、ハニートラップの女が今まで普通に恋をできなかったこと、その果てに死ぬ悲しさが描かれる。だが、この女にはヒモの男がいたのだ。うっとりとハニートラップを仕掛けた男と最期の恋を楽しみながらも、もともと彼女にはヒモ関係の男がいた。そして、このヒモの男が彼女と相手の男を撃ち殺して泣くのである。

何が悲しいって、このヒモの男にとって彼女は大切な人間だったが、彼女にとっては何でもない存在だったってことなのだ。それを思い知らされる寂しさと悲しさ。何だよこれ。ヒューヒューワーワー言っている場合ではない。

「3歳の花嫁」は力技で感動させられる曲である。これはすごい。最後まで聴いたところで父親への印象が覆ることはないのに、空に向かってちっちゃな手をひらひら振る女の子の愛らしさで涙腺が刺激されるのである。

「結婚式」という人生の中でも大きなイベントを父親と開くことになって、将来黒歴史にならないだろうか、大丈夫だろうかと不安が募る。この父親の愛は本物だ。本気で娘を大事に思っている。だからこそ、愛情表現のズレ方が怖い。いくら愛娘の願いを叶えるためとはいえ普通結婚式を挙げることなぞしないだろう。

だからきっと、この父親も世間一般の感覚とはズレた人間モドキなのだ。でも、娘のことは本気で愛しているのだ。

ふと思ったのは招待リストに逃げた嫁を入れようか悩むシーン。普通なら「おいふざけんな」と言いたくなるところであるが、この結婚式をきっかけに自分の余命を伝え、愛娘の今後を託そうとしたのではないか……とも考えられる。そう思うと、ちょっと切ない。

「エニグマ」はアルバムの発売前に公開されたため、発売前からエンドレスリピートしていた一曲だ。これについて己がすごいなと思ったのは「ガストンの身にもなってみろ!」という歌詞。これの由来は「美女と野獣」で、ガストンは村に全く別の価値観が投入されたことによって、最終的には命を落とす役回りであると言う。あると言う、と伝聞形式なのはアニメ「美女と野獣」を観たのが二十年近く前でほとんど内容を覚えていないからである。すまぬ。

ただ覚えていないながらもその説明を聞いて思うことは、オーケンは決してガストン系の人間ではないのにガストンに思いを馳せられる人であるということ。自分が今まで生きてきた世界に全く別の価値観を投入されたら対応できるか? 考えを変えられるか? もし自分がその立場だったらどうだろうか? という自問自答がここにある。

自分の大切なものを守るのはたやすい。感情移入しているからだ。しかし、自分がどうでもいい、興味がない、と思っているものを守るのは難しい。自分の場合はまず煙草に喫煙所、コンビニの成人向け雑誌も卑猥な雑誌もいらない。だが、あくまでも自分がいらないだけで、必要としている人もいる。そこに意識を向けるにはエネルギーが必要で、それを常々痛感している。

そういった「自分と違うもの」へ思いを馳せることもできる人なのだ、オーケンは。

「告白」については前にも語ったが、もう一つ語りたいのは最後のシーン。「ボクの告白は以上さ 紅茶が冷めちゃったね」「そうか君も同じなのか」で、舞台が喫茶店のテーブルであることがわかる。ここでさ、「そうか君も同じなのか」と言っているけれど、「君」はきっと、勢いに押されて「うん、うん、わかるよ。私もそういうことあるよ」と同調してしまっただけで、彼との同類ではない気がするんだ。

同じように「同類ではないのではないか」と感じるのが「サイコキラーズ・ラブ」。「サイコキラーズ・ラブ」はアルバム発売前にライブで演奏されラジオで流されと、耳にする機会が多い曲で、聴くたびにじっくり考え、聴く前からも既に聞いた人々の評判を聞いて期待に胸を膨らませていた。それはもう、実在のサイコキラーについて自ら調べるほどに! そうして調べて、思ったことがあった。

この歌で描かれているのは、サイコキラーじゃないのではないかな、と。

この曲は、人間モドキの女とサイコキラーの男の物語のように思う。虫や鳥や猫や犬や人を手にかけた男と、世間一般とのズレを抱く女が出会って、全てが一致しないながらも共鳴した。女は愛も恋もわからない。ただ寂しい。男も愛も恋もわからない。ただ生きづらい。そこに人間モドキが提案する。ずっと一緒に生きていこう、と。だからこそ、最後の二行の言葉が出たのではないか、と。

「わけあり物件」は優しい曲だ。物件は売りに出された瞬間は新築だったものの、年数を重ねるにつれどんどん価値が低くなる。ここにおいて抗う術はない。時間を巻き戻すしかないからだ。

だが、この曲で歌われる「曰く付き」の描写の何と優しいことだろう! 赤い血にまみれるならまだしも、涙を流す程度で曰く付き認定。つまり、物件になぞらえられる人間の、過去を持つ全ては必ず曰く付きであり、わけのない物件なんぞないのである。それこそ新築の、産まれたての物件以外は! つまり、人は誰しもわけありで、それを肯定しているのである。

誰かがではなく誰しもわけあり。こういった視点が優しいなぁ、と思う。

アルバムの最後の一曲「T2」はプロレスラー入江茂弘選手の入場曲として作られた。故に力強く、勢いがあり、格好良い。そのうえで、この「Future!」というアルバムから浮くことなく、最後の締めを飾るにふさわしい一曲として機能している。退路を断たれようとも、天使の羽をもがれようとも、見下されようとも前へと進む意志。曲中の「曼荼羅」は「悟り」に言い換えられるだろう。我々の結論は何だ、まだ悟っていないままか? 我々の結論は何だ? まだ悟っていないふりか?

「曼荼羅」について、旺文社古語辞典第八版によると「(1)多くの仏・菩薩を安置する祭壇 (2)(1)に祭られた仏・菩薩のすべての徳のそなわった悟りの境地を一定の形式で絵にしたもの」とある。悟ったか、悟ったことをなかったことにしたいか、それでもタチムカウか、未来へ向けて!

タチムカウしかないのだ、我々は。未練や執着があっても。美しい過去や忘れられない思い出があっても。ただ、断ち切れない人を否定もしない。抱えたままでいたい人も否定しない。ただ示すだけなのである。そして同時に、それは人間モドキにも掲げられる未来なのである。それが「Future!」というアルバムであり、だからこそ優しく鮮やかなのだ。よって自分にとって、かけがえの無いアルバムになった。

しかし、周囲を見渡してみるとこの「Future!」にショックを受けた人も少なくない。その理由をなるべく追うようにしているが、まだピンと来ない状況である。人によってはザックリと胸を抉られた人もいるらしい。何故だろうか。知りたい。知りたいが。面と向かって聞けないままでいる。だってそれは、心のやわらかい部分に触れる行為だから。

よって。多分この先も、ずっと。



日記録6杯, M.S.SProject, Thunder You Poison Viper, アルバム感想, ケラリーノ・サンドロヴィッチ, 日常, 町田康

2016年2月11日(木) 緑茶カウント:6杯

160211_2205

このサイトを始めて今日で十三年。早いものである。やっていることは少しずつ変わっているものの、基本的にはずっと日記を書いている。恐らくこのまま二十年三十年と過ぎていくのだろう。素敵じゃん。

さて、個人的に記念日である今日は何をするかと考えて、せっかくなので買いためていたCDをゆったり聴いて過ごすことにした。

「心のユニット」(町田康&佐藤タイジ)
「M.S.S Phantom」(M.S.S Project)
「Broun,White&Black」(KERA)
「Impromptu」(Thunder You Poison Viper)

いつになく横文字が多くて書き写すのに苦労した。そういう意味では珍しいラインナップである。

今日はイヤホンを使わず、部屋に音楽を流してリラックスしながら音を楽しむことにした。イヤホンは細かい音まで聴き取れるが、どうしてもコードによって行動が制限される。しかもコードがそんなに長くないのでまさに繋がれた犬状態。これはこれで楽しいが、今日は足を伸ばしてくつろぎたい。

というわけで緑茶を片手にこたつでだらだらしながらたまにパソコンに向かっている。楽しい。


■「心のユニット」(町田康&佐藤タイジ)
中古屋で手に入れた廃盤のアルバム。とにかく町田康の音源が欲しくて入手した。この二人がユニットを組むに至った経緯や曲調、事前情報を知らないままディスクを音楽再生機器に入れたら三曲しか表示されなくて驚いた。さらに、再生するとやけに穏やかな曲が流れてきて驚いた。

しかし曲調が穏やかとはいえ詩も同じとは限らない。「空にダイブ」の「ああ、空にダイブをしたらやばいかな」という歌詞には怖さがある。連想したのは町田康の短編「ゴランノスポン」の、惨めでぐっちゃぐちゃな現実の中あくまでも物事を前向きに捉えようとする若者の薄ら寒いポジティブさと、ポジティブを維持しきれなくなり爆発する悲惨さ。

そして三曲目の「光」もよくよく歌詞を読むと前向きでも何でもなかった。町田康はポジティブで前向きな言葉を並べて、地を這うようなどうにもならない絶望感を描写する名手である。

このCDは三曲で一つの物語が構成されていた。やるせない物語だった。

余談だが、CDケースを開けたらCD購入者のみが見られる特別映像のURL・ID・パスワードが書かれた小さなカードが入っていた。アクセス有効期間は2002年までだった。歯噛みした。だが、救いもあった。カードの下には「このカードはしおりとしてご使用ください」とも書かれていたのである。ありがとう、そうするよ。


■「M.S.S Phantom」(M.S.S Project)
ライブに行ってから何度もアニメイトに足を運んだものの、ずっと売り切れていて買えなかったアルバムをようやく入手した。一番の目当ては「KIKKUNのテーマ」である。あれはとても楽しかった!

アルバム裏面を見ると初音ミクがボーカル扱いになっているのが面白い。楽器ではなく、あくまでもボーカリストなのだな。

ボーカロイドを使用した音楽を己はあまり聴いたことがない。故に耳慣れないせいだろう、歌詞が歌われている認識はあるのに、言葉が音に分解されて、歌のある曲でありながらインストゥルメンタルとして耳が捉えていることがある。流石に何度も繰り返し聴くと初音ミクが初音ミクとして己の中で確立されてそのような効果はなくなるので、そういった楽しみが出来るのは最初のうちだけなのだが。

「THE BLUE」や「CELESTIAL」のような、初音ミクが人間を超えた早口で歌う曲は、言葉が音に融解していて、その声か音かわからなくなりかける音の妙を楽しむのが気持ち良い。

目当ての「KIKKUNのテーマ」は衝撃的だった。アルバムを始めから通して聴くといきなりポップな曲が始まり、その曲調の変わりようもびっくりだが、「きっくん! きっくん!」って、声、入ってないんだな! てっきりCDには声が入っていて、ライブではファンがその部分を歌う構成になっているのかと思っていたのだが……。ちゃんと「きっくん! きっくん!」って聴こえるのが面白い。

「We are MSSP!」について。初音ミクのボーカルを続けて聴いた後、最後に人間の歌声が始まったので変に新鮮味を感じてしまった。歌声の初々しさが可愛らしい。


■「Broun,White&Black」(KERA)
ケラさんによるジャズアルバム。ジャズ! 縁の遠い音楽である。無論「ジャズ」という音楽がこの世にあることはよくよく知っているが、ではジャズとはどのような音楽か、と問われると何も説明できない。何も説明できないが、聴いてみたくなったので欲望のまま購入した。

CDケースを開けて、まずCDがどこにあるのかわからなくて困惑した。パタパタッと三面鏡のような形に開かれた三面全てにケラさんの顔、顔、顔。あれCDはどこ? って思ったら側面に口が開いていて右と左にCDと歌詞カードが封入されていた。安心した。

前述の通り己はジャズを全く知らないということもあり、このアルバムは有名なジャズのカバーアルバムなのかな、と思っていたのだが、作詞作曲を見るとケラさんオリジナルらしき曲と、カバーの両方があるようだ。

そうしてわくわくしながら再生ボタンを押すと、「あぁ、こういう音楽か!」とジャズがわからないなりに納得した。イントロからグッと来て、これはツボだ! 大好きなやつだ! と直感し的中したのが「学生時代」。こういう音楽をどこかで聴くたび、好みだなと感じていたのだが、これが何なのかわからなかったんだ。これか!!

ケラさんの歌声がまた良いのだなぁ。この明るく跳ねながら走り抜けるような声。喜びと悲しみが同居しているような。笑いながら涙が滲んでいるような声が好きだ。鼻の奥がジンと痛くなるんだ。

「半ダースの夢」「学生時代」「復興の歌」「地図と領土」が好き。二周目は歌詞カードをじっくり見ながら聴いてみよう。


■「Impromptu」(Thunder You Poison Viper)
ベーシスト内田雄一郎・ピアニスト三柴理、ドラマー長谷川浩二によるピアノトリオによる、オフィシャルブートレグ、ということで公式海賊盤。アルバムに詳細が書かれていないのだが、ライブ演奏と、ライブでの即興演奏を音源化したもののようである。ジャケットの内側には文字と絵による設計図が載っていて、その図をもとに即興で演奏された曲が二つ入っている。……ただ、歓声や拍手の音が入っていなかったら、ライブ音源とは気付かないんじゃないか、これ。

音楽を聴き始めた頃は「演奏」にほとんど注目しておらず、歌ありき、もっと言えば歌詞ありきで聴いていたので、インストゥルメンタルには興味がなかったものだが、いつの間にか楽器の音を一つ一つ追いかけたりするようになって、インストゥルメンタルも大好きになった。サンダーユーも大好物である。大好物だが、音楽に関する知識がないので「すごい」「かっこいい」「めっちゃ好き」といった、小学生の作文めいた言葉しか出てこない。無念である。ただただ思うのは、集まるべくして集まったのだな、ということだ。

他三枚のアルバムもそうなのだが、特に「Impromptu」はイヤホンを使ってがっつり聴くべきだと思った。細かな音まで追いかけたい。


四枚のアルバムを聴きながら六杯の緑茶を飲んだ。特に何をするでもなく、音楽を聴きつつ、思ったことをたまにタカタカ書く穏やかな時間。なかなか贅沢な休日の過ごし方ができて嬉しい。歌詞カードとにらめっこをしながら、一曲一曲をしつこく聴き込むという楽しみがまだ残っているのも良い。実に気持ちの良い一日だった。



日記録2杯, アルバム感想, 平沢進, 日常

2013年11月5日(火) 緑茶カウント:2杯



核P-MODELのセカンドアルバム「гипноза (Gipnoza)」を手に入れた。発売日は明日だが、一足早く手に入れることが出来たので、逸る心を抑えながら湯を沸かし、とっておきの玉露を淹れ、いそいそと準備をし、正座をしてCDを取り出した。

そして気付いたときには、正しい温度で淹れた玉露はすっかり冷め切っていたのだった。

「突弦変異」「変弦自在」「現象の花の秘密」はよりシンフォニックさが強調され、「現象の花の秘密」は分厚いコーラスも優しい音の重なりでどこか女性的。やわらかい布を幾重にも重ねたような音。対して「гипноза (Gipnoza)」は硬質的かつ男性的。重厚なコーラスは魔王のような威圧感。鉄柱でぶん殴られるような衝撃だ。それでいて、ヒラサワソロらしさもしっかり残っていて、P-MODELで言えば「big body」が好きな人は特にぐっとくるのではないかと思う。

まだ二周目に入ったところで、歌詞もろくに読み込めていないが、表題曲の「гипноза (Gipnoza)」に関していえば、こちらは公式サイトで先行配信されていたため、歌詞を知らない状態で何度も聴き、ヒラサワの言葉のセンス、譜割りの自由さを考えながら自分なりに歌詞を聴き取ろうと努力して、まあ何だかんだ言ってもヒラサワの曲も大分聴き慣れた身であるので、なかなか良いところまで行けたんじゃないか、と思いつつ答え合わせをしたのだが、見事に全然違った。せいぜい、良くて正解率二割と言ったところである。「何のかんの逡巡逡巡」と聴きとっていたところなんぞ「何なくUnlock 瞬時に転換 瞬時に払拭」である。「坦懐の美を乗せ」は「坦懐のビヨンセ」と聞こえていた。ビヨンセって誰だよ。

パッと聴いた限りでは「гипноза (Gipnoza)」「それ行け!Halycon」「排時光」「Parallel Kozak」「Timelineの東」が特に好き、と言いつつ特にも何も半分書いていやがるね。「Timelineの東」のある箇所には色気とサービス精神を感じた。今更な話であるが、美しい声だなぁ。

ヒラサワの作るやわらかな印象の曲も大好きだが、そろそろ、久しぶりにこういうものを欲しい、と思ってたことを強く実感させられる。無意識の欲求が満たされる喜びが心地良い。最近のヒラサワはちょっと好みとずれるんだよな、と感じている人にも聴いて欲しい。その上で「いややっぱ違うわ」と思うかもしれないが、それもまた、ということで。



日記録1杯, アルバム感想, 日常, 筋肉少女帯

筋肉少女帯のセルフカバーベストアルバム「4半世紀」を買ってきて、余韻に浸っている。想像を超える格好良さだった。過剰さに過剰を重ねた装飾美。しかし内容はシンプルだ。ライブで演奏することを前提にしているのか、はたまたライブ演奏をコンセプトにしているのか、筋少メンバーとサポートメンバーの楽器と声だけで曲が構成されている。オリジナルの「機械」にあった鐘の音は無く、「日本印度化計画」のシタール演奏はギターで再現されている。コーラスも女性のゲストは無い。そのせいか今までのアルバムではあまり前面に出てくることが無かったベースの音がかなり存在感を放っているのが印象的だ。

オーケンの歌も素晴らしい。正直な話、驚いた。失礼ながらこんなに表現力のあるボーカルだったか、と思わされたほどだ。アルバムを聴く前に読んだ雑誌のインタビューで「4半世紀」にはキーを半音下げた曲もある、とオーケンは語っていた。そのときはやや残念に思ったが、下げたことにより今のオーケンの持つ歌声の魅力が発揮され、当時のオーケンは持っていなかった歌い方によって、その曲の新たな魅力が引き出されている。年を重ねて変化することにより、別の味が生まれている。そうだ、年を重ねることは悪いことでは無いんだ。肉体は徐々に衰えるが、同時に技術と経験は積み重ねられていく。若い頃には持っていなかった色彩を披露することが可能になるのだ。

「自分達はここまで出来るんだぜ?」と見せ付けるようなアルバム。齢五十を目前にしたロックバンドの全力を見た。そのうえで、「まだまだ行けるんだろう?」と思わせてくれるのが嬉しい。きっとライブではさらにあっと驚くようなパフォーマンスを見せてくれるに違いないのだ。