夢見る人間モドキによる筋肉少女帯ニューアルバム「ザ・シサ」の視差

2018年11月11日(日) 緑茶カウント:0杯

筋肉少女帯の新譜を聴いて、こんなにも辛く、悲しく、感情が揺さぶられたのは初めてだった。そして思い出したのは、前作「Future!」を聴いて大きなショックを受けた人達がいたこと。そのショックの由縁を未だ己は知り得ないが、「ザ・シサ」にショックを受けている自分自身に対しては、その理由を紐解くことができている。

かつて、こんなにも愛や恋に駆られる人々が熱心に描かれ、愛や恋がポイントとして語られることがあっただろうか。いや、無い。だからショックだったのだ。「きらめき」の「愛など存在はしない、この恋もどうせ終わるさ」という歌詞に、愛は万能ではなく日常の一つであると感じ取って安心感を抱いていた故に。だから悲しかったのだ。恋愛に対してどこかシニカルな態度を見せてきた筋肉少女帯が、恋愛を至上のものとして描いたことが。

よって、この「ザ・シサ」というアルバムは己にとって難解で、理解したくても理解できないものだった。そして同時に苦しかった。恋愛の本質は理解できなくても、その人が嬉しそうなら嬉しい、悲しそうなら悲しいと理解して生きてきて、それで何とかなっていたのに、本質に共感できないことを突きつけられてしまったような気がして。

苦しかった。どうかどうか愛や恋を語らない曲が出てきてくれとざわざわしながら歌詞カードをめくり、「セレブレーションの視差」で、ここでも激しい恋がポイントとして描かれてたときの絶望感。歌詞を辿りながら、これならわかるかな、近づけるかな、と思いきや。

……遠かった。

聴き終わった直後は呆然として軽く吐き気すら感じた。びっくりするほど、わからなかった。難解だった。そして、ごく普通に世の中に溶け込んで暮らしていたつもりが、このアルバムによって見事に化けの皮が剥がされた心地がした。

何故今、愛や恋に駆られている人々が密に描かれているのだろう? 好きすぎて人を殺す人もいるだろうが、別の理由で殺す場合もいくらでもあるだろうに、何故好きすぎて人を殺した人が描かれているのだろう? どうして、こんなに愛や愛する人々が重視されているのだろう? 考えれば考えるほどわからなく、寂しく、悲しかった。頭がぐらぐらした。前作「Future!」の「告白」という一曲に救いを感じた人間だけに。

だが、「告白」をきっかけに「ザ・シサ」を自分なりに解釈することができた。よってここから先の文章は「告白」で言うところの「夢見る人間モドキ」による「ザ・シサ」の視差である。きっと他の人々にはまた別の感想、別の視差があるだろう。一つの視差として、ご覧いただきたい。

「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」というシリアスな問いに似つかわしくない、明るくポップな曲。この曲を最初聴いたとき、愛が殺人の理由として描かれることに違和感を抱いたが、聴き続けるうちにふと気付いた。

この黒いスーツを買いに行く男は、「告白」の男なのではなかろうか、と。

夢見る人間モドキである男は、誰も愛しておらず、愛の意味もわからない。ただ愛情とは永遠のものらしいとぼんやり理解している。そして彼は悲しい場面でも共感や同情ができない、ただ空気を読んで嘘の涙を流す配慮はある。

「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」と「人を殺しちゃいけないのはなぜか?」は同じようで意味合いが全く異なる問いだ。前者には「人を殺してはいけない」という前提条件がなく、殺人そのものに疑問を呈している。対して後者は「人を殺してはいけない」という前提条件がありつつ、そのうえでその理由に迫っている。

そう、この男は「人を殺してはいけない」とは特に思っていないのだ。そんな折、友達の女の子が恋人を殺してしまった。自分はピンと来ないが、世間的には人を殺してはいけないとされている。じゃあ、どうして彼女は殺してしまったのだろうか?

そうして考えて至った結論が「愛しすぎたから」。彼は愛の本質を理解できないまでも、愛は永遠であり、至上のものと語られていることは知っている。だから、愛がそれほどすごいものなら、愛しすぎた結果殺してしまったに違いないと考え、愛のための殺人なら許されるに違いないと思い、ちゃんとした服を買って証人として立ったのである。

このとき彼は「感傷的」と言われたが、きっと感傷になぞ全く浸っていなかったに違いない。「同情はしないけどくやしいな」という言葉には、夢見る人間モドキとしての愛がわからないからこそのあっけらかんとした憧れが見える。店員との会話でさらっと友人が彼氏を殺したことを語り、普通の人を装って「ダメっすよね」と語るも店員はきっと引きつった笑みを浮かべていただろう。そして極めつけの台詞は「人が殺されるとめんどくさい」。葬式に行く必要があるということは、殺された男も友人か知人だろうに、そこに対しての感傷はなくただただ黒いスーツを買いに行くことに対して面倒臭さを感じているだけなのだ。

恐らく、思う。彼女の殺人は愛が原因ではなかったのではないか。単に夢見る人間モドキの男がそう解釈しただけで、本当の理由は別のところにあったのではないか。

そんな彼が彼女に宛てた手紙には何が書かれているだろう。「君のことがうらやましいと思いました」と無邪気に綴られているかもしれない。

そして「夢見る人間モドキ」の視点に立って眺めてみれば、「ザ・シサ」は恋愛をポイントとして「人間」が描かれているアルバムと言えるだろう。必死で歌い叫び身代わりを立てようとするも、娘が恋に堕ちてしまったせいで逃げられてしまい、覚悟を決めて歌い続ける男、片想いのために地球を二度も滅亡させる男、妻と死別する老いた男、帰って来た美女の暴露に怯える男、そして一つのバンドのボーカルに恋をした母娘の物語。

「夢見る人間モドキ」にとって理解できない象徴のような一曲が「衝撃のアウトサイダー・アート」だ。これは自分自身、何度聴いても何も理解できない。唯一感じ取れるのは曲調が格好良いということだけで、びっくりするほど共感のしようがなく、何が描かれているのかもよくわからない。クレイジーな美って何だ……? いったいそれが、だからどうした……?

恐らく己は一生、この曲を感覚として捉えることはできないのだろう。

もう一つ、物語としては理解できるが感覚としてわからないのが「マリリン・モンロー・リターンズ」。そうか、ふむ、そんなに怖いのか……? と思いつつ、いまいちピンと来ない。同時に興味を覚える。この曲に芯からゾッとする人の存在に。

「ネクスト・ジェネレーション」は初めてライブで聴いたときには「若いファンに手を出すのはやめなさい!」と曲中のバンドマンに対して思ったものだが、重ねて聴くにつれ切なさの方が勝るようになった。

「ライブだけが人生で、他はみんな夢なんだ」と付き合っていたバンドマンが語る言葉を聞いて、呆れて捨ててしまったと母親は娘に語る。確かに、交際を続けている中で言われてしまえば冷めてしまうのも無理はない。

だがこの言葉は、ステージで叫ばれていた頃には、「彼氏」ではなく「ステージ上のボーカリスト」が発する言葉であったなら、きっと胸をときめかせるものだったに違いないのだ。

バンドマンである男は恐らく何も変わっていない。ただ、関係性の変化により見え方が変わってしまったのだ。そして、同じことが娘にも起こることが示唆されている。今付き合っていて、仲良しで、いい人で、でもバカ。この言葉が出てきてしまった時点で彼女にとってバンドマンはもうステージ上の存在ではなく、現実の視点から捉える存在になってしまっているのだ。

ライブだけを人生にステージに立ち続けるも、ファンと付き合うたびに現実を見せてしまい、別れを告げられる男のもの悲しさ。この女の子もかつてと同じように夢を語る彼に愛想をつかせ、異なる対象に心を燃え上がらせたとき、ずっと夢中になっていたバンドが、まるで別の人々とすっかり入れ替わってしまったような、そんな感覚を抱くかもしれない。

と、真面目に語りつつ、女の子の年齢が気になる。せめて高校生、できたら大学生であって欲しい。でも何となく中学生の可能性もあってざわざわする。頼むからお茶おごって映画連れてく程度のお付き合いであってほしい。頼む! 頼む!!

といった形で己にとって「ザ・シサ」は全体的に心がざわざわするアルバムなのだが、そんな中で「ゾンビリバー」「オカルト」「ケンジのズンドコ節」は癒しである。ありがたい。「ゾンビリバー」の「流れていったあの娘はひととき好きだった かまうな他にもきっと出会うさ」という歌詞には「そうそう、これこれ! これだよ!」と妙に安心してしまった。

「オカルト」は恋愛云々と言うよりも、個人の欲望を優先させて地球を滅亡させた物語なのでわかりやすかった。それにしても「献杯!」という言葉を歌詞に突っ込んでくる悪意よ。「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」の「人が殺されるとめんどくさい」もそうだが、じわっと滲む悪意が恐ろしいアルバムである。

「ケンヂのズンドコ節」は、まさか「猫のテブクロ再現ライブ」で語られた「悪陰謀」「いい陰謀」が今になって歌詞に描かれるとは思わず驚いた。ストレートな説教くささもありつつ天使の描写が実にダークでゾッとする。オーケンの描く天使はどうしてどいつもこいつも恐ろしいのか。声もあいまって非常に怖い。

インストゥルメンタルの「セレブレーション」から続く二曲目は「I,頭屋」。頭屋とは神社の祭礼や講に際し、神事や行事を主催する役に当たった人や家のことで、輪番制だったそうである。その頭屋に自身をなぞらえ、これが自身の役割であり運命であると言い切る。描かれる描写にはロックバンドのボーカリストとして歌い続ける疲れが見え、同時にそれでも歌い続ける覚悟が感じられ、オーケンにとっての筋肉少女帯の価値と、筋肉少女帯で歌い続ける自分自身への叱咤激励が読み取れる。見方を変えれば生け贄であり、人身御供であり、道化だが、「役割」であり「運命」である視差を選び取る力強さ。

オーケンはよく、自分がこうしてロックバンドのボーカルをしていることを不思議に思うと語る。それは、ロックバンドのボーカリストとして生き続けることへの不安もあるのかもしれない。そのうえで歌い続けると叫ぶ覚悟の先には何があるだろう。夢見る人間モドキとして「ザ・シサ」を楽しみながら、次はどこへ転がっていくのか期待したい。

怖さを抱きつつ、同時に楽しみだ。どこまでも必ず、見届けよう。



筋肉少女帯「Future!」感想