2015年3月6日(金) 緑茶カウント:0杯
とある音楽グループがライブ中、MCで料亭を揶揄し炎上した事件について、ここ最近もやもやと考えていたことがあったのでまとめてみようと思う。ちなみに自分はそのグループ名こそ知っているものの、どういう音楽をしている人達なのかはこの事件を知るまでよく知らなかった人間である。
まずこの炎上事件を簡単にまとめると以下のようになる。とはいえ、己はその場にいたのではなく、ネット上に広がる話を見ただけなので、すべては伝聞情報でしか無いのだが。
一、 ある音楽グループがライブの前日宿泊した料亭について、ハタハタが少なかったなど、出された食事の内容についてMCで話し、不満を漏らす。
二、 グループのファンが件の料亭に赴きMCの内容を報告する。
三、 女将さんの娘さんが、MCの内容を知って母がショックを受けていて悲しいとツイート。また、料理の量が少なかったのはイベンターからの「予算の都合上ハタハタを一匹にしてほしい」という指示を受けてのもので、通常は二匹出していると事実を明らかに。ほか、要望を受けて心を尽くしたサービスをしたことも語られる。
四、 ツイートが拡散され、炎上。
さてこの事件。個人的に、一番悪いのはファンの行動だよなぁ、と思う。自戒もこめて。
特にその音楽グループを擁護する気は無いのだが、閉ざされた空間でする「ここだけの話」というものはある。多分その話はテレビカメラの前では語られなかったことだろう。料亭に知られないという前提があったからこそのものだろうと想像する。いや彼らがどういう性格か己は全く知らんのだけど。
無論「ここだけの話」にも質の良し悪しはあるのだが、それはひとまず置いておいて。この「ここだけの話」が語られる空間は色々ある。例えばライブハウスであったり深夜番組であったりラジオであったり。観る人聴く人が限られるので、ちょっと普段は語られない、場合によっては刺激的だったり、不謹慎だったりするものが披露される。それは話し手の「この場でなら大丈夫だろう」という信頼あってのものである。わざわざここに来てこれを見聞きする人達なら、眉根をひそめることなどせず、ニヤリと楽しんでくれるだろうと。
ところが、その「ここだけの話」がテイクアウトされて、バーッと日の光の当たるところで披露されて共有されることが近年は多々あるのだ。ブログやTwitterなどにより、その場に来ていないファンだけでなく、ファンでも何でも無い人にまで知られてしまうことさえあるのだ。
そしてまた自分も、その一端を担っている人間である。困ったことに。
ライブに行った感動と興奮を誰かと分かち合いたい、こんなに楽しいことがあったよと知って欲しい、この人はこんなに面白いんだぜすごいんだぜ格好良いんだぜと伝えたい、あわよくばこれを読んで興味を持った人にライブハウスへ足を運んで欲しい、そんな思いによるものだ。あとは、興奮を整理しないと落ち着かないためでもある。それらの思いのたけをぶつけ、昇華するためにTwitterを利用したり、ここの日記で感想を綴ったりしている。
それは全て好意によるファン行動であり、わざわざ料亭に突撃するような悪意は欠片も存在しないが、好意によるファンの行動も「ここだけの話を語る場所」を狭めていることを感じている。
もちろん感想を書く際は気をつけている。例えばMCに他者の名前が出てきたときは表現の仕方も慎重になり、書かない選択をすることもある。どこで回りまわって関係者の目に入るかわからないからだ。「ネットに書かないでね」と前置きされた話も書かない。また、「●●さんが×××××××××××××××と言った」とは、よっぽど記憶に自信がある言葉で無い限りは、文章中で言い切らないようにしている。ライブでのトークはその場で書き留めたものではなく、全て記憶の中にしか無いので、脳内で編集されている可能性が高いためだ。
しかしそれでも起こるのだ。これは自分が実際に経験したことである。Aさんのライブに行ったとき、Aさんがあることを叫んだ。仮にそれを「私はメロンが大好きなんだー! 毎日メロンを食べたいんだー! わー! メロンのためなら死んでもいいマジで! アイラブユー!」というものだったとしよう。これを聞いた自分は、「Aさんはメロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛しているという内容の言葉を叫んでいた」と日記に書いたとする。
すると後日、Aさんが出演したライブハウスのライブレポートで「Aさんは『メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!』とシャウトした」と書かれたのである。他にも文章中には書き覚えのある文言が。思いっきり日記の一部をコピペされたうえ、バッサバッサと編集されたのである。
細かい話だが、Aさんは「私はメロンが大好きなんだー! 毎日メロンを食べたいんだー! わー! メロンのためなら死んでもいいマジで! アイラブユー!」と叫んだのであって、「メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!」とは叫んでいないのである。ところがこの間違った情報が半公式のライブレポートとして公開されてしまったため、一部のファンの間であったが、「メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!」というシャウトをAさんがしたと思われてしまったのである。Aさん、そんなこと叫んでないのに。
注意を払ったつもりであったが、結果的に事実と異なることが広まってしまったため血の気が引く思いがした。
意図したものと違う受け取り方をされて、それが拡散される。このとき、例え自分が「この人はこれこれこういう話をしていたよ」とあくまでも内容を要約・編集して伝えたつもりであっても、そのように受け取られない可能性があることを思い知った。また別のとき、「Bさんは嬉しそうに笑っているように見えた」と、あくまでも己の主観を書いたつもりが「Bさんは嬉しかった」と事実として受け取られることがあることも知った。そして自分自身も誰かのライブレポートを読むとき、あくまでもそれは他者の記憶と主観によって書かれたものであるのに、あたかも事実のように受け取ってしまうことがあると気が付いた。
それはライブの模様を伝えたライブレポートだけに限らない。ステージ上の人々が語る話もそうである。それはあくまでも彼らの主観であり、彼らの解釈を通して発信されているのだ。事実である場合もあるが、事実で無い場合もある。面白味を出すために話を盛ることもあるだろう。あえて、ちょっと嘘を交えることもあるかもしれない。そちらの方が面白い場合には。
そんな「ここだけの話」は、拡散されて問題が無いものもあればあるものもある。そしてまた、ミュージシャン達も「ここだけの話」が「ここだけ」に留まらなくなってきていることに気付いていて、中には狭まれた空間やアンダーグラウンドが消失しかけていることに言及している人もいる。それじゃつまらないよと言う人もいる。自分もそう思う。
ファンの行動がミュージシャンの活動範囲を狭めたり、自由度を奪うのはよろしくない。だったらライブの感想なんぞ公開したい方が良い。いや、本当に何も書かないのが一番なんじゃないかと思うことさえある。しかしそれでは極端だ。感想を書くことそれ自体が悪では無い。
ではどうすれば良いかと考えると、節度を守る、平凡だがこれに尽きるのだ。ありのままに思いのままに書き綴るのではなく自分の心にルールを持って、これを書いたらどんな影響があるかをいちいち考えることが必要だ。そして完璧な閉鎖空間でないとわかっていても、安心して信頼して「ここだけの話」を語れる空気を作れるよう、意識するしか無いのだろうなぁと思うのである。
気をつけよう。自戒をこめて。