日記録0杯, 日常

2017年7月15日(土) 緑茶カウント:0杯

「プレミアムモルツ」「銀河高原ビール」「よなよなエール」「水曜日のネコ」「グランドキリンJPL」「東京に乾杯」「COEDO-瑠璃-」「オリオンビール」「華みやび」「東京クラフト」を買って、一人ビール祭りを楽しもうとしたのさ。

その夜に友人と長電話をし、結局翌日の朝に祭りの開催を決行したのである。友人はSNSで元気がなく、どうしたのかと尋ねたら家族二人の暮らしが家族三人の暮らしに変化し、ただでさえ家族二人の生活に無理を感じていた性格上、その後の暮らしに不安を抱いていたようで、その話を聞きつつ馬鹿話に興じたのであった。

子供が生まれた友人複数人から聞くには、生まれてすぐは父親の自覚が持てないとのことで、故に罪悪感を抱いているらしい。つまり、父親になったばかりで、母親が里帰りをして子育てをしている最中、まだ父親らしさを気付く時間もないままに父親らしさを求められ、とはいえ実感の抱きようもなく苦悩するらしい。なるほどそれは大変だなぁと思いつつ、部外者の己は話を聞いた。

ちょうどそのとき風呂に入る直前であったため、四十分間衣服を身に付けずに会話に興じていたと思うと滑稽である。そして電話を終え、風呂から上がり、部屋着を身にまといビールをニ缶呑んで歯を磨いて就寝し、昼から楽しいビール祭りをゆるゆると開催する土曜日。おかずとつまみを腹に入れ、日が沈み、爽やかな風が流れる土曜の昼から夜へと至る。ただただ平穏を感じるのであった。



日記録0杯, 日常, 漫画

2017年7月13日(木) 緑茶カウント:0杯

四十年ぶりに描かれた「ポーの一族」を傍らに置き、めくるページは角が丸くなった文庫本。四十年前に発表され、何度も読み返したそれをパラパラとめくりながら、時にじっくりと物語に耽り、思い出を反芻して世界に浸る。「わたしのことなぞ忘れたろうね」「覚えているよ 魔法使い」のやりとりは何度見てもこみ上げるものがある。

まさか新作が出ようとは夢にも思わなかった作品の新たなページに、物語。しかし買ったもののページを開かず、つい書棚に手を伸ばしてしまったのは、読みたい気持ちと半々に混ざるものの由縁だろうか。「ポーの一族」を教えてくれた人は新作の発表を知らずにこの世を去った。読むことで生まれる死者との相違が怖いのか、寂しいのか。死者の時間が進まないことを認識させられるのが悲しいのか。それとも、四十年を越えて動き出す物語の行く末が不安なのか。

時が止まった少年達の物語。描く筆致には四十年の歳月が滲み、表紙には流れる時と流れない時が同じように横たわっている。

もう少し経てば開けるだろう。それまではしばらく、このままで。



日記録0杯, 日常

2017年7月8日(土) 緑茶カウント:0杯

部屋の真ん中で仰向けになり、堂々と死ぬゴキブリの遺骸。それはむしろ、知らない誰かがこっそり部屋に入って、ポトリとイタズラを仕掛けたと考えた方がよっぽど自然な光景で、故に翌日も翌々日も、帰宅するなり恐々と、遺骸の所在を確かめた。

ポトリと一つ、ある遺骸。

翌日も翌々日もその次の日も四日目も、同じ場所に同じように、ゴキブリが仰向けになって死んでいる。最早誰かによる作為を信じずにはいられぬ状況がそこにあり、つまりそれは一人暮らしの我が家に、誰かが悪意を持って無断で入り込んでいる気色の悪い事実がそこに、と恐ろしい想像をしながら家路を辿り、今現在は他者の気配は何もなく、ゴキブリの遺骸も以来見かけることもなく、平和な日々を過ごしていて、電灯を点けるたびにほっと一息ついている。

パーソナルスペースは多少広い自覚があるが、部屋に誰か見知らぬ人が入るのは誰だって嫌だろう。特に来客など滅多にない我が家では、年に一度か二年に一度ある、業者の点検すら、本心を言えばご遠慮願いたい。そもそも四人家族で暮らしていて、自分以外の足跡も色濃い実家ではたまの来客も違和感がなかったが、今の家は本当に自分一人しかいないため、他者の存在に大きな違和感と抵抗感を抱くのである。

それはきっと、自分の色合いが強すぎるせいかもしれない。一人暮らしであれば、床に落ちる髪もゴミも全て根源は明確で、部屋にある本やポスター、干された衣服の持ち主も明確で、他者の想像をする余地がない。対して家族で住んでいると、落ちている髪もゴミも誰のものかと断定できず、本もポスターも家族の誰かの趣味としか思われない。自分が若干曖昧になるのである。ところが一人暮らしの場合、トイレが汚れていれば百パーセント掃除を怠った人間を特定できて、あらゆる趣味も全て個人のものと断定される。それこそが抵抗感の根源に違いないと思う。

そしてまた、ゴキブリが出る原因も己のせいだと責められているような気分になり、いやいやだいたいここは古い木造建築の一室だし、と思うも掃除が苦手で収集癖のある自分、自覚するところもないではなく、またまたホウ酸団子の新調を検討するのであった。



日記録0杯, 日常

2017年7月5日(水) 緑茶カウント:0杯

それはむしろ、知らない誰かがこっそり部屋に入って、ポトリとイタズラを仕掛けたと考えた方がよっぽど自然な光景だった。

部屋の真ん中でゴキブリの成虫が仰向けになって死んでいた。

時刻は二十三時頃。あー疲れた疲れた早く夕飯を食べて休むとしよう、とコンビニエンスストアーで買ってきたナポリタンを提げ、暗闇の中手探りで玄関の鍵を開けて中に入り、数歩程度の台所を抜けて居間であり寝室でありリフレッシュスペースであり作業部屋である、いくつもの要素を兼ね備えたハイブリッドな六畳間に足を踏み入れ電灯をつけたら、此はいかなる凶事ぞ。部屋の真ん中でゴキブリの成虫が仰向けになって死んでいて、その姿を見止めた己はナポリタンを揺らしながら大きくたたらを踏んだのだった。

彼か彼女かわからぬそれはピクリとも動かない。天井を見上げるも何もない。何も見当たらないそこで仰向けになって死んでいる。動きもしないゴキブリがこんなに堂々と落ちている様を見るのは初めてで、生きたゴキブリを見たとき以上の衝撃と驚きを己は感じた。外傷はない。恐らく部屋中に仕掛けているホウ酸団子の影響と考えられるが、それにしたってこんなに堂々と死体を晒しているとびっくりしてしまう。君よ、何故そこを死に場所に選んだ。いや、選択肢すら持ち得なかったのか。

ホウ酸団子を食べたゴキブリは脱水症状を起こし、水を求めて外へ出て行くと言う。このゴキブリも咽喉の渇きに耐えかねて水場へと向かう途上で力尽きたのかもしれない。するとそこに無念さを感じずにはいられないが、何もここで死ななくっても良いじゃあないかと思うのも性であり、今日この日に呑み会がなかったこと、酔っ払って帰る自分がいなかったことに感謝して、ゴミに出す予定で置いていた古いタオルで彼を包んで捨てたのであった。酔ってたらどうなっていたかって? そりゃあもちろん、足をしっかり洗うはめになっただろうよ。



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2017年6月25日(日) 緑茶カウント:0杯

好きだった店があった。そこは朝方まで営業しているこじんまりとしたイタリアン。カウンター四席に、テーブル席が一つだけ。手作りのピクルスに、原木から切り出す生ハム、チーズの盛り合わせ、釜焼きのピザ。ピザは八百円で、つまみをちょこちょこ食べた後に一人で食べるのにちょうど良い大きさ。ここに深夜、ふらりと入るのが好きだった。

しかしだんだんと色合いが変わっていった。カウンターの目の前のコーヒーメーカーに埃が積もり、ガチャガチャか何かで引いたらしいフィギュアが無造作に置かれ、凝った食器は簡易な丸皿に替えられた。以来、少しずつ足が遠のいていたのだが、昼間に道端で店主に偶然出会ったことをきっかけに、久しぶりに店に入ってみたのだった。そしてその日の帰り道、きっと自分は二度とここに来ないだろうことを悟ったのであった。

そこはとても好きな店だったが、最早過去形なのである。
内装は変わらず、店主も同じその人。しかし看板が挿げ替えられていたのだ。

カウンター席に座って真新しいメニューを開く。そこには手作りピクルスも生ハムもチーズ盛り合わせもなかった。前菜もメインも千二百円ほどの価格で、ちまちまつまめるものは一つもない。千二百円のサラダであれば結構な量と類推できる。一人で食べればサラダ一つで満腹してしまう場合もあるだろう。仕方なしに釜焼きピザが焼けるのを待ちながら、ちびちびと何もつままずビールを呑んだ。

八百円のピザは千二百円のピザになっていた。さもありなん、あぁ、何と巨大なピザよ!

カウンター四席に、テーブル席が一つ。一人でふらりと入るのにちょうど良い空間だったのに、すっかり変わってしまった中身。ここは一人客が多い店で、この日も二人先客がいて、二人ともそれぞれバラバラに一人で来たようだった。彼らは何を食べて呑んだのかはわからない。

この店は今後どのように変わっていくのだろう。わからないが、知る由もない。一つわかることは、己の好きな場所はとっくの昔になくなっていたということだった。