日記録2杯, 日常, 非日常

2014年11月10日(月) 緑茶カウント:2杯

十一月一日に、母が永眠しました。
奇しくもその日は母の誕生日で、時刻は明け方の五時。
十一月一日の明け方に生を受け、明け方にこの世を去った母の名前をここに記すことは出来ませんが、母を知る人であれば、名前の通りの人だったねと、きっと納得してくれるでしょう。

六年前に乳がんが発覚しました。がんはかなり進行し、リンパにまで転移していました。
手術は成功し、一度は安心したものの、抗がん剤治療は続きました。
治療中、髪の毛が抜けたり、味覚が変化したりと苦難が続きましたが、母は元気でした。
歩くのが大好きで、時間さえあればどこまでもどこまでも歩いて行ける人でした。
だから、治療は続いても、母はきっと大丈夫だと、信じきっていたのです。
与えられた時間が六年間とは夢にも思わず、
十年、二十年、一緒にいられると思い込んでいたのです。




八月に実家に帰省すると母の元気が無かった。皮膚に転移したがんが進行した影響も大きいが、それ以上にリンパを切除したためにむくんでしまった左腕が重く痛そうだった。右腕の三倍まで膨れ、重い左腕を支えるために、背を屈めて右腕で抱くように支えていた。声にもハリが無くなっていた。

九月に体調を崩して入院をした。一週間ほどで退院したが、歩き回る元気が無いようで、退院後十日も家から一歩も出ていないと聞かされたときには心底驚き、胸騒ぎを覚えた。普段、盆と正月とゴールデンウィークにしか実家には帰省しないが、十一月の母の誕生日には帰省することを決め、プレゼントに何が欲しいか聞いた。

伝聞が多いのはメールと電話でやりとりをしていたためだ。

十月中旬に、父が母のために階段とトイレに手すりをつけてくれた、と母が嬉しそうにメールを送ってくれた。いよいよ心配になり、父にスカイプの登録をしてもらい、テレビ電話で様子を見ることにした。画面越しに見る母は予想よりは元気そうに見えてほっとしたが、後から聞いたところによると、この時点で既に立ち上がれなくなっていたらしい。このスカイプが母と会話を交わした最後で、話題は誕生日プレゼントのリクエストと、よりにもよって津軽三十人殺しだった。

誕生日プレゼントのリクエストは綿百パーセントのパジャマ。百貨店に走り、ワコールの上等なパジャマを手に入れたが、着てもらうことは出来なかった。

このスカイプのたった数日後に母は入院した。がんの痛みを抑えるための薬が強く、頭が朦朧としてしまうため、自宅に一人でいることは危険であること、体力が低下したため抗がん剤治療が出来なくなったため、何よりもまず体力を回復しなければならない、この二つの理由のためだ。その日から己は毎日三回、朝昼夜に母にメールを送ったが、母がメールの長文を読むのもつらいほど、体力が無くなってしまっていたと言う。返信は無かった。

週末は破天荒な友人の結婚式だった。迷ったが、母が結婚式の感想を求めていたこともあり、出席した。何より、母はきっと回復すると信じていたのだ。そして結婚式の翌週は母の誕生日。プレゼントのパジャマを持って病院に駆けつけられる。やっと母に会える。早く会いたい。強く願っていた。

この頃、母の病状が心配で眠るに眠れず、食欲も無かった。しかし食べずに体調を壊して会えなくなっては元も子も無いので、宅配ピザを注文して無理矢理食べたり、結婚式の引き出物のバウムクーヘンを丸齧りするなどして、栄養を摂っていた。

あと一日で会えると思っていた十月三十一日の昼。父から電話があった。自分は外にいた。母の容態が急変したと言う。自分はプレゼントも持たず、新幹線に乗り、タクシーを使って病院に直行した。焦る余り面会申請書を書き間違えたが看護士は病室へと誘導してくれた。

母は目を瞑り、必死で呼吸だけをしていた。

会話は出来なかった。妹と、遠方の親族も駆けつけてきてくれた。祖父母と伯母達みんなが泣いていた。父は悲しみをこらえていた。

その日父が病室に泊まり、祖父母と伯母達は病院の近くのホテルに泊まり、自分と妹は実家に帰った。そして朝の五時に携帯電話の音で目を覚まし、母の呼吸が止まったと報せを受けた。玄関を出たときは真っ暗だった空がだんだんと明けていくのがタクシーの窓から見えた。病室に到着すると父と祖父母と伯母が揃っていた。母はまだ温かかったが、手を握っても握り返してはくれなかった。

このとき、妻を亡くした人と、母を亡くした人と、子を亡くした人と、姉を亡くした人を同時に見て、自分もその中の一人であることに現実感を得られず、ただただ悲しくて、あぁ、六年間もあったのに、自分は何も出来なかったと悔やみ、泣き疲れて、疲れた。



葬儀が終わり、お骨になった母と実家に帰ってからは、母の書棚にある本を読んで過ごしていた。本の中で紹介された別の本のタイトルに直感が働き、きっとこれは母が読んだに違いないと思い、書棚を漁ると該当の本が出てきて嬉しかったが、それを語る人はいなくなっていた。このときになって、自分は、趣味を語り合える人を亡くしたことを思い知らされた。面白い箇所を見つけ、普段であればそのおかしみを共有出来る人がいなくなってしまったのだ。

あぁ。年老いた両親が、白髪になっても仲睦まじく、二人で台所に立ったり、映画に行ったり、散歩をしたりする後姿を眺めていたかった。

通夜ぶるまいで、父とともに記憶をなくすまで呑み、お骨とともに日常に立ち返った気でいたが、その実呆然とし続けていただけかもしれない。喪失感と悲しみが表れては落ち着き、波のように繰り返され、どうにもまだ現実を受け止め切れていない。

生きて行くのは大変だと、思いながら生きている。
ただ。がんの痛みからようやく解放された母を、どうにか己は、祝いたい。



日記録2杯, 日常

2014年10月27日(月) 緑茶カウント:2杯

金曜は筋少のインストアイベントに参加し、土日は友人と喋り倒してきて、中身の無い話やくだらない話で盛り上がり、久しぶりにスカッとした。体はくたくたに疲れたが、少しバランスが保たれた気がする。

そして今夜は緑茶を飲んでほっと一息。あとは買ってきたばかりのドリフターズを布団で読んで、今日は早めに寝るとしよう。



日記録2杯, 日常

2014年10月20日(月) 緑茶カウント:2杯

あぁ、ここも無くなってしまった。

きっかけは色々だ。受験、卒業、就職、転職、結婚、出産、子育て、もしくは、SNSへの移行。ずっと見ていた個人サイトが閉鎖されたり、更新が止まってしまうのを見ては寂しさを感じる。あんなに賑わっていた掲示板に誰もいない。毎日のように更新されていたのにトップページには広告しか見えない。あの人達はどこに行ったのだろう。その行方を追うことは難しい。

個人サイトの寂しいところは、本と違って手元に残すことが難しい点である。何年も後にページを開いて懐かしむことが出来ない。消えてしまったらそれまでで、読み返す機会は得られない。もう一度見たい感想文や評論文、漫画、小説、絵の数々。見られなくなったものはいくつもある。

そんな中で十年以上、受験期こそ休んでいたものの、毎日のように日記を書き続けている自分は何なのだろうと思うこともあり、消えてしまった個人サイト達から取り残されてしまったような錯覚さえ感じることもあるが、十年後や二十年後も、「そういえばあのサイトってまだあるのかな」と検索した人が「うわーまだあったよまだ日記書いてるよ」と思って、呆れつつも少し懐かしんでくれるようなものになりたいなぁ、と思いながら、今日の日記を書いているのである。



日記録2杯, 日常

2014年10月15日(水) 緑茶カウント:2杯

わりと髪が短いため散髪のサイクルも比例して短く、己の場合は月に一度、もしくは一ヶ月半に一度の頻度で出向いている。長髪であれば一センチ二センチ伸びたところでさして目立たないだろうが、短いと途端に鬱陶しくなるゆえ仕方が無い。まぁ、それは毛量が多く髪が太く固いせいでもある。放置すればすぐに草ぼうぼうの荒地のようになるのだから困ったものだ。

その荒地を制御するため、ではないのだが、自分は常にハードジェルで髪を固めて少し立てている。ちなみに散髪直後もジェルを使わないと髪がまとまらないので、切ろうがどうしようが結局ジェルは必需品である。

そんなわけで毎日使っているジェルだが、散髪の直後はその使用量を間違えることが多々ある。たかだか一センチ二センチの違いが意外と大きく、伸びるにつれ徐々に使用量が増えているのだが、毎朝のことなのでいちいち気付かず、切った翌日に出しすぎて「しまった!」と声が出るのだ。

そして面倒くさいからと言って出しすぎたジェルをそのまま全部つけると頭がべっとべとになり、なかなか乾かず、やっと乾いたと思えばガッチガチになるのだが、だいたい月に一度はそのような状態で外を歩いていて、我ながら改めろと思いつつそのまま生きている。



日記録2杯, 日常, 筋肉少女帯

2014年10月8日(水) 緑茶カウント:2杯

筋肉少女帯の「THE SHOW MUST GO ON」を聴いている。まだ聴きこんでいないものの、繰り返し聴く中で一つ発見があった。

一周目に聴いてすんなりとツボにはまったのは「労働讃歌」「ゾロ目」「霊媒少女キャリー」「恋の蜜蜂飛行」。オーケンの歌い方で言うと、「労働讃歌」「ゾロ目」あたりの、耳慣れた歌声と叫ぶ調子がとても好きで、それでいて暑苦しいコーラスが入り、スピード感があり、ギターとピアノが激しい鍔迫り合いを演じる曲が好きなのだ。

しかし、二周目で己の心を掴んだのは「月に一度の天使(前編)(後編)」で、三周目に心が落ち着かなくなったのは「気もそぞろ」なのである。

「月に一度の天使(前編)」は、最初「香菜みたいだな」という感想を抱き、サラッと聴いただけだった。オーケンの妄想愛娘ブーム結構長いなー、程度にしか感じなかった。ところが「愛の讃歌」を経て「後編」を聴き、またぐるりと周って「前編」に戻ったとき、何とも言えない切なさに見舞われたのである。

成長した愛娘が身勝手な父親に愛想を尽かし、もう会わないと伝える。そこで「おこづかいあげるから」と引きとめようとするも叶わない。あぁ、引き止める台詞、そんなものしかないのかよ! という寂しさが! またきつい。それでいてリアルに感じるのだ。

前編の最後、「陽がくれたら」の後にあるのは「ラララ」で、もう「また来月」は無い。ガラケーを見つめる後姿が目に浮かぶ。そしてしょんぼりと曲は終わってしまうのだ。

ここから愛の讃歌を経るのが良い。時が経ち、後編に移行し、娘に会えなくなった父親は変わらず小さなライブハウスで歌う日々を続けているが、そこに奇跡のような変化が訪れるのだ。言ってしまえば都合が良い。かつて一方的に別れを告げた愛娘が父親の前に現れる。それも父親が教えた音楽や本を吸収して「また教えて」とやってくるのだ。頭の片隅で思う。こんなものは親父の妄想だと。ドリームだと。ファンタジーだと。しかし、この都合の良い展開が生じてくれて良かったと心から思うのだ! 奇跡をありがとう神様と、神に感謝を捧げたくなるのだ。

後編で特徴的なのはアコースティックギターの美しい調べだろう。シャンシャンと鈴のような音が降ってくるようで、暗いライブハウスで生きる父親の頭上に温かな光が降り注ぐのを表現しているようだ。

歌詞カードを見ていて先を知っているのに、愛娘がゆっくりと一言一言告白するごとに喜びが溢れ、泣きそうになる。前編だけでも物語として成立するが、後編に救いがあるからこそ前編が輝き、前編があるからこそ後編が響くのだ。現実ではこんなことはなかなか無いかもしれない。前編だけで物語が終わることなどいくらでもあるだろう。それを感じられるからこそ、後編の再会が嬉しいのだ。

そして「1234」からの親父の浮かれっぷりが微笑ましい。前編と後編で「ラララ」の意味が全く違う。前編は別れを、後半は溢れる喜び。この対比がたまらない。

「月に一度の天使」は前編後編が一曲にまとまっていたらまた印象が違っただろう。前後編に分かれた結果時間の経過と余韻が生じていて、前編の切なさも際立つのだ。

さて、もう一つ気になる「気もそぞろ」。こちらはまだきちんと聴きこめていないが、どうやらこちらもセンチメンタルな気分に陥ってしまうようで。明日またよくよく聴いてみよう。

ちなみに歌詞カードをじっくり見ても全然意味がわからんのは「吉原炎上」である。まず裏の意味があるのかただの言葉遊びなのかもよくわからないので、吉原について勉強しないといけないかもしれないと感じている。