日記録2杯, 日常

2014年3月24日(月) 緑茶カウント:2杯

この季節はいつも何を着れば良いかわからなくなってしまって困る。そして結局冬の装いのまま外に出て、人々とのギャップに悩むのだ。とはいえ夜になれば冷え、春服を着て外に出たことを後悔することもしばしばで、かといって夜に備えて上着を持ち歩くのは面倒くさい。しかし冬服では暑苦しい。

悩む。悩むが四月も目前だ。今週末あたり、春物を買っておきたいものだなぁ。



日記録1杯, 日常

2014年3月22日(土) 緑茶カウント:0杯

その人はこともなげに話していたが、聞いている自分は冷や汗が流れる、ほどではないものの、胸騒ぎを感じ、これは良くない質問をしてしまったか、と狼狽した。

質問の内容は単純だ。「どこか、観光するに適した神社を知らないか」。

さて。自分の宗教は何かと問うならば、それは神道である。しかし自分の宗教というよりも家の宗教と言う方が正しく、また、それはたまたまそうであったに過ぎず、普段ことさらに神道を意識することも無い。家が仏教の家であったならば自分はそれを自然に受け入れただろう。坊さんの世話になるか神主の世話になるか、その程度の違いにしかならない。

とはいえ無宗教かと言われればそれも違い、お天道様が見ているのだから悪いことはすべきでないとか、そんな程度の宗教的意識はあるにはあるが、さほど他者の宗教に対してどうこう言うことは無い。まぁ、神道はそもそも教典が無いので、ゆるいのだ。意識が。よって気が回らなかったのだ。ゆるくない意識を持つ人に対しての配慮が。

不味い話題を出してしまったな、と思った。「鳥居をくぐってはいけない」「おみくじを引いてはいけない」「自分とこの教祖様だけを信仰しなければならない」、したがって、神社については詳しくない。自分が知りたいのは最後の「詳しくない」の箇所だったが、印象に残ったのは頭のところだった。あぁ失敗した。己は失敗したのだよ。

日本は宗教に対してゆるいもの、という思い込みこそ間違いだったのだなぁ。知らぬ一面を垣間見て、まぁ、こんなこともあるかと思いつつ。神社や寺はただの観光名所ではないことを今更に思い知らされるのであった。



日記録0杯, 日常

2014年3月20日(木) 緑茶カウント:0杯

何故今になってそんなことを詰問されねばならぬのだ。酒豪の友人と杯を交し合う最中、会話の流れで軽く質問をされ、それに答えていたらいつの間にやら質問攻めをされ、それもなかなか厳しい気配。何だ何だ、何故今になって、そんなことにそんなにまで厳しい口調で問い詰められなければならないのだ。そして何故友人は、これこれこうであると説明したことを全く理解してくれないのか。

と、友人の妙な迫力に若干の恐怖を感じていたのだが、後になってわかった。友人は素面の顔で泥酔していたのである。顔を朱に染めず、口調も明瞭のまま、脳みそだけがとろけきっていたのだった。

店を出た後道端にうずくまる友人を介抱しつつ、顔に出ないのも難儀なものだと思いつつ、己も気をつけようと自戒した。



日記録1杯, 日常

2014年3月19日(水) 緑茶カウント:1杯

頭ではわかっているはずなのに、「春分」「秋分」の読みを、一瞬いつも迷ってしまうのは、わかっているつもりでわかっていないのかもしれない。結局。

金曜日は祝日だったんだなぁ。気付かなかったよ。



日記録0杯, 日常

2014年3月18日(火) 緑茶カウント:0杯

悪口を言われて怒るのは、図星を突かれた証拠である。真実で無ければ怒りは生じない。………と言った人がいたか、どこかで読んだか、その出所の記憶は曖昧だが、その理論から、怒りを真実の証拠として捉えるのは間違いである、と自分は考える。あまりにも見当外れなことを言われ、腸が煮えくり返る思いをした経験がある故に。

しかし自分は、当時、あんなに悔しく、情けなく、身の内で暴れ狂うような怒りを覚えたにも関わらず、言われた言葉を忘れ、言った人のこともすっかり忘れ、あの怒りさえも、記憶から掘り起こす時間を要するほど、記憶の彼方へ吹き飛ばしてしまっていた。

一年と少し前のこと。ある人から、あまりにも見当外れなことを上から目線で言われ、何一つ的を射ない説教染みたアドバイスをいただいた。そして自分は、「あぁ、この人はずっと、自分に対して憧れを抱いていると勘違いをし続けてきて、その結果の有様なのだな」と、その人の今までの行動の由縁を理解し、眩暈を覚え、脱力し、「誰もてめーになんか憧れてねーよ自分の目指す先にお前はいねーよそもそも一番なりたくねーよ阿呆か」という言葉が口から出かかるのをぐっと耐え、その場は耐えたのだが、時間差で怒りが生じ、ふざけんじゃねーよと怒鳴りつけたい衝動に駆られることとなった。

その後数ヶ月は言葉と怒りを反芻し、悶えることがあった。そのたびに悔しい思いをした。あのときあの場で言い返してやれば良かったと後悔した。ところがやがて、そんな反芻をする暇など無くなり、必死で目の前のことをこなす日々が続き、いつしかその人のこともその言葉さえも思い出すことは無くなり、すっかり忘れ去ってしまったのだ。今日、ある人からその人の名前と、された仕打ちを口に出され、大変だったねと労われるまで。

「あー………そういえばそんなことありましたね」と、薄い反応を返した自分を俯瞰で眺めたときには気付かなかったが、何であのことを忘れたのだろう、また、何故、未だに言われた言葉を思い出せないのだろうと考えたとき、自分に怒りを覚えさせたあの人もあの言葉も、今の自分にとっては全くどうでも良い、些末なことになり果てていたためであると気付いた。いつの間にか消化しきってしまっていたのである。

あの場で言い返す以上の報復を出来たのでは無かろうか。報復の結果の影響は己にのみ存在するのも清清しい。とかげの尻尾を切るように、このまま忘れ去り、縁を切り、一人で前に進んでやろう。

今、自分は若干嬉しい。