怒りの忘却

2014年3月18日(火) 緑茶カウント:0杯

悪口を言われて怒るのは、図星を突かれた証拠である。真実で無ければ怒りは生じない。………と言った人がいたか、どこかで読んだか、その出所の記憶は曖昧だが、その理論から、怒りを真実の証拠として捉えるのは間違いである、と自分は考える。あまりにも見当外れなことを言われ、腸が煮えくり返る思いをした経験がある故に。

しかし自分は、当時、あんなに悔しく、情けなく、身の内で暴れ狂うような怒りを覚えたにも関わらず、言われた言葉を忘れ、言った人のこともすっかり忘れ、あの怒りさえも、記憶から掘り起こす時間を要するほど、記憶の彼方へ吹き飛ばしてしまっていた。

一年と少し前のこと。ある人から、あまりにも見当外れなことを上から目線で言われ、何一つ的を射ない説教染みたアドバイスをいただいた。そして自分は、「あぁ、この人はずっと、自分に対して憧れを抱いていると勘違いをし続けてきて、その結果の有様なのだな」と、その人の今までの行動の由縁を理解し、眩暈を覚え、脱力し、「誰もてめーになんか憧れてねーよ自分の目指す先にお前はいねーよそもそも一番なりたくねーよ阿呆か」という言葉が口から出かかるのをぐっと耐え、その場は耐えたのだが、時間差で怒りが生じ、ふざけんじゃねーよと怒鳴りつけたい衝動に駆られることとなった。

その後数ヶ月は言葉と怒りを反芻し、悶えることがあった。そのたびに悔しい思いをした。あのときあの場で言い返してやれば良かったと後悔した。ところがやがて、そんな反芻をする暇など無くなり、必死で目の前のことをこなす日々が続き、いつしかその人のこともその言葉さえも思い出すことは無くなり、すっかり忘れ去ってしまったのだ。今日、ある人からその人の名前と、された仕打ちを口に出され、大変だったねと労われるまで。

「あー………そういえばそんなことありましたね」と、薄い反応を返した自分を俯瞰で眺めたときには気付かなかったが、何であのことを忘れたのだろう、また、何故、未だに言われた言葉を思い出せないのだろうと考えたとき、自分に怒りを覚えさせたあの人もあの言葉も、今の自分にとっては全くどうでも良い、些末なことになり果てていたためであると気付いた。いつの間にか消化しきってしまっていたのである。

あの場で言い返す以上の報復を出来たのでは無かろうか。報復の結果の影響は己にのみ存在するのも清清しい。とかげの尻尾を切るように、このまま忘れ去り、縁を切り、一人で前に進んでやろう。

今、自分は若干嬉しい。



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