日記録0杯, 日常

2015年3月10日(火) 緑茶カウント:0杯

昨今何かと話題になっている同性婚のニュースを見聞きして、もし同性婚が日本で可能となったら、己も結婚と言う選択肢を視野に入れるかもしれないと思い、そう感じた自分に少し驚いた。

ちなみに自分は同性愛者では無い。

己について明らかにするなら、自分は男女の枠組みのどちらからも脱却したい人間である。女に生まれても違和感があるだろうし、男に生まれてもしっくり来ないだろう。そんな状態を自覚してそろそろ十年。紆余曲折を経たが、自覚してからは納得している。

自分にとっては、男性も女性も異性に感じられる。それは男女どちらも同じ性に感じられるというわけではなく、男性、女性、どちらもそれぞれ違いがあるのだが、どちらも自分と同じ性ではないという認識である。違和感があると言うだろうか。どちらも同性のように感じられるというわけではない。

では、異性のように感じられるということはどちらも愛する対象になるかと言うとそうでも無く、誰かと結婚したいわけでも無い。じゃあ、そんな自分がどうして同性婚の実現を望むかと言うと、楽になれそうだからである。

自分にとっての苦痛は性の枠組みにはめられることで、異性婚しかない現状で、もし己が結婚をしたとすると、どちらかの枠組みにはめられてしまう。それが辛い。それを思うと、もし好いた相手が出来たとしても己は結婚出来ないだろう。無理である。

だが、もし同性婚が実現し、結婚が男女だけのものという前提が崩れれば。男女の結婚も、男同士の結婚も、女同士の結婚も当たり前のように存在する世の中になれば、枠組みから解放されることが出来る。例え身の回りの人には普通の男女の結婚のように捉えられても、「いや、自分は実はそうではないのさ。ふふふ」とほくそ笑む余裕を持つことが出来るだろう。

同性婚の実現は、男性にも女性にもなりたくない人々にとっても希望になるかもしれない。

まぁ、自分は今のところ結婚を望んではいないし、パートナーもいないのだが。でも、それを望むのさ。



日記録0杯, 日常

2015年3月6日(金) 緑茶カウント:0杯

とある音楽グループがライブ中、MCで料亭を揶揄し炎上した事件について、ここ最近もやもやと考えていたことがあったのでまとめてみようと思う。ちなみに自分はそのグループ名こそ知っているものの、どういう音楽をしている人達なのかはこの事件を知るまでよく知らなかった人間である。

まずこの炎上事件を簡単にまとめると以下のようになる。とはいえ、己はその場にいたのではなく、ネット上に広がる話を見ただけなので、すべては伝聞情報でしか無いのだが。

一、 ある音楽グループがライブの前日宿泊した料亭について、ハタハタが少なかったなど、出された食事の内容についてMCで話し、不満を漏らす。

二、 グループのファンが件の料亭に赴きMCの内容を報告する。

三、 女将さんの娘さんが、MCの内容を知って母がショックを受けていて悲しいとツイート。また、料理の量が少なかったのはイベンターからの「予算の都合上ハタハタを一匹にしてほしい」という指示を受けてのもので、通常は二匹出していると事実を明らかに。ほか、要望を受けて心を尽くしたサービスをしたことも語られる。

四、 ツイートが拡散され、炎上。



さてこの事件。個人的に、一番悪いのはファンの行動だよなぁ、と思う。自戒もこめて。

特にその音楽グループを擁護する気は無いのだが、閉ざされた空間でする「ここだけの話」というものはある。多分その話はテレビカメラの前では語られなかったことだろう。料亭に知られないという前提があったからこそのものだろうと想像する。いや彼らがどういう性格か己は全く知らんのだけど。

無論「ここだけの話」にも質の良し悪しはあるのだが、それはひとまず置いておいて。この「ここだけの話」が語られる空間は色々ある。例えばライブハウスであったり深夜番組であったりラジオであったり。観る人聴く人が限られるので、ちょっと普段は語られない、場合によっては刺激的だったり、不謹慎だったりするものが披露される。それは話し手の「この場でなら大丈夫だろう」という信頼あってのものである。わざわざここに来てこれを見聞きする人達なら、眉根をひそめることなどせず、ニヤリと楽しんでくれるだろうと。

ところが、その「ここだけの話」がテイクアウトされて、バーッと日の光の当たるところで披露されて共有されることが近年は多々あるのだ。ブログやTwitterなどにより、その場に来ていないファンだけでなく、ファンでも何でも無い人にまで知られてしまうことさえあるのだ。

そしてまた自分も、その一端を担っている人間である。困ったことに。

ライブに行った感動と興奮を誰かと分かち合いたい、こんなに楽しいことがあったよと知って欲しい、この人はこんなに面白いんだぜすごいんだぜ格好良いんだぜと伝えたい、あわよくばこれを読んで興味を持った人にライブハウスへ足を運んで欲しい、そんな思いによるものだ。あとは、興奮を整理しないと落ち着かないためでもある。それらの思いのたけをぶつけ、昇華するためにTwitterを利用したり、ここの日記で感想を綴ったりしている。

それは全て好意によるファン行動であり、わざわざ料亭に突撃するような悪意は欠片も存在しないが、好意によるファンの行動も「ここだけの話を語る場所」を狭めていることを感じている。

もちろん感想を書く際は気をつけている。例えばMCに他者の名前が出てきたときは表現の仕方も慎重になり、書かない選択をすることもある。どこで回りまわって関係者の目に入るかわからないからだ。「ネットに書かないでね」と前置きされた話も書かない。また、「●●さんが×××××××××××××××と言った」とは、よっぽど記憶に自信がある言葉で無い限りは、文章中で言い切らないようにしている。ライブでのトークはその場で書き留めたものではなく、全て記憶の中にしか無いので、脳内で編集されている可能性が高いためだ。

しかしそれでも起こるのだ。これは自分が実際に経験したことである。Aさんのライブに行ったとき、Aさんがあることを叫んだ。仮にそれを「私はメロンが大好きなんだー! 毎日メロンを食べたいんだー! わー! メロンのためなら死んでもいいマジで! アイラブユー!」というものだったとしよう。これを聞いた自分は、「Aさんはメロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛しているという内容の言葉を叫んでいた」と日記に書いたとする。

すると後日、Aさんが出演したライブハウスのライブレポートで「Aさんは『メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!』とシャウトした」と書かれたのである。他にも文章中には書き覚えのある文言が。思いっきり日記の一部をコピペされたうえ、バッサバッサと編集されたのである。

細かい話だが、Aさんは「私はメロンが大好きなんだー! 毎日メロンを食べたいんだー! わー! メロンのためなら死んでもいいマジで! アイラブユー!」と叫んだのであって、「メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!」とは叫んでいないのである。ところがこの間違った情報が半公式のライブレポートとして公開されてしまったため、一部のファンの間であったが、「メロンのためなら死んでもいいほどメロンを愛している!!!」というシャウトをAさんがしたと思われてしまったのである。Aさん、そんなこと叫んでないのに。

注意を払ったつもりであったが、結果的に事実と異なることが広まってしまったため血の気が引く思いがした。

意図したものと違う受け取り方をされて、それが拡散される。このとき、例え自分が「この人はこれこれこういう話をしていたよ」とあくまでも内容を要約・編集して伝えたつもりであっても、そのように受け取られない可能性があることを思い知った。また別のとき、「Bさんは嬉しそうに笑っているように見えた」と、あくまでも己の主観を書いたつもりが「Bさんは嬉しかった」と事実として受け取られることがあることも知った。そして自分自身も誰かのライブレポートを読むとき、あくまでもそれは他者の記憶と主観によって書かれたものであるのに、あたかも事実のように受け取ってしまうことがあると気が付いた。

それはライブの模様を伝えたライブレポートだけに限らない。ステージ上の人々が語る話もそうである。それはあくまでも彼らの主観であり、彼らの解釈を通して発信されているのだ。事実である場合もあるが、事実で無い場合もある。面白味を出すために話を盛ることもあるだろう。あえて、ちょっと嘘を交えることもあるかもしれない。そちらの方が面白い場合には。

そんな「ここだけの話」は、拡散されて問題が無いものもあればあるものもある。そしてまた、ミュージシャン達も「ここだけの話」が「ここだけ」に留まらなくなってきていることに気付いていて、中には狭まれた空間やアンダーグラウンドが消失しかけていることに言及している人もいる。それじゃつまらないよと言う人もいる。自分もそう思う。

ファンの行動がミュージシャンの活動範囲を狭めたり、自由度を奪うのはよろしくない。だったらライブの感想なんぞ公開したい方が良い。いや、本当に何も書かないのが一番なんじゃないかと思うことさえある。しかしそれでは極端だ。感想を書くことそれ自体が悪では無い。

ではどうすれば良いかと考えると、節度を守る、平凡だがこれに尽きるのだ。ありのままに思いのままに書き綴るのではなく自分の心にルールを持って、これを書いたらどんな影響があるかをいちいち考えることが必要だ。そして完璧な閉鎖空間でないとわかっていても、安心して信頼して「ここだけの話」を語れる空気を作れるよう、意識するしか無いのだろうなぁと思うのである。

気をつけよう。自戒をこめて。



日記録0杯, 日常

2015年3月3日(火) 緑茶カウント:0杯

本日は筋肉少女帯のライブDVDが早売りされる日で、喜び勇んでタワーレコードに買いに行ったんだ。それはもうずっと前に予約をしていたものだったんだ。だけれども、ディスクを取り込んで画面に表示された日付を見たときに、初めて気付いたんだ。このライブが収録された日は、母の亡くなった日だったことに。

胸が締め付けられる思いがしたよ。

恐らく人生で一番悲しかった日だ。今も思い出しては泣きそうになる。現状、一番辛い思い出だ。その同日に大阪では筋少のライブが行われていた。きっとその情報はどこかで得ていただろうに全く気付かなかった。今に至るまで。

その映像はとても楽しく素晴らしく、いつもの筋少のライブで、あぁあの日の裏側ではあんなに楽しいことがあったんだ、と気付かされ。そして同じDVDの特典映像には、別の日のイベントに参加する自身の姿ががっつり映っていて、それがどうにも不思議だなぁ。でもきっとそんなものなのだろうなぁ。あの悲しい日の裏側では最高の一日があり、別の人にとってはそれが逆転することもある。当然のことなのだろう。でも実感することは今まで無かったんだ。

特典映像のメニュー画面に流れるエディのピアノはとても美しく、エディが好きな母に聴かせたかったなぁ、と思うとまた悲しい。でも、楽しいし格好良いんだ。

様々な感情がない交ぜになるDVDになった。思いもがけずも。



日記録2杯, 日常,

2015年3月1日(日) 緑茶カウント:2杯

スプーンにへばりついたべっこう飴を舐めながらハーゲンダッツを食す。

違う。こんなことをしたかったのでは無い。もっと素敵なデザートを楽しむはずだったのに何故こんなところに帰着した。しかもこれがなかなか、味は良いのが憎たらしい。

ハーゲンダッツから季節限定で、カスタードクリーム味が出たのである。これを先日食べてみたところ、カラメルソースの無いプリンとでも言うべきお味。美味しい。好きな味である。しかしカラメルソースがあったらもっと美味しいに違いない。そこでカラメルソースを自作し、アイスにかけて食べようと思いついたのである。冷たいアイスクリームにとろりとからまるカラメルソース。絶対美味しいに決まっている。

そこで本日、アイスを購入し、砂糖と水を用意してカラメルソース作りに励んだ。カラメルソースは作り方を間違えるととろりと行かず、固まってただの飴と化してしまうそうなので、しっかりレシピを確認して、実行したら鍋が焦げた。

真っ黒である。悲惨である。しかも慌てて水道水をぶっかけたので半端に固まった飴が鍋の底にへばりつき絶望的なありさま。こびりついた飴が鍾乳洞のように存在感を主張していて悲しい気持ちになる。まぁ、古い鍋を使ったのだから仕方が無い。こいつの始末は後でするとして、他の鍋で再チャレンジをすることにした。気持ちを切り替えるのが肝腎だ。

今度は上手く行った。あと少しでカラメルソースが出来そうである。よし! と思ったところで台所に響くけたたましい音! 耳障りな警戒音! カラメルソースを焦がしたときに発生した煙を感知して火災報知機が作動したのである。やばい! うるさい! 手が届かない! 天井の火災報知機を止めるべく、まずは火を止め、流し台に乗り上げ、警報音を止めるスイッチを押した。無論鍋の中は放りっぱなしだ。かき混ぜる人間などいやしない。

そして飴と液体の中間のようなカラメルソースが出来た。だが、粘性は強いものの一応べっこう飴よりもカラメルソースよりの存在である。まぁいいんじゃないか? いけるんじゃないか? とゴーサインを出してアイスを取り出し、蓋を開け、表面にカラメルソースを乗せたら完全に固形と化した。冷えたから。

だが、己は戦った。頑張って固形化したカラメルソースを伸ばそうとスプーンを活用した。結構な力を入れた。そして固形化したカラメルソースもといべっこう飴は完全にスプーンと一体化し、棒付きキャンディとアイスクリームがその場に発生したのである。

飴を舐め、アイスを食べ、飴を舐めるの繰り替えし。口の中でカスタードプディングになった。しかしそれはカスタードプディングでも何でもなく、あくまでもべっこう飴とアイスであった。

無念。しかし美味。あぁ。



日記録0杯, 日常

2015年2月24日(火) 緑茶カウント:0杯

先日の日記にも書いたが、考えがまとまらず、何かにつけては涙が出て、憂鬱な気持ちになることが多い。そして「よろしくない」と自覚した日の後に、「あ、こりゃあやばいな」と気付く出来事があったので、今日になって手を打つことにした。

この憂鬱はいつか消えるかもしれないが悪化するかもわからない。悪化した場合、回復に苦労することを己は知っている。好きなミュージシャンの体験談、エッセイ、友人の話によって。じゃあ今のうちに手を打つのが吉である。ということで、心療内科に予約を入れた。自分自身でどうにか出来ないならさっさと専門家の手を借りるのが良い。

思い浮かんだのは、大槻ケンヂが精神のバランスを崩したとき、やばいと気付いて心の病気について調べまくった話である。エッセイで読んだか自伝で読んだか定かでは無いが、あのエピソードがポンと浮かんで、それが力となった。

こんな場面でまでオーケンに助けられるなんてなぁ、といつか笑い話になる日が来るだろう。きっと長い人生、こういう時期は誰しもあるのだ。それをどうにか消化して乗り越えて先に進むのである。

全く、人生というのはなかなか楽では無いね!