日記録3杯, 日常

2015年8月30日(日) 緑茶カウント:3杯

茶封筒を目の前に、己は今悩んでいる。中には一万円札が二十枚。祖母がくれたものだが、これをどのように使ったら良いかわからない。

「私が生きている間に、ずっと使える、記念になるものを買ってあげたい」と言われたのが数ヶ月前。三十間近で祖母に何かを買ってもらうのも、と一度は断ったが、その言葉に強い願いを感じたためありがたく買っていただくことにした。そして当初は祖母と一緒に買い物に出かけ何かを買ってもらう予定だったのだが、あまり遠出が出来ないからと二十万円渡され、これで欲しいものを買ってちょうだいと言われたのである。故に今、己の手元に現金二十万円があり、それを持て余しているのが現在なのである。

何故困っているのかと言うと、二十万円の「ずっと使えるもの」が思い浮かばないからである。そもそも現金を渡されるまで、予算はせいぜい五万円くらいだろうと考えていた。四倍である。現金を受け取る前に、ずっと使えるものという条件にあてはまるものとして腕時計を候補に挙げていたのだが、現状これと言って欲しい腕時計があるわけでもなく、あれば便利だが無くても別に、くらいにしか思っていないので、正直二十万円もする腕時計は欲しくないのである。

じゃあ他に二十万円で欲しいものがあるかと考えたのだが浮かばない。三万円や五万円で欲しいものはちょこちょこあるが、ずっと使えるものという条件から外れる電化製品が多い。パソコンとかスキャナーとかヘッドフォンとか。装飾品もさして浮かばない。条件にあてはまるものの中では、強いて言うなら立派な椅子が欲しいが、このお金で椅子を買ってしまって良いのか迷うところである。

とはいえいつまでも眠らせるわけにはいかず。買って見せて御礼を言うまでのミッションをクリアーするべきだろうと思いつつ。何を買えば良いのやら。贅沢な悩みだなぁと思いつつもわりと真剣な課題であり、どうしたものかと悩み続けているのである。あぁ。



日記録2杯, 日常

2015年8月23日(日) 緑茶カウント:2杯

縁あってkindleを手に入れたのが二ヶ月ほど前だっただろうか。目的は電子書籍を読むことで、まずは青空文庫をダウンロードし、夏目漱石や太宰治を読み、この年になって初めて読んだ「坊ちゃん」「人間失格」の面白さに感動し、中学生の頃、教科書に載っていた一部しか知らず、長らく前後の話を把握していなかった「こころ」を読みきって圧倒され、はるか昔に読んだものの、全く内容を覚えていないどころか主要登場人物すら記憶にない「吾輩は猫である」を読みながら首を傾げたり、気軽な読書ライフを楽しんでいる。

このように最近までは電子書籍を読む目的でしか使用していなかったが、ここ数日で様々なアプリのダウンロードを試すようになり、スケジュール帳やメモ帳、お絵描きアプリを入れてはその便利さを堪能している。特にスケジュール帳。毎年毎年、そうだ新しいスケジュール帳を買わねばなるまいなと思いつつ延ばし延ばしにした挙句、下半期に入ってようやく新しいスケジュール帳を購入し、前半は全く使わない、という愚行を繰り返している。その点アプリなら楽だ。だって買い換える必要が無いから。

kindleで漫画は買っていなかった。漫画は紙で読みたいなと思っていたためだ。しかし、我が家のスペースは圧迫されている。漫画は読みたいが、これ以上部屋が狭くなるのはつらい。だが捨てる本も無い。そこでついに電子書籍で漫画の購入を試みた。タイトルは「ゴールデンカムイ」。アイヌ文化と狩猟漫画が好きな己なら、絶対はまるに違いないと確信しつつ部屋のスペースの関係で手が出せなかった漫画である。しかし我慢出来なくなったので買った。だって絶対面白いじゃん!!

結果。滅茶苦茶面白かった。好みだった。満足した。しかしkindleでは見開きを一度に開くことが出来ず、まず右ページ、次に左ページとスライドさせながら読むことになり、迫力が失われるのが惜しい。やはりこれは紙で買うべき漫画だったかもしれない。いっそ紙でも買ってしまおうかしら、と思うほど好みだった。kindleで読むのは四コマ漫画のような、見開きが使われない漫画の方が合っているかもしれないと思いつつ、kindle版四巻の発売を心待ちにするのである。

以上、新しいおもちゃを手に入れて浮かれている話でした。



日記録4杯, 日常

2015年8月17日(月) 緑茶カウント:4杯

ベッドに座る九十四歳の祖母に、「私が生きているうちにどうかひ孫に会わせてちょうだい」と手を握られながら言われるってのはなかなかきついものがある。その願いを叶えられないだけに。

盆である。祖父母の家に行けば毎度のことであるが毎度ながら毎回しんどい。九州の山奥の限界集落。個人商店の多くがシャッターを下ろし、空き家が増え、スーパーも潰れた。祖父母の子供達三人も田舎を出て外に仕事を求めて生活をしているのに、孫の己に「帰ってきてほしい」「こっちに引っ越して仕事を見つけて結婚して子供を作ってほしい」とせがむのはお門違いだろうと思うが、どうしても期待と希望を捨てられないらしく、何かにつけては口にするのである。

そもそも結婚するつもりはなく、子供なんぞは言語道断な身の上だ。とはいえその由縁を説明することも出来ない。故に関東に戻っても憂鬱を引きずるはめになる。しんどい。

だが、救いもある。父も叔母も己の盾になって守ってくれる。とてもありがたい。そして友人の存在。自分が結婚を人生の選択肢に組み込んでいないのは性別に違和感があるためだ。その詳細を一から十まで友人に語ったことはほとんど無いが、理解してくれている人もいる。ある友人に結婚を前提とした交際をしている女性を紹介されたことがあった。後日、女性は友人に「特に偏見とかは無いのだけれど、ウヲさんは同性愛者なの?」と質問したと言う。それに対しどのように答えたか問うてみると、「ウヲさんはウヲさんという性別の人なんだよって言っといた」とカラカラ笑って語るのだ。そしてその後も特に変わりなく友人夫婦との交際は続いているのだ。ありがたい。

この貴重な関係を築けた友人達をかなぐり捨てて、自分を無視して、祖父母以外に縁のある人など誰もいない土地に引っ越して祖父母の望む生き方なんぞ出来るわけが無く、しかし希望を叶えられないことに対する罪悪感を完璧に払拭することも出来ず。今日も今日とて悶悶とするのである。あぁ。



日記録2杯, 日常

2015年8月10日(月) 緑茶カウント:2杯

全くもって不思議なことだが、このところ「若い」「若く見える」と言われることが増えた。とても増えた。とても増えたのでいぶかしんでいる。何故なら今よりもっと若かった二十代前半の頃は、必ず実年齢よりも上に見られていたからである。三十代の人に「私より年上かと思った」と言われたことさえあった。それは流石にまず自己認識を改めたまえよと突っ込みたくなったが、とにかく実際の年齢よりも上に見られていたのである。

しかし不思議だろうが何だろうが二十九歳の自分が人様から若い若いと言われるのは事実であるので、その意味を考えてみようと思う。考えるべきである。このまま文字通りに受け取ったら恐ろしい目に合う気がしてならないのでしっかり原因を探ろうじゃないか。

そんなわけで、いったいどれが該当するかわからないが、考えられる可能性をピックアップしてみるとしよう。

(1)服装・外見が一般的な二十九歳の定型から外れている。

いわゆる「二十九歳らしい」、しっかりした格好をしていないので、それらしく見えない、かと言って何に分類されるのかもよくわからないため、年齢がわからず、若く見えるという錯覚を起こしている。ありそうである。

(2)思考・能力が幼稚である。

実年齢にあるべき思考・能力が伴っていないことを暗に非難されている。そのうえで「もっと成長したまえよ」と呆れられている。これだったら怖い。

(3)世間の「三十代前後」のイメージと実際の「三十代前後」が乖離している。

これは結構あるのではないかと思っている。三十代と言うと、やたらとおっさんおばさん扱いされるきらいがあり、当人達もおっさんおばさんを楽しそうに自称し出すが、そこにはまだ余裕が見え隠れしている。「おっさんおばさんなんてまだ早いよ」と他人に否定される前提での自称であり、その前提が通じるのである。

(4)白髪が無く、髪が多い。

襟足にハゲはあるけどな。

(5)周囲に気を遣われる立ち位置・年齢になっている。

これもあるかもしれない。事実がどうであれ、「お世辞を言われる」存在になっているのかもしれない。

(6)内面が外見に追いついた。

もしかしたらあるかもしれない。ここに記す文章もツイートも、老成している、じいさんのようだと言われることがままある。ゆえに二十代前半の頃は過剰に落ち着いて見えていたのが、三十代間近になり年相応に近付いてきて、ギャップが薄まり違和感が減ったのかもしれない。

まだあるかもしれないが、こんなところだろうか。何にせよ真に受けて調子に乗らないよう気をつけたいところである。だいたい同年代の友人達が、そもそも大きく変わった印象が無いのだ。そりゃあ腹が出たり白髪が生えたり多少の変化こそあるものの、さほどでは無い。よって(3)の世間の三十代前後のイメージと実際のそれが乖離している、が一番有力候補に思えるので、人様の言葉に影響されて若いと思い込まないよう気をつけたい次第である。

このように意識しつつ、何でここまで気を遣わねばならんのだ、恐怖するはめになっているのだと思う自分もいる。ううん、なかなか難しい。



日記録0杯, 日常

2015年8月8日(土) 緑茶カウント:0杯

先月トレーニングジムに入会し、まだ一ヶ月経っていないが、とりあえず現状ジム通いは続いていて、ほぼ毎日進まない自転車を四十分漕ぎ、土曜日は一時間ジョギングをしてその後また自転車を漕いでいる。

途中で飽きないか不安ではあったが、トレーニングジムでの運動は自分に合っているようだ。ジムになんぞ通わず、外を走れば良かろうという意見もあるだろうし、確かにそれは最もだ。ジムの中で走っても風景は変わらず、風を切る快感も無い。そして毎月会費がかかる。しかしデメリットのほかメリットもやはりあり、そのメリットがデメリットに勝ったのである。己の場合。

一番のメリットは安全にペースを崩さず走れることだ。車や信号に阻まれることなくひたすら淡々と走れるのはありがたい。また、外でイヤホンをつけて音楽を聴きながら走ると事故に合う危険性があるが、室内であればそれが無い。己が今どの程度のスピードで走っているのか数字で確認出来るのが楽しい。あと飲み物を携帯しながら走る必要が無いのは楽である。走るならなるべく身軽に走りたい。

そんなわけで今のところ楽しくジム通いは続いていて、これが日課として定着すれば良いなぁと思っている。楽しい。