日記録0杯, 日常

2015年10月6日(火) 緑茶カウント:0杯

筋肉少女帯の新譜「おまけのいちにち(闘いの日々)」をフライングゲットした。そして今二周目を堪能している。至福。

音が全体的に重く激しい。「おまけのいちにち」という平仮名のタイトルからこの重さは想像出来なかった。また、前作「THE SHOW MUST GO ON」に比べ、オーケンが始終叫んでいる印象である。ここまで咽喉を酷使して大丈夫なのだろうかと心配しつつ興奮する。しかし激しい曲ばかではなく、特にラスト二曲目は驚きだ。

「ムツオさん」のように、あからさまに怪しい曲が無いかと思えば、歌詞カードに記載されていない語りが叫ばれる「時は来た」。「おわかりいただけただろうか」はタイトルからは想像出来ないストレートなラブソング。まさか今収録されるとは思わなかった「LIVE HOUSE」は、オーケンが絶対書かなかっただろう歌詞を熱唱するツインボーカルを楽しめる。唯一残念なのは己が「大都会のテーマ」を全く知らないことで、そのためにこの曲がカバーされた由縁を想像することが出来ないこと。あぁ、これがわかったらもっと深く味わえるだろうに!

何故今「おまけのいちにち」がタイトルになったのか。何故「闘いの日々」がカッコで付け足されたのか。それについてはこれからじっくり、堪能しながら考えたい。

あぁ、それにしても格好良いなぁ!!



日記録3杯, 日常

2015年10月4日(日) 緑茶カウント:3杯

温かい緑茶が美味しい季節になった。十月である。早いものだなぁ。

早いといえば近隣の店舗で、どうしてか知れぬが、前触れもなくいきなりシャッターを下ろし看板を下ろし「閉店しました」と書いた貼紙をピシャッと貼り付ける店舗が多いのがどうにも気になる。しかもそれが一軒や二軒では無いのである。

良く言えば手際が良い。思い立ったら即決断。閉店しようと思った直後には看板をブチ割るスピード感。何て思い切りが良いのだろう。きっと彼の人々の辞書には優柔不断と言う文字は無い。そしてそのスピード感の結果、唐突に表出する空き店舗。その目の前で呆然とする自分。財布と買い物袋を手に提げて。

いったいここらで何が起こっているのだろう。幽霊でも出現しているのだろうか。それともよっぽど閉店セールをやりたくないのだろうか。理由は知れず、原因は知れず。ただただ圧倒されるのである。そのスピード感に。



日記録0杯, 日常

2015年9月29日(火) 緑茶カウント:0杯

長かった! 2013年10月より止まらない咳に悩ませられ、医者に行って咳喘息との診断を受け治療に二年がかかると言われたあの日から。治療のための吸入薬を使い続けること約二年。このところはずっと調子が良かったものの油断大敵ということで用心深く続けていた吸入薬を、ついに卒業出来ることになったのである!

あぁ、長かった!

風邪から気管支炎に移行し、咳喘息を患い、2013年の10月から2015年の1月まで毎日咳が出続けてもう一生治らないかと思った。呼吸をすれば咳が出るのが当たり前の日々だった。あのときの苦しさが嘘のように、今は平静に呼吸が出来ている。嬉しい。当時はこんな日が来るなんて思わなかった。しかし、時間がかかったなぁ。

日記にも咳喘息との闘いの日々は記されている。ずっと咳が止まらず、ようやく止まったかと思えば再発したり、薬が減ったかと思えばまた増やさざるを得なくなったり。春には吸入薬の他、花粉症の薬も必要になり、薬代に苦しんだり。あぁ、大変だった。実に大変だった。

以下はその記録である。始まりは2013年10月より。そして終わりは本日2015年9月29日である。

    長い月日がかかったが、医者の指示通り二年間、きちんと吸入薬を続け、定期的に病院に通い続けたおかげで咳喘息が本物の喘息に移行せずに済んだ。そして今は平穏を取り戻している。根気良く続ければ治るのである。一生治らないかもしれないと思った咳が治るのである。

    もしかしたら今この日記を見ている人の中にも、止まらない咳に苦しんでいる人がいるかもしれない。その人に対して、絶対に治るから大丈夫だよ、などとは言えない。己は医者じゃないからである。よってこの文章は確約ではなくただの経験談だが、あぁこんな人もいたんだじゃあもうちょい続けてみよう、と感じていただけたら、嬉しい。己もどうにも、治療中は不安になったので。



    日記録2杯, 日常

    2015年9月27日(日) 緑茶カウント:2杯

    親切心とわかっている。わかっているが、どうか放っておいてくれ! と叫びたくなるのである。

    その人は己が眼鏡を手に取るたびにタイヤのついた姿見をガラガラと引っ張って顔の前、もしくは真横に持ってきてくれる。場所は眼鏡屋。そして己は眼鏡を新調するためにここに来ている。よって店員の気遣いはありがたいはずなのだが、とにかく、ちょいと試してみようと移動して眼鏡を手にとればガラガラガラガラ、何か違うなと思ってまた移動して眼鏡を手に取ればゴロゴロゴロゴロゴロンゴロン、一挙一動を見守るかのごとく、監視されているかのごとく、姿見を手についてくるのであり、そのプレッシャーたるや相当なものであり、騒がしさもなかなかのものであり、全くもって落ち着かない。

    そもそも姿見が無くても己は困らないのである。何故ならその眼鏡屋の店内には至るところに大小の鏡が設置されているのだ。ちょっとかけて様子を見る程度なら事足りるし、事足りるように店舗も設計されているのである。一人の店員につきっきりで姿見を持ってきてもらう必要は無いのである。無いはずなのに、三歩進めばガラガラガラ、十歩移動すればゴロンゴロンゴロンゴロン、良いから! 良いから! お構いなく! どうか放っておいてくださいよ!

    最終的にちょうど良い眼鏡を購入することに成功はしたが、眼鏡選びとは別のところで疲れきったのであった。どっとはらい。



    日記録4杯, 日常

    2015年9月15日(火) 緑茶カウント:4杯

    初日は九割、二日目が八割、三日目に七割電池が残っていたのなら、今日は六割だろうと思いきやいきなり「電池残量ゼロです」と表示されるのだから恐れ入る。kindleの眠りはいつも突然である。そして己はやろうとしていたことのいくつかが出来なくなって諦めるのである。

    しかし。そんな難点はあるもののkindleは楽しい相棒だ。本屋に行くのも楽しいが、深夜ふと思いついたとき、自宅で本を購入出来るのも嬉しい。メモ帳やスケジュール帳、カレンダーとして扱えるのも愉快だ。これは一度手にしたら手放せなくなるなぁ、と魅力にはまりつつも平気で二三日放置して電池が空になることもあり、そのたびにまた慌てるのである。

    最近は折口信夫の著書を読んでいる。大学在籍時に日本文学を専攻していたので懐かしい。学ぶと言うと大げさだが、もう一度なぞってみようかな、と思いながら電子のページをめくる。これも一種のノスタルジーかもしれない。