昭和六十一年生まれにとっての「おまけのいちにち(闘いの日々)」
2015年10月18日(日) 緑茶カウント:3杯
筋肉少女帯の新譜「おまけのいちにち(闘いの日々)」を発売から十日ほど、一日も欠かさず毎日夢中になって聴き続けているが、これは己にとってある意味で特別な位置づけにあるアルバムである。どこが特別か。残念ながらちょっとネガティブな意味である。己はこのアルバムのコンセプトに共感出来ないのである。そしてまた、全体の根底にあるであろう空気を全く理解出来ないのである。
前作「THE SHOW MUST GO ON」はライブをテーマにしたコンセプトアルバムである。このアルバムを聴いたとき、筋少の楽曲は好きだが筋少のライブに一度も行ったことのない人達はどのように受け取るのだろうか、と疑問に思いつつ興味を抱いた。ファンの全員がライブに足を運ぶわけではないことを考えれば、一定数いるはずである。その人達に「THE SHOW MUST GO ON」というアルバムは面白く聴こえるのだろうか。自分達以外に向けられた音楽として受け取って、つまらなく感じることはないのだろうか。
この疑問の答えを誰かから聞いたことはない。しかしその次作で自分がその人達と同じ立場に立つことになろうとは思わなかった。
本当にわからないのである。
昭和六十一年生まれ。さほど若いわけではなく、来年には三十になる身の上だ。ただ映画やドラマにはさして興味が無く、昭和四十年代五十年代の空気を間接的にさえ知らない。そして、「大都会のテーマ」「私だけの十字架」が当時の人々にとってどのような存在だったか体感していない。刑事ドラマの主題歌ということと、当時どんな時代だったかは調べたことで知識を得たが、実感として湧かないのである。ゆえに、その二曲のカバーがアルバムに織り込まれることによって生じる効果が得られず、「なんか格好良いな」「気持ちよさそうに歌っているな」程度の感想しか抱かないのである。
十日近く毎日聴き続けているにも関わらずこの二曲について何の感慨も湧かない。そして思う。これって結構致命的なんじゃないか? と。
そんなわけでちょっと悔しい思いをしつつ聴き続けているが、何となく感じ取れるのは、過去の刑事ドラマのテーマのカバーが入りつつも、これは決して懐古趣味的なアルバムではないということだ。「過去」をテーマの一つとして根底に敷きつつ、「昔は良いものだった」と語っているわけではないのが面白い。
例えばおいちゃんの楽曲「LIVE HOUSE」は、三十年前に作られたものだが、これは懐古趣味的な意味で収録されたわけではない。時間が経ったことで当時とは違う価値観が生まれ、その良さが理解されたことで収録された。つまり「LIVE HOUSE」という楽曲がタイムスリップすることで再評価されたのである。「今だからこそ良さがわかった」のだ。
「球体関節人形の夜」と「おわかりいただけただろうか」は二つで一つの曲であるように感じられる。「過去の恋愛」に縛られて「今」から前へと進めなくなっている球体関節人形。一見、球体関節人形には過去しか見えていないようだが、「人形に戻れ」と言いつつその結果は夜という他者にゆだねている。つまり、人として生きるか人形に戻るか決めかねてもがいている姿を歌っているのだ。
そしてそこに「おわかりいただけただろうか」で「未来」という選択肢を提示する、と考えると綺麗である。おわかりいただけたかどうかはまた別の話として。
さて。かと思えば「時は来た」では、ついに「今」がやってきたと言いつつ、肝腎の敵が誰だかわかっておらず進むに進めないというオチ。「S5040」も昭和五十年代四十年代へタイムトラベルしているように見せかけてどこに行くか決めかねて今の時代を漂っている。そして「夕焼け原風景」。これも「君」の生まれた土地を歩きつつ、「これから」という「未来」を見つめている。懐古趣味のようで、懐古趣味ではない。
「今」を生きている姿が描写され、その「今」こそがおまけのいちにちであり、「今」の連なりが「闘いの日々」であることを感じさせる。しかしあと一歩、掴めそうで掴めないのがもどかしい。「おまけのいちにち(闘いの日々)」は、そんな、わかるようでわからない、どこかストンと落ちきらないアルバムとなった。
もしかしたらいつか、わかる日が来るかもしれない。