日記録2杯, 日常

2015年11月5日(木) 緑茶カウント21杯

まさかこの大量にある己の髪が減るなんて夢にも思わなかったのだが、この一ヶ月の抜け毛量たるややばい。危機感を抱くレベルでやばい。髪を洗うとシャンプーの泡に抜け毛がたっぷり。数えてみると五十本以上。一説によるとこの程度は普通に抜けるので気にしなくて良いそうだが、今まで抜けなかったのに突然抜けるようになったら流石に気になるものである。

そんなこんなでハラハラしていたが、この抜け毛がピタッと収まったのである、ここ数日で。全然抜けなくなった。いきなり。急に。拍子抜けするほどである。いったいこの数日で己に何があったのだろう。思い当たることを列挙する。

三日連続で一日十時間寝続けた。
秋が終わって冬になった。
亜鉛とヘム鉄のサプリメントの摂取を復活した。
猫と戯れてひたすらゆっくりした。

どれだろうか。全部だろうか。わからないが、良かったなぁと安心している。あぁ、年齢らしい日記だなぁ。もしかしたら疲れていたのかもしれないね。



日記録0杯, 日常

2015年11月1日(日) 緑茶カウント:0杯

「何か違うね」
「何かちょっと違うね」
「何が違うんだろ」
「何が違うんだろうね」
「でもまあ悪くはないね」
「何が違うんだろうね」

母が亡くなってから何度も父と交わしてきた会話。そして今日は母の誕生日であり命日である日。今日は帰省のたびにリクエストしていたご馳走を父と二人で作った。母のレシピは無い。数年前、聞いたことはあるがそのときのレシピは電子の藻屑となって消えてしまった。確かにメールでもらったが、それをどこかに保存することはなかったため、記録されることなく消えてしまった。今更後悔しても遅い。

そうして、母のレシピとは違う、どこの誰かが作ったかしれない料理のレシピをもとに作って、やっぱ違うねと言いつつ、寂しさを噛み締める。そんな十一月一日であった。



日記録2杯, 日常

2015年10月29日(木) 緑茶カウント:2杯

口の中に入れた途端、ほろりと崩れる繊維質。歯を使わずとも上あごで潰れるやわらかさ。これは離乳食ですか? いいえオクラの胡麻和えです。

不味い。

何なのかってーくらい不味い。近所のスーパーで販売されている惣菜の一つ。ついこの間同じものを購入し食したところ、ちょうど良いサクサク感、ほの甘い醤油と胡麻の味。しつこくないねばり。あらこれ美味しいじゃーん、と同じ味を期待して購入したらべちゃっ。どう考えても茹ですぎている。三十秒茹でるところを三分くらい茹でて、やっべうっかり鍋余所見しちゃったらくたくたじゃーんでもまぁいいかバレないバレない、バレたらやばいおーけーおーけーと、調理担当者が非常にいい加減な態度でちゃちゃっと味付けしてタッパーに詰めたような味。というかそれそのもの。この食感でよくぞまあオクラの形状を保っていたと感心するレベルである。すごいなオクラ。

やわらかい不味さをひたすら飲み込む夜。良いことと言ったら不味さを噛み締める必要が無いほどやわらかいこと。噛み締める固さがありゃあ不味くはなかったんだが。むしろ美味しかったんだが。口の中で溶けるオクラ。不味かった。



日記録0杯, 日常

2015年10月19日(月) 緑茶カウント:0杯

心臓がドクドクと鳴る。耳の下で血管が脈打つ音が枕を通して頭まで響く。眼が冴えて眠れない。何これ、恋?

こんな病的な恋があってたまるか。そもそも相手がいやしねえ。しかし由縁がわからない。ここ数日、布団に入るも心臓の音がうるさくて眠れない日々が続いていた。心臓の音が、血管の音が暗闇の中でドクドク鳴ってうるさい。そしてその振動がいつまでも感じられる。いったい何なんだ、これは。

寝不足に悩まされる昼間、ようやく気付いたその正体。最近己は風邪気味だった。よって葛根湯を服用していた。この副作用。交感神経が刺激されて興奮したり眠れなくなったりするらしい。これだ! これだよ! 確かに寝る前に飲んでたよ! ちゃんと決まりに従って食前に飲んじゃあいたが、食事の時刻が遅いために食べて時間を置かずに布団に入っていたのだ。結果、葛根湯が効いてきて眠れなくなったのである。なるほど!

葛根湯と言えども薬は薬。気をつけなきゃいけないのだなぁと思いつつ。今日はビールを呑んで寝るのである。だって呑みたかったから。

葛根湯と一緒に飲んではいないので、そこはご安心を。



日記録3杯, 日常, 筋肉少女帯

2015年10月18日(日) 緑茶カウント:3杯

筋肉少女帯の新譜「おまけのいちにち(闘いの日々)」を発売から十日ほど、一日も欠かさず毎日夢中になって聴き続けているが、これは己にとってある意味で特別な位置づけにあるアルバムである。どこが特別か。残念ながらちょっとネガティブな意味である。己はこのアルバムのコンセプトに共感出来ないのである。そしてまた、全体の根底にあるであろう空気を全く理解出来ないのである。

前作「THE SHOW MUST GO ON」はライブをテーマにしたコンセプトアルバムである。このアルバムを聴いたとき、筋少の楽曲は好きだが筋少のライブに一度も行ったことのない人達はどのように受け取るのだろうか、と疑問に思いつつ興味を抱いた。ファンの全員がライブに足を運ぶわけではないことを考えれば、一定数いるはずである。その人達に「THE SHOW MUST GO ON」というアルバムは面白く聴こえるのだろうか。自分達以外に向けられた音楽として受け取って、つまらなく感じることはないのだろうか。

この疑問の答えを誰かから聞いたことはない。しかしその次作で自分がその人達と同じ立場に立つことになろうとは思わなかった。

本当にわからないのである。

昭和六十一年生まれ。さほど若いわけではなく、来年には三十になる身の上だ。ただ映画やドラマにはさして興味が無く、昭和四十年代五十年代の空気を間接的にさえ知らない。そして、「大都会のテーマ」「私だけの十字架」が当時の人々にとってどのような存在だったか体感していない。刑事ドラマの主題歌ということと、当時どんな時代だったかは調べたことで知識を得たが、実感として湧かないのである。ゆえに、その二曲のカバーがアルバムに織り込まれることによって生じる効果が得られず、「なんか格好良いな」「気持ちよさそうに歌っているな」程度の感想しか抱かないのである。

十日近く毎日聴き続けているにも関わらずこの二曲について何の感慨も湧かない。そして思う。これって結構致命的なんじゃないか? と。

そんなわけでちょっと悔しい思いをしつつ聴き続けているが、何となく感じ取れるのは、過去の刑事ドラマのテーマのカバーが入りつつも、これは決して懐古趣味的なアルバムではないということだ。「過去」をテーマの一つとして根底に敷きつつ、「昔は良いものだった」と語っているわけではないのが面白い。

例えばおいちゃんの楽曲「LIVE HOUSE」は、三十年前に作られたものだが、これは懐古趣味的な意味で収録されたわけではない。時間が経ったことで当時とは違う価値観が生まれ、その良さが理解されたことで収録された。つまり「LIVE HOUSE」という楽曲がタイムスリップすることで再評価されたのである。「今だからこそ良さがわかった」のだ。

「球体関節人形の夜」と「おわかりいただけただろうか」は二つで一つの曲であるように感じられる。「過去の恋愛」に縛られて「今」から前へと進めなくなっている球体関節人形。一見、球体関節人形には過去しか見えていないようだが、「人形に戻れ」と言いつつその結果は夜という他者にゆだねている。つまり、人として生きるか人形に戻るか決めかねてもがいている姿を歌っているのだ。

そしてそこに「おわかりいただけただろうか」で「未来」という選択肢を提示する、と考えると綺麗である。おわかりいただけたかどうかはまた別の話として。

さて。かと思えば「時は来た」では、ついに「今」がやってきたと言いつつ、肝腎の敵が誰だかわかっておらず進むに進めないというオチ。「S5040」も昭和五十年代四十年代へタイムトラベルしているように見せかけてどこに行くか決めかねて今の時代を漂っている。そして「夕焼け原風景」。これも「君」の生まれた土地を歩きつつ、「これから」という「未来」を見つめている。懐古趣味のようで、懐古趣味ではない。

「今」を生きている姿が描写され、その「今」こそがおまけのいちにちであり、「今」の連なりが「闘いの日々」であることを感じさせる。しかしあと一歩、掴めそうで掴めないのがもどかしい。「おまけのいちにち(闘いの日々)」は、そんな、わかるようでわからない、どこかストンと落ちきらないアルバムとなった。

もしかしたらいつか、わかる日が来るかもしれない。