日記録2杯, 日常

2015年11月24日(火) 緑茶カウント:2杯

シュンシュンと蒸気を噴き出すやかんの火を止め、さてお茶を淹れようか、と急須を手にしたところ、ポロリと軽い感覚。手にあるのは取っ手だけ。その先は棚の上に佇んでいる。何事も無かったかのように。

何の衝撃もなく前触れもなく。急須の取っ手がとれたのだった。ポロリと。

共に過ごしてきてそろそろ十年目を迎えようとする最中。ポロリと。取っ手が。いきなり。とれた。水色の陶器製。一人暮らしを始めてからずっとこいつで茶を飲んできた。緑茶も紅茶も飲んできた。その急須が壊れてしまった。今まさに緑茶を飲もうとしたときに。

傍らのやかんと手の中の取っ手を交互に見比べる。ずっと使ってきた急須が壊れた寂しさ、もあるのだがそれよりも。急須が壊れてしまった今、この緑茶を飲みたいという欲求を己はどのように処理すれば良いのだろう。え? マジで? このタイミングで? もう緑茶飲む気満々だったのに? 三杯くらいは飲むつもりだったのに? マジかよーやだよーうわーーんうわーーああああ……。

日記を書くたびに記録している緑茶カウントによると、サイトをこの形態に作り変えてから己は1018杯の緑茶を飲んだらしい。模様替えしたのは2013年4月末。二年半で1018杯ということは、十年で4000杯くらいは飲んでいるのだろうか。多いのか少ないのかよくわからん数字である。

感慨に浸りつつ今日も今日とて緑茶を飲んでいる。セロハンテープは偉大だね。あぁ、温かい。あぁ、美味。急須よ、今までありがとう。



日記録4杯, おそ松さん, 日常, 漫画

2015年11月22日(日) 緑茶カウント:4杯

毎週、あはははは、と笑う中、ふとしたときに感じるゾッとしたもの。この正体について考えたくなったのでちょっとまとめてみようと思う。

赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」が原作のアニメ、「おそ松さん」。小学生だった六つ子が大人になった世界を描くギャグアニメだ。先に断っておくと、己は原作の「おそ松くん」をそもそも読んでいない。イヤミと「シェー!」というギャグこそ知っていたものの、それが「おそ松くん」由来だとは知らなかったくらい知識が無い。ただ大人になった「おそ松さん」達は、成長したことで各々個性が生まれているらしいという知識は得ている。

「おそ松さん」の世界では、成人するも就職せず、家でだらだらしながらモラトリアムを満喫する六つ子の日常が描かれている。彼らは屋台で酒を呑み、ギャンブルをし、性にも興味を持っている立派な成人男性だ。しかしここがポイントで、彼らの見た目は成人男性らしさが一切ない。一見すると、小学生の「おそ松くん」と大差ないのである。丸っこいディフォルメのきいたキャラクターデザインで、衣装はおそろいの色違いパーカー。ヒゲも無ければすね毛もなく、中には小学生よろしく半ズボンを穿いている者も。そして居間でだらだらしたり、梨や今川焼きに狂喜乱舞したり、一枚の布団で六人仲良く寝たりするのである。

そう、彼らはあくまでも「大人」という設定であるにも関わらず、その外見と言動には子供らしさが色濃く残ったままなのだ。故に視聴している最中、たびたび彼らが「成人男性」であることを忘れてしまう。

ところが。このアニメは「彼らが成人男性である」ことを忘れて良い世界観で作られていない。彼らが生きているのは、明るくポップな色彩で描かれていて、パンツ一丁で町を歩くデカパンがいて、無限増殖する怪人ダヨーンがいて、人の心を喋る猫がいる。まるで現実と切り離されたユートピアのようだ。だからいつまでも働かずモラトリアムを楽しんでいられる、そんな幸福な世界観……ではない。

「おそ松さん」達の住む世界はダヨーンも喋る猫もいるが、決してユートピアではないのだ。しっかりときっちりと、「大人は年相応に働かなければならない」という価値観が存在していて、視聴者の住む世界と地続きになっている。だが、ユートピアでも何でもない「こちら側」に近い価値観の世界に住んでいながら、彼らは六人揃って二十歳を過ぎても働かず昼過ぎに起きて、子供のようにおそろいのパーカーを着て暮らし、同じ布団で眠るのである。

そしてここが味噌なのだが、彼らは「完全に中身が子供」でもない。大人であることを求められる世界で、大人になりきれていないくせに、酒やギャンブルを楽しむ大人らしさは持っているのだ。

では、そんな人間を「こちら側」の価値観にあてはめて考えるとどう捉えられるだろうか? その答えは既に作中で語られている。それも本人達によって。

子供らしさを色濃く残した十四松を筆頭に、彼らは大人になりきれない。そのうえそんな六つ子を「ニート達」と呼びつつも母親は優しく受け入れている。剥いた梨を与える姿はまるで小学生に対するもののようで、そして六つ子も子供のように喜んでいるが………これはほほえましいのだろうか……。そう疑問符が浮かんだ瞬間に、恐怖を感じるのである。

何が怖いって、「おそ松さん」達はあたかも子供のように描かれていながら作中でそれが常に否定されていて、たびたび「彼らが異常であること」を意識させる仕掛けになっていることだ。作中では何度も何度も念押しするように「クズ」「ニート」「無職」といった言葉が出てくる。もっとライトな「バカ」程度じゃ済ませてくれない。そして視聴している空間がユートピアでないことを思い出すたびに、彼らの存在をリアルに考えさせられるのだ。例えば十四松。彼は愛すべきキャラクターだ。野球が大好きで、まっすぐで、時折目の焦点が合っていなくて、どぶ川をバタフライするなどといった突拍子もない行動をとる、おバカで可愛い奴だ。アニメキャラとして考えるととても魅力的だ。しかし一旦、「こちら側」の世界観で見つめてしまうと……。

その怖さは不安に近いものかもしれない。

おそ松さん達の日常は、永遠にモラトリアムが許されたのんびりした空間のように見えるのに、実際は全くそんなことはなく、よく見るとブラックな、笑えない世界が描かれているんじゃないか……? そんな風に思わされるのである。

六つ子達のイタズラと暴力がまたえぐい。パチンコに勝って数万円儲けただけで、何の罪もないトド松は縄で縛られて自転車で引きずられる。誘拐され火あぶりの刑に処せられたカラ松は兄弟全員から石臼やフライパンを投げられて流血のうえ気絶。そしてまたトド松だが、彼はアルバイト先で知り合った女の子との呑み会でえげつない姿で裸踊りをやらされて、築いた地位から引き摺り下ろされる。まぁ、トド松の裸踊りに関しては、トド松自身にも非があるのだが……。

念のため言っておくが、己は「アニメでこんなにひどい暴力を描くなんて!」と怒っているわけではない。ただ、子供のように見えるが実は子供でも何でもない彼らの手によって、唐突にえぐい暴力が突っ込まれるギャップに背筋がちょっとゾッとするのである。無論、再三ここにも書いているが、作中で飲酒をするシーンもギャンブルをするシーンも描かれている。決して子供では無いと物語は語っている。しかしやっぱり子供、良くても高校生にしか見えないのだ。

そして、手加減を知らない子供ならまだしも、そろそろ無邪気を脱出しなきゃいけない年齢だよな……? と気付くと、よりえぐく見えるのである。

子供みたいな見た目で、子供みたいな言動をする六つ子達に垣間見える「大人」のギャップによる違和感に怖さを感じながら、今の状態で二十数歳になるまでにどんな履歴があったのかと考えてしまう。トド松がアルバイト先で大学生と偽っていたことから類推するに、彼らはせいぜい二十歳ないしは二十二歳くらいだろうか。すると、六人全員が同時に大学に行くには学費の捻出が厳しいため、高校卒業後は就職という前提で進路を決めたにも関わらず、何と無くだらだらして今に至ってしまったのかもしれない。

話を戻そう。これが大事なところなのだが、「おそ松さん」という作品に抱く違和感による恐怖について長々とここに書いたが、その恐怖が決して不快なわけではなく、むしろ味わい深いのが面白い。単純に笑いながらふとしたときに現実に引き戻される瞬間、六つ子達を非現実の世界から現実の世界へ引っ張り込み、より一層近しい存在と捉えて思考し興味を抱く。単純にギャグアニメとして面白いのだが、その、何とも言えない妙味に己は引きつけられているのかもしれない。

と、こんだけ語っておいて己は未だ満足に六つ子を見分けられないのだが。十四松はわかる。一松もわかる。最終回までには見分けられるようになりたい。



日記録2杯, 日常

2015年11月15日(日) 緑茶カウント:2杯

浴室の換気扇が湿気を吸ってくれない。換気扇を一日中つけっぱなしにしても、鏡はくもり、天井には結露して生まれた水滴が所狭しと吸い付いている。ここが極寒の地であったら見事なツララが下がることだろう。しかしここは雪国でもなければ鍾乳洞でもない、ただのアパートの一室の浴室である。カビの生えるスピードもとんでもない。いったいどうしたものかと悩んでいた。

天井につけられた小型換気扇を覗き込む。中はよく見えない。ファンが回る音はする。もしかしてゴミか何かが詰まっているのだろうか。たまに気がついたときにタオルなどで外側のほこりをぬぐっていたが、空気とともに吸い込まれた分が中に堆積しているのかもしれない。

しているのかもしれないと予想はつけたが、まさか泥のような固形物が手のひらから溢れるくらい取れるたぁ思わないよ。

マジかよ。マジだよ。試しに隙間から綿棒を突っ込んで左右に細かく動かしてみるとボトボトと黒いものが落ちてくる。若干ゾッとしつつ作業を続行。綿棒の白い部分は真っ黒に染まり、水分を含んで膨らんだ。綿棒では埒があかない。割り箸を持ってきて二つに割り、片方を再度狭い隙間に突っ込んでゴソゴソやる。

怖いほど泥が落ちてきた。めっちゃゾッとした。湯船に落ちる見慣れない物体。泥のように見えるそれは埃が水気を含み、カビが生えたものの成れの果てだろうか。わからない。よくわからないがめっちゃ落ちてくる。何だこれ! 何だこれ!!

一通りこそぎ落とし、内部は見えないもののどうやら綺麗になったようで、ファンを回すと掃除前よりも大きな音がした。やはり詰まっていたのか。この泥のようなものが。

しかしこれ。確かに今まで一度も掃除をしたことが無かったが、一度換気扇が故障して取り替えてもらってから二年も経っていないはず。これでこんなに溜まるのか。というかこれどうやってお手入れするのが正解なんだ。試しに換気扇のカバーを留める螺子をプラスドライバーで外してみたがカバーは外れない。固定されているのかくっついているのか。つまりカバーを外して中のファンを取り出すことは困難なようで、出来ることと言ったら今回のようにカバーの隙間から割り箸を突っ込んでこそぎ落とすくらい……なのか……?

どこか気味の悪さを感じつつ、元気よく回るファンの音を聴きつつ。これからは定期的に割り箸を突っ込もうと思った次第であった。



日記録0杯, 日常

2015年11月8日(日) 緑茶カウント:0杯

一人暮らし生活もあと数ヶ月で十年目。そのおよそ十年間、外食をしたり出来合いのもので済ませることもありつつも、基本的には自炊で済ませてきた。よって料理の習慣はそれなりにある。包丁も鍋もフライパンもやかんも卸金もある。しかし我が家にはずっとあの道具が無かったのだ。そう、皮むき器。ピーラーが。

ピーラーの便利さは知っている。実家にもあった。使ったこともある。しかし一度、買うタイミングを逃してからと言うもの、ピーラーがあった方が便利とわかりつつ、まぁ包丁がありゃ何とかなるし、無くても死にはしないし、とずるずるずるずる。店頭で見かけ買おうかなーと思いつつもずるずるずるずる。そんなこんなでもうすぐ十年。我が家にはずっとピーラーが無かったが、昨日。ついに買った。購入した。スーパーで買い物中に見かけ、そろそろいい加減買うかーと思い立ってついに! 我が家に! ピーラーが!!

そして今、その便利さに感動している。うわあ、ジャガイモ、確かに包丁でも剥けるけどずっと楽…ずっと綺麗……。うわあ大根を薄くスライスしてサラダにしたらとても美味しい……。レンコンなんて本当皮を剥くのに苦労していたのに、うわあ、うわあ、うわあ……。

便利である。流石便利である。文明の利器は伊達じゃない。やっぱピーラーすげえなー。貝印すげえなー。感動する昨日と今日。わくわくして野菜を薄くしまくる二日間。シャーッ、シャーッ、シャーッ、シャーッ。わはははははははは!

次はすり鉢を買おうかな。



日記録0杯, 日常

2015年11月6日(金) 緑茶カウント:0杯

「すみません、一杯目ソフトドリンクでも良いですか?」

飲み屋にて相対する席に座る人が、申し訳なさそうな顔で言う。どうしてこんな悲しいことを言うのだろう。酒の席でこういったことを聞かれたことが残念なことに何度かあるが、それを聞く人は決まっていつも、雨に濡れた子犬のような目をしていて、それを見るたびに己はいつもがっかりする。そんな謝る必要なんてないじゃない、好きなものを飲んでくださいよ。

そしてもっとがっかりするのが、このように答えたとき、大抵の人が己に感謝をしたり謝ったりすることである。「ありがとう、助かります」「すみません、空気読めなくて」と。さらに「いやアルコール呑めない人が無理に呑むなんて嫌ですよ。それぞれ好きなものをのむのが一番ですよ」と言うと「そんなこと言ってもらえたの初めてです」とまで言う。

悲しいのはこれが一人や二人じゃないことで、いったいこの人達はどんな悪辣な世界に身を置いていたのだろうかと驚くが、もしやこの世界は悪辣そのものなのか。嫌だなぁ。

己は大のビール好きなので一杯目はとりあえずビール、という風習で困ったことが無い。ただし焼酎の美味さがわからない。だから一杯目はとりあえず焼酎、という世界に住んでいたらきっと呑み会のたびに憂鬱だっただろう。呑み会の真っ先にその憂鬱を味わう人達。口をつけられずぬるくなるビール。全てが悲しい。

美味しそうにグレープフルーツジュースを飲む人を眺めつつ、このあたり、もっと世の中が変われば良いのになぁ、変えていかんとなぁ、と思う夜だった。