日記録0杯, 日常

2016年1月23日(土) 緑茶カウント:0杯

恥ずかしながら、己は苦手な食べ物が多い。

子供の頃は野菜全般が食べられたので、あまり好き嫌いが多いという印象を抱かれなかった。ニンジンもピーマンもセロリもパセリも食べられた。だが、子供の頃から生魚と貝類が苦手だった。食べられなくもないが、食べても美味しく感じられないのである。特にエビは大嫌いだ。だからなるべく食べたくなかった。

ところが大人になると、子供時代にはあまり縁が無かったものも皿に乗せられるようになった。それが己は苦手だった。それはレバーやモツと言った内臓系の食べ物であった。食べたことはある。だが、だめだった。美味しく感じられなかったし、何より受け入れられなかったのだ。頭が。好んで食べる人を拒絶する気持ちこそ無いものの、自分自身は受け入れられなかったのだ。

そして大人になった今。己は食べ物の好き嫌いの多い人間として認識されるようになった。食べたくないものは生魚、生肉、海や川に住む魚以外の生物、内臓、動物の舌。結構ある。わりと結構ある。特に動物系の生臭いにおいが苦手らしい。内臓を食べるイメージに負けるらしい。口の中に動物の舌があるという状況に耐えられないらしい。そこには恐怖もあるのかもしれない。どうしても美味しく食べられなかった。

そんな中。今日の新年会の会場で。平等に取り分けてもらった海鮮サラダの皿。己の取り分の一枚の皿。野菜だけ食べて、刺身には手をつけられず、持て余してぬるくなっていたマグロと何かの白身魚。食べられなくもないが食べたくない。そんな思いで逡巡していた結果、できてしまったぬるい刺身を、隣に座る友人がにこにこしながら食べてくれた。「刺身苦手なんだっけ? 食べていい?」と言って。

海鮮サラダは宴会の序盤に運ばれてきていて、己は長いこと持て余していた。その三切れの刺身を。とっくにぬるくなっている刺身をその人はにこにこしながら食べてくれた。きっと、絶対、もっと早い段階の方が美味しかったに決まっているのに、美味しかった時期を過ぎてしまっているのに食べてくれた。

感動。

感動と共に生まれたのは、取り分けてもらう前に、己は刺身が苦手であることを告白すべきであったという後悔で、同時に、いやしかしそれを言ってしまっては、海鮮サラダを注文した人が気を遣うもしくは悪いことをしたと悔やむかもしれないということで。だけど、良いのだよ! 海鮮サラダを注文しても! 己が勝手に苦手なだけなんだから! と思いつつ、自分が海鮮サラダを注文する人の立場であったなら注文しづらいよなと考えて。とするとこのタイミングでぬるい刺身を食べてくれた友人はベストな判断を下してくれたのではないかと類推して。己は牛タンの隣に添えられたマッシュポテトを舐めつつ、ただただありがたいなと思っていたのであった。嬉しい。



日記録1杯, 日常

2016年1月17日(日) 緑茶カウント:1杯

思えば中学生の頃からそうだった。自分より年上のチャット仲間から、思考が大人びていると言われていた。それを有難い評価と受け入れつつ、まぁ二十歳になったら年相応と言われるのだろうなと考えていた。それは「はっはっはっ自分は大人っぽいんだなイエーイ」と自惚れないよう気をつけようとする思いも由縁の一つであったが、真実そのように信じていた。

しかし。二十歳になると今度は文章が老成していると言われるようになった。インターネットを通じて知り合い、インターネット以外では接触したことのない方々から、あるときに年齢を明かした瞬間「三十代だと思っていた」「四十代かと思っていた」「まさか自分より年下とは」と言われるようになった。これもまた有難いこととして己は受け入れた。実際嬉しかった。だが、きっと年を重ねれば実年齢と文章が釣り合うようになるのだろうと考えていた。

ところがどうだろう。三十を目前に控えた今も「文章が老成している」「落ち着いている」「まさか二十代とは」と言われている。そのことを己は嬉しいと思う。有難いな、ふふふとほくそ笑む自分を確認している。しかしわからない。いったいどのあたりが老成しているように見えるのか、落ち着いて見えるのかがさっぱりわからない。わりとはっちゃけてるよな? 若者言葉も使っているよな? でも落ち着いて見えるの? どこが? 何で?

嬉しいけどわからないけど嬉しいけどわからない。そうして、もしやこれは意外と、四十代になっても五十代になっても変わらないのかもしれないなぁと気付き始めている。いつか実年齢と釣り合う日が来るのだろうか。来ても良いし来なくても良いが、ただただ不思議だなぁと思う。ちなみにこの件について悩んではいない。ただ首を傾げているだけである。何だろう、年齢云々ではなくて時代にそぐわないのだろうか。わからない。不思議だなぁ。



日記録2杯, 日常,

2016年1月12日(火) 緑茶カウント:2杯

整体で体をほぐしてもらった帰り道。商店街をぽくぽく歩いていると、自家製の練り物屋の前を通りかかった。店の奥では主人が老眼鏡を片手に新聞を読んでいて、軒先にはほこほこと湯気を立てるおでんが良い匂いをさせている。八つに仕切られた四角い風呂の中でごぼう巻き、こんにゃく、卵、牛筋、はんぺん、ちくわがぎゅんぎゅんになって出汁に浸かっている様はとても惹かれるものがあった。

よし。「すみませーん」と声をかけ、食べたいおでんを選んでビニール袋に詰めてもらう。引き上げられた卵も大根もすっかり茶色。これは素敵だ。随分味が染みてそうである。迷いつつ五つほど入れてもらい、最後に出汁をたっぷりビニールに注いでもらって、輪ゴムでぎゅぎゅっと縛られる口。これでお値段たったの二百九十円。紙袋に包まれたたぷたぷのビニール袋を受け取ると指先にじんわりと熱が移る。

あー、こういうのって良いなぁ。
惜しむらくは。自分がさほどおでん好きじゃないってことだなー。

さほど好きじゃないのにおでんを食べたくなるときがある。それが今日である。何故か。雰囲気に負けたのだ。冬の寒い日。商店街の練り物屋。自家製の味が染みたおでん。小銭で買える晩御飯。良いじゃん! 素敵じゃん! 他にも惹かれるシチュエーションはある。例えばさ、寒い日に屋台でさ、熱燗片手におでんをつつくなんてさ、最高だよね。でも熱燗、好きじゃないんだよね。残念なことにね。でも惹かれるよね。だって絶対美味しそうじゃん! 美味しそうなのに、美味しいけど、美味しそうなのに、さほど好きじゃないジレンマ!

おでんは温めなおした後美味しくいただいた。うん、美味しい。美味しかった。美味しいけどいつも、「冬のおでん」という言葉があまりにも美味しそうで魅力的なせいで、イメージに味が負けるのだ。何だろうこれ。何だろうこれ。美味しいのに。己はいつも、納得できない。



日記録0杯, 日常

2016年1月7日(木) 緑茶カウント:0杯

友人達から次々と届いた「結婚式にご列席いただきましてありがとうございましたハガキ」「結婚しましたよハガキ」を眺めつつ、なんだって今年に限ってこんなにバリエーション豊富なのだろうと不思議に思った。この種のハガキはだいたい正装の新郎新婦がにっこり笑って寄り添う写真がスタンダードかと思うのだが、見事に全てど真ん中を外しに来ている。あるハガキは新郎新婦がドレスとタキシードで海をバックに大ジャンプをし、あるハガキは猿と化し、あるハガキはそっくりな似顔絵で、あるハガキはコスプレ。夫婦によって個性が出まくっていて非常に面白い。

そして自分はと言うと年末に祖父母に「写真を送ってくれ」と言われ、何に使うのかと問うたところ良い縁談があるので先方に渡したいと言われた。ちなみに縁談についての話はこれが初耳である。つまり己の与り知らぬところで勝手に事を進めようとしていたのである。

無論断った。断った結果いかに相手方が良いとこの生まれで素敵な人格で趣味が良いか長々と語られた。ちゃんと聞いた。聞いたうえで断った。すると「今付き合っている人がいるのか」と聞かれ「いない」と答え、「好きな人がいるのか」と聞かれ「いない」と答え、最終的に「いったいどうしたらいいの!」と悲痛な叫びを上げられた。どうしたらいいのって言うならば、放っておいてくれるのが一番ありがたいと十年前から言っているはずなのだが、まぁ通じない。まいるー。

という話を小学校一年生から付き合いのある友人と久しぶりに会ったときに語って笑い話として昇華した。友人は交際相手がおり、結婚も視野に入れているが、親戚にせっつかれて鬱陶しい思いをしていると言う。「仕方ないんだよ、あのくらいの年代の人にとっては、結婚できた人の他には、結婚したいけどできない人しかいないのだから、孫がそんな可哀想な存在になったら耐えられないんだよ」と笑う。「確かになぁ。仕方がないんだろうなぁ」「でも鬱陶しいね」「鬱陶しいな」「困ったものだねー」「そうだねー」

同じ学校に通ったり、同じ塾に通ったり、同じサークルで遊んだりしていた友人達が、だんだんと違う環境に身を置いていくことに対して、ちょっと前は寂しく思う気持ちが強かったが、最近は面白いなぁと眺めている。そんな自分も、自分自身はずっと同じ位置にいると思っているが、他者から見たら別のところに行ってしまったように見えるかもしれない。そんな中でたまに再会し、語り合うのも悪くない。きっと今までに聞けなかった新しい話を聞くことができるだろう。

「結婚式にご列席いただきありがとうございましたハガキ」の一枚には、今年子供が生まれますとの報告も添えられていた。ついに友人が父親に! おめでたいなぁと喜んでいたら、数年前サークルの呑み会の余興で女装したときに使ったカツラを貸してくれと同じ段に書かれていた。何に使うんだよパパ。とっくに捨てたよパパ。一枚のハガキに別々の要素を混ぜ込みすぎだろパパ。

祝福とともにツッコミの返信を送ろう。全くもって楽しいことだ。



日記録0杯, 日常

2016年1月6日(水) 緑茶カウント:0杯

石橋を叩いて渡る。いいことである。注意深く慎重なのはとてもよろしい。安心出来るしね。ミスの防止に繋がるしね。とっても良いと思います。ただし、それが自分の石橋ならね。

「申し訳ない。自分は非常に慎重かつ心配性な人間であるので、ついつい石橋を叩いてしまうのである」と言いながらカナヅチでガンガン叩くのは他人の石橋。ガンガンに殴られた己の石橋は傷だらけで見る影もない。あぁ、こんなに古びてしまって哀れだなぁ。

他人の石橋を叩く。叩いて叩いて叩きまくる。それはどんな風に? つまりこんな風にである。

「すみません、あのデータちゃんと送ってくれました?」「もう送ってますよ」「ごめんなさいメールチェックしていませんでした」

「そういえばあの予定大丈夫なんですかね?」「大丈夫、と言うかとっくに発表されていますよ」「すみません見ていませんでした」

「念のための確認ですけど『はなはだしい』なんて言葉ないですよね? 間違ってませんか?」「辞書引けば出てくるごく普通の日本語です。検索してもすぐに出てきますよ」「すみません調べてなかったです……」

「心配なので確認しますけどこの日って金曜日で合ってます?」「カレンダー見ろ」「あっ……すみません」

一事が万事この調子。おわかり! いただけ! ただろうか!

慎重なのは良い。心配性なのも良い。しかし自分自身で調べ確認することを全くせず、とにかく他人に聞きまくる。それはもう、簡単な英単語から今年の祝日まで! つまり他人をスケジュール帳もしくは辞書代わりに使うのである。そうして他人の時間と頭脳を使っているくせ、石橋をガンガン叩くことを美徳と思っているのである。叩いているのは自分の石橋ではなく、他人の石橋であると言うのに! そもそも「石橋を叩いて渡る」ってのは美徳ではなく、皮肉めいた意味合いもある言葉だと言うのに! おい! 「orange」のスペルくらい自分で調べなさいよ!

今日も今日とて叩かれる石橋はヒビだらけ。あぁ。慎重と言えば聞こえが良いが、それは怠惰なだけなんだぜ。確認しようぜ、自分で。引こうぜ、辞書。調べようぜ、物事を。呆れるべきか怒るべきか、迷いながらの日々である。石橋は自分のを叩きましょう。ウヲさんとの約束だよ。