日記録1杯, おそ松さん, 日常, 筋肉少女帯

2016年4月2日(土) 緑茶カウント:1杯

毎年恒例のエイプリルフール企画。今年は何をしようかな、と考えていたらいつの間にか三月を迎えてしまい、こうなったら今自分がはまっているものを題材にするしかない、ということで、「おそ松さん」と「筋肉少女帯」をミックス。企画を練りつつ実際に制作に着手したのは三月中旬で、四日間の休みをほぼこの嘘企画のために使いきった。疲れた。滅茶苦茶疲れた。しかも必死で作っている最中にあの二十四話を迎えて大ダメージを受けた。そのときの己の心中を察して欲しい。最終回の内容によっては公開できないんじゃないかと思ったよ……。

タイトルは筋肉少女帯のライブタイトル「筋少ちゃん祭り」が元。最初は「THE SHOE 松T GO ON」しか思いつかず、わかりづらいのでどうにかならんかなーと考えていたある日、布団の中でうとうとしていたら唐突に思いつき、「これだーーーー!!」と叫んで近くのメモ用紙に書き殴って寝た。

線画に二日、色塗りに一日、サイト制作に一日、というスケジュール。一番大変だったのは線画。最初公式サイトのキャラクター紹介の絵を真似ながら描いていたのだがどうにも似ず、顔をちょっと丸くしたらアニメの絵に近付いた、という発見も。初期はちょっと面長だったが、だんだん丸くなっていったらしい。

あと、各エピソードについて簡単に。



■第1話:釈迦はイイ人だったから
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なんとなく「釈迦」は十四松が良いかな、と思った後に「年は十四で気が違っててだけどかわいくって」という歌詞に気付き、「これだ!」と即決。服は「おそ松くん」のトト子ちゃんが着ていたデザインを参考にした。



■第2話:いくじなし
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「ペテン師」「アンテナ売り」という役柄をおそ松にするかイヤミにするか悩んだが、「いくじなしの兄さん」「金をせびりにくるのであった」というフレーズからおそ松に決定。ちなみにおそ松は「踊る赤ちゃん人間」も候補だった。「赤いおべべ」ならイメージカラーと合うからぴったりである。しかし問題があった。おそ松には悲哀や葛藤がなかったのだ……。

あと生ゴムマニアはデカパンにしようかな、とも考えていたのだが、六つ子とトト子ちゃんで手一杯でデカパンまで手が回らなかった。ごめんよデカパン。



■第3話:最期の遠足
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結構悩んだのがトド松。「ドライモンスター」と呼ばれていることを考えると、「最期の遠足」が合いそうだ。……と考えていたら、「ダヨーン族」でおそ松達を捜さずに自分達だけで帰ることを提案したのでこれしかないと思った。



■第4話:23の瞳
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カラ松も結構悩んだ。カラ松のどの面をクローズアップするべきか……と考え、筋少の曲とマッチしそうなのは兄弟にスルーされるところかな、と思って「23の瞳」に。人数が六の倍数なのもちょうど良い。六つ子が二セット必要だけど。



■第5話:少年、グリグリメガネを拾う
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自称常識人のチョロ松には、グリグリメガネで「人」や「物」の醜い中身を覗いてショックを受けてもらおう! ということで決定。何か嫌なものを見ても、それは人生の修行さ!



■第6話:蜘蛛の糸
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「サボテンとバントライン」「パレードの日、影男を秘かに消せ!」などなど、候補が多かったのが一松。その中で「友達がいない」「猫」という二つのキーワードから「蜘蛛の糸」に決定。
実際、一松は何があってあの性格になったんだろうなぁ。



■第7話:枕投げ営業
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この企画をやると決める前から、「枕投げ営業……トト子ちゃんのイメージに合うな……」と考えていたので、もうこれはノリノリで描いた。滅茶苦茶楽しかった。



■第8話:六つ子さん
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何も考えずに「ムツオさん」を聴いているときに、「……このタイトル、gの音を足したら六つ子さんになるぞ!」と気付き、それから少しの間「六つ子さん」が脳内再生される時期があった。我ながらおそ松さんにはまりすぎだと思う。
ただ、クズニートと作中で描写されているとはいえ、殺人はどうかなぁ……と描くのを迷っていたのだが、その後神松殺害計画を立てたり、酔っ払っているとはいえ老人に六対一で襲い掛かるというバイオレンスっぷりを見せ付けてくれたので迷いは消滅した。

「あの八墓村の題材となった事件がモチーフの楽曲」という回りくどい書き方をしているのはあえてのこと。調べればすぐにわかるものの、事件の名称について明言されていないので。

ちなみにおそ松が持っているのは電話線で、カラ松が頭に差しているのはサイリウム。



「筋少とおそ松さん、両方好きな人ってどのくらいいるのだろうか……」と思いながら作っていたのだが、結果、たくさんいることがわかりとても嬉しかった。どちらも魅力的な作品なので、知らない方は是非この機会に。

最後に。企画をご覧いただきありがとうございました。来年は来年で、また何かやりたいと思います。


日記録0杯, 日常

2016年3月31日(木) 緑茶カウント:0杯

アパートの管理会社から電話を受けたとき、己は何かしらやらかしてしまっただろうかとヒヤヒヤし、この半年間観続けていた深夜アニメの音量と自身の笑い声を振り返ってみたが、心配は杞憂に終わった。

しかし。騒音による苦情を受けて退去を命じられるわけではなかったものの、どのみちこのアパートを出なければならなくなってしまい、どうしたものかなぁ、と考えている。建て替えるそうなのだ、このアパートを。まぁ無理もない。立地と広さと設備に比してみると随分安い家賃なのである。つまり古い。よって建て替えの必要が生じたということだ。とても理解できる話である。理解できるが困るのである。だって安いから。とても。

とはいえ、建て替えが発生しなければこのままずるずる何年も何年も同じ部屋に住み続ける未来が見えており、ただでさえ物の多さに辟易しつつも物を減らせないというどうしようもない毎日を送っていることを考えると、これは良い機会かもしれない。こんなことがなければなかなか重い腰は上がらないのだ。だって物が多いから。物が多いから難儀なのだ、引越しは。

二週間後、管理会社と打ち合わせをすることになった。どんな話が飛びやすやら。ちょっとドキドキしている。今。



日記録2杯, おそ松さん, 日常

2016年3月30日(水) 緑茶カウント:2杯

ここ半年分の睡眠不足がドッと押し寄せてきていて眠い。ついにおそ松さんが最終回を迎えた。面白かったなぁ。こんなに毎週毎週、わくわくドキドキしながらアニメを観たのは何年ぶりだろうか。「ジョジョ」「月刊少女野崎くん」も楽しく観ていたが、どちらも先の展開を知っていたため、あの話がどのようにアニメで描かれるだろう、あの話をやってくれるだろうか、といった原作ありきの楽しみ方をしていた。対して「おそ松さん」は、次週何が起こるか全くわからない。高校生の頃、少年ジャンプをドキドキそわそわしながら読んでいたときの感覚が思い起こされ、非常に楽しかった。

自身の常識が揺さぶられる感覚も気持ち良かった。自分は下ネタが苦手である。未だに口に出来ない単語も多く、会話において難儀することもある。そんな中で毎週毎週連発されるあらゆる言葉達に、毎度毎度側頭部をハンマーでガーンと殴られて、揺さぶられる感覚を味わっていた。ディフォルメされた可愛らしい絵柄で誤魔化されているが、なかなかどうしてえぐいし下品だ。しかしそれらがあまりにもカジュアルに連発されるので、「えーと…下ネタだと思ってたけど、実はこの言葉は下ネタではない、のか……?」「性欲とはこんなにあからさまにするもの……だっけ? あれ?」とだんだんだんだんわからなくなってくるのである。自身の性質に窮屈さを感じていたこともあり、この混乱はなかなか心地良いものだった。

「おそ松さん」はどんなアニメかと問われたら、自分は「異常性をマイルドに隠しながら、異常者の日常を描いたアニメ」と答えるだろう。六つ子全員がニートで、それが許される空間。小学生ならともかく、成長期を迎える頃には誰かしら布団を分けようと言い出すだろうに、大人になっても一枚の布団で寝る彼らは、ことあるごとにあったはずの「変化の節目」を迎えることなく通り過ぎて、小学生のまま大人になってしまっている。

一日中遊んでいても怒られなくて、兄弟全員が一緒の布団で寝て、おやつを巡って大騒ぎするのは小学生にとってはごく普通の日常と言っていい。それを大人になってもごく当たり前のように続け、さらに小学生そのままではなく、飲酒やギャンブル、アダルトビデオといった大人ならではの「遊び」はちゃっかり味わっているアンバランスさ。彼らはあくまでも大人として描写されているのに、当たり前のように子供のようでいる。そのあたりに、己は怖さと薄ら寒さを感じていたなぁと改めて思う。

終わってしまったのは寂しいが、ぶっとんだ最終回のおかげで今はとても満ち足りている。実に楽しい半年間だった。



日記録0杯, 日常

2016年3月25日(金) 緑茶カウント:0杯

太宰治の「晩年」が読みたくなり、kindleで探したところ面白いものを見つけた。国会図書館に保存されている古書を画像として取り込みPDF化したもので、黄ばんだ紙の上に印字された文字が乗り、ところどころに茶色のしみが出来ている。解体することなく本をそのままスキャンしたのか、のどに近い一行は斜めにゆがみ、ページによっては非常に読みづらい。当時はkindleを所有していなかったが、大学の頃図書館で複写した本を家に持ち帰り、レポート用紙に肘をつきながら読んだ日を思い出す。あれもうまくコピーが出来ず、写したページが紙と平行にならないことが常であった。

読みづらいが味わい深いが読みづらい。電子書籍として最適化されたものでないだけに、それに慣れた身には不便を感じるところもある。本棚を探せば読みやすい文庫本もいつかは発掘できようが、どうしようかなぁ。

最後まで読み進めるか否か迷いつつ、褪せたページをめくるのである。



日記録0杯, 日常,

2016年3月18日(金) 緑茶カウント:0杯

食べることは好きである。忙しい時分にはなかなか難しいが、時間のあるときは台所に立って、ちまちまとおかずを揃えて小鉢を並べ、ゆったりと食事を楽しむこともある。白米、汁物、お浸し、煮物、メインの何か、などなどを箸でつまんで満ち足りた気分に浸る幸せ。とはいえそんな食事を毎日用意するのは不可能である。しかしなるべく自炊をしたいという気持ちもあるので、休みの日におかずを作り置きするのが習慣化している。一時期はキヌアにはまっていた。あれはなかなか便利である。

このように、食事に対してそれなりのこだわりはあるのだが、あくまでもそれはそれなりに過ぎず、別の側面から見ると己は食事に対して無頓着な人間である。何故なら、ずっと同じものばかりを食べていても飽きないし、特に不満がないからである。

そして、新規開拓をしない。もっと言うと食べたことのないものをあまり食べたいと思わない。美味しいと知っているものだけをひたすら食べ続けたい。そんな平坦な人間である。

よって、一週間ずっと食べ慣れたものを食べ続け、次の一週間はまた別の食べ慣れたものを食べ続け、と実に変化のない食生活を送っている。一応、三日続けてほうれん草のお浸しを食べたら、四日目はオムレツにしたり、スープにしたりと変化をつけることもあるのだが、だいたい同じである。我ながら栄養が偏りそうだなぁと思っている。

こんな食事をしているのに、自炊をしているというただそれだけの理由で、料理が好きで食事が好きで食べることに興味津々と思い込んでいる人がいて、一年くらいかけてその誤解を解こうとしているのだが未だ解けず、横文字のアクセントの未知なる料理屋に誘われるたびに断る日々を送っている。今日食べたのは、米の上にキャベツの千切りを敷き詰めた豚の生姜焼き丼と、ほうれん草と卵のスープ。食べ慣れた味である。美味しかった。