日記録0杯, 日常

2016年12月1日(木) 緑茶カウント:0杯

コンビニエンスストアーで販売されているざるそばってご存知? あれですよ、プラスチックの器に仕切りがあって、大きな囲いが一つと小さな囲いが二つあり、大きい方にはそばが入って、小さな方の一つには薬味、もう一つには漬け汁を入れるスペースがあるあれでございますよ。

背を丸め、首を突き出し、上目遣いをしながらざっくざっくと大股で人通りの多い商店街の真ん中を前進する男性がコンビニエンスストアーのざるそばを歩き食いしていた。

左手にはプラスチックの容器、右手には割り箸。口にはそば。町田康のエッセイか小説で、モスバーガーを歩き食いする女子高生が、包みから溢れるソースに四苦八苦する描写を読んだことがある。あれもなかなか衝撃的かつ滑稽な姿であったが、今自分の目の前を通過した男性のインパクトはそれを上回るのではなかろうか。ただ一つ、その女子高生と違うところは男性がそばの主導権を握っていることである。ガッと首を突き出し漬け汁が襟周りに垂れないよう工夫をし、半ば白目を剥きながら左右前方に注意を払い通行するなど、歩きながらそばを食べるための努力は最大限行いつつも彼はそばに困らされるはめに陥っていないのだ。

おにぎり、サンドイッチ、アンパン、肉まん、団子、ケバブ、たい焼き、ハンバーガー、饅頭、チョコレート、うまい棒、からあげクン、ホットドッグ、アメリカンドッグ、ドーナツ、ウィーダインゼリー、バナナ、りんご、みかん。世の中にはいくらでも歩き食いしやすそうな食べ物が溢れており、男性が行ったであろうコンビニエンスストアーにだって歩き食いに適したものなど選び放題だっただろうに、何故わざわざ箸でたぐって汁に漬けてずるずるすすって咀嚼しつつ漬け汁がこぼれないようバランスの面倒を見なければならない食物を選んだのか。よっぽどそばを食べたかったのか。そばを食べている最中にどうしても外出しなければならなくなったが食事をやめる選択肢が無かったのか。そばの歩き食いにチャレンジしないことには収まらない心境だったのか。

男性はずんずん先に進んでしまったため真実はわからない。そばをずるずるすすりながら。そばをずるずるすすりながら。自分は黙ってその背中を見送った。商店街は賑やかだった。



日記録0杯, 日常

2016年11月20日(日) 緑茶カウント:0杯

たった一本のビールでぽわぽわ酔っているのは、病み上がりと余韻のせいだろう。先日のヒラサワによるファンクラブイベント、「景観する循環カフェ」は未だ己を酔わせてくれた。あの至近距離、何も視界を遮られないところに平沢進が存在していて、投稿した質問に答えてくれて、間接的手渡しとはいえ手ずからお土産にピックを与えてくれた。あのピックはとても封が開けられない。開けたいけど開けられない。

このイベントは一生の思い出になるだろうし、一生大事にしたいと思う言葉ももらえた。ありがたい。こんなことってあるんだなぁ。

十一月の半分ほど、体調は芳しくなかった。精神的なこともあるだろう。悲しみを埋めるように良いことを与えてもらえているような気がする。そんなものは所詮気のせい、思い込みに他ならないのだが、悲しみと幸運の巡り合わせはまるで語りかけてくるようで、所詮自分の中だけだ、思い込んでも良いかな、と感じる。

加湿器が働き、布団乾燥機が稼動し、こたつがじんわりと足を暖める快適な部屋の中。流れる音楽は平沢進。寝る前にもう一杯だけ、温かいウイスキーのお湯割りでも呑もう。そうして十二月に向けて歩き出せば良いかな、と思った。



日記録2杯, 日常

2016年11月12日(土) 緑茶カウント:2杯

太ったのだ。不規則な生活が原因で太ったのだ。よって十一月より、どんなに疲れていても必ず日に二十分間筋トレをするという目標を掲げ、毎日毎日えっちらおっちらダンベルを上げ下げしている。そして今日は大学の友人達との呑み会の日。連日の疲労により起床したのは十五時半。あぁよく寝た、とあくびをしつつ、呑み会と筋トレというこの日の予定を両立させるため、起き抜けにダンベルを振り回し、呑み会に行ったのであった。

楽しかった。

帰宅後、頭はガンガン痛んでいた。無理もない。起きて最初に摂った水分がアルコールなのだ。体に良いわけがない。しかし楽しかった。ビールをガンガンに呑んで、まったり過ごし、特筆することもないあれやこれやを語っただけの時間。気の安らげるまたとない時間。頭はガンガンに痛んでいたが、とにかく楽しく、リフレッシュできた。

さー、これでまた頑張れる。可能であればこういった時間が年内にあと一回でもとれれば良いのだが、とりたいものだ。とれるように頑張ろう。粛々と。



日記録0杯, 日常

2016年11月6日(日) 緑茶カウント:0杯

ふと、読書のきっかけとは何だったかなぁ、と思った。

己は読書家ではない。本は好きだが、本が無くては生きていけない人種ではない。実際数年ろくに読書をしていない時期があった。それは己の部屋が狭く、本棚からはみ出て床に積もる本のタワーに嫌気が差したとき。あれから己はしばらく本を読んでいなかった。

小学生の頃、雑誌「小学一年生」を買い与えられてほとんど読まず、叱られたことを覚えている。あのときは確か始めたばかりのゲーム「マリオコレクション」にはまっていて、マリオの攻略本がとにかく欲しかった。そうして買い与えられた漫画が沢田ユキオの「スーパーマリオくん」。あの一冊で何回笑ったか知れやしない。あれこそが、初めて所有したコミックスだった。

小学生になってからは、「ぞうのたまごのたまごやき」で知られる児童書、王様シリーズを読みつつファーブル昆虫記に夢中になり、読書感想文を書いて賞をとったものの、賞をとる前に担任から受けた添削に未だに納得がいっていない。しかし納得がいかないまま己はそれを直したのであった。

冒頭の文句、「フンコロガシといえばスカラベ。スカラベといえばフンコロガシ」。これは要らないものとして担任に削除を命ぜられた。しかし母は「この文句が良いのにね」と言ってくれた。そのことを、二十年以上経った今も覚えている。

中学になってからは勾玉シリーズと守人シリーズを読んでいた記憶がある。勾玉シリーズのうちの一冊を持って祖父母の家に行ったとき、親戚がページをパラパラめくって「字が大きいね」と言っていた。だから何だというのだ。面白いものは面白いんだ、と思ったが、「そうかな?」程度しか己は言わなかった。

同時期にスタンダールとドストエフスキーにはまり、さらにONE PIECEに熱中し、母経由で西原理恵子という漫画家を知り、松田洋子のリスペクターを読んでいた。今思ってもあれは楽しい時代であった。

そして嬉しかったこと。高校のときに個人サイトを始め、西原理恵子のサイトを見たら「リンクしたら良かったら連絡してね」という表記があったので、西原理恵子のファンサイトでも何でもなかったが、経緯を説明してリンクの報告メールを送った。そしたらアシスタントの愛ちゃんから返信をもらえた。それがすごく、すごく嬉しかった。

何か一つに夢中になれる人になりたかった。絵でも読書でもその他でも。しかし己はなれなかった。狭い範囲で色々なものに興味があり、散り散りバラバラになってしまう。しかし固めてやろうと思う。固めてやる努力をしてやろうと思う。そんな思い出話の一片。それが今日の日記である。



日記録2杯, 日常

2016年11月5日(土) 緑茶カウント:2杯

夕闇の中、ふらふらと歩いた町は神田神保町。参道に軒を連ねる綿菓子やヤキソバの夜店を連想させるのは、歩道に並ぶ本屋の露店。道行く人の視線は背表紙の文字を追い、指の腹はパラパラとページをめくっている。かと思えば露店の間でワインを売る人がいて、笑顔の女性が楽しげにグラスを傾けている。偶然立ち寄ったこの日は神田古本まつりの日。日が暮れかけているにも関わらず、町は静かな活気で満ちていた。

古書店ならではの楽しみは、色褪せた背表紙にあるだろう。様々な時代に流通した著名な本と、その当時でさえも一部でしか取り扱われなかったであろう専門書が、時代の細部を無視してぎゅっと一つの棚に収められている。過去から現代に至るまでに生き残った味濃い本だけが並ぶ圧巻。書体も仮名遣いもバラバラなそれらを眺めるだけで、心が高揚してたまらない。

カラー印刷の見事さをうたった昆虫図鑑を開くと、彩度の低いうすぼけた写真があった。時とともにインクが劣化したのか、当時はこれが最高の技術だったのか、はたまたその両方か。紙の角の丸さからこの本の持ち主の愛情が窺い知れる。思い出すのは子供の頃夢中でめくった昆虫図鑑。あれも今販売されている最新の図鑑に比べれば写真はうすぼけているのだが、それでも当時の己の目には色鮮やかに映ったのだ。

本を引いては棚に戻し、引いては棚に戻す。目当てのものがないままに背表紙を眺め歩を進める。タイトルが語るそれらは本の断片だが、その断片の海を彷徨うだけでも楽しくてたまらなかった。様々な人の膨大な興味関心の断片が怒涛のように流れ込んでくる感覚がして。

そうして己は背表紙の海を泳ぎきり、胸いっぱいになって家路に着いた。脳には背表紙の陰影が残っていた。この脳に残った断片をいつか拾い上げるときが来るだろう。そのときの興味の向かう先が今から楽しみならない。己は何を拾うだろうか。