日記録0杯, 日常,

2017年6月7日(水) 緑茶カウント:0杯

作り置きしていたポーク・ソテーを温めながら、何のソースをつけようかと冷蔵庫を開く。目に入ったのはケチャップ、マヨネーズ、ウスターソース、青じそドレッシング、醤油、白だし、マスタード。この間はケチャップとマヨネーズとウスターソースを混ぜて温めたものをつけて食したが、それすらも面倒くさい気持ちが生じている今。で、あればと冷蔵庫の隅から取り出したのはトンカツソース。合わないことはないはずである。

そうして口の中に広がったのは驚くかな、錯覚の味である。これはポーク・ソテーである。しかし、卵もパン粉もついていないのにトンカツの味がするのである。トンカツソースをかけるだけで、脳がトンカツと錯覚するのだ。そう、それはまるで衣を剥いだトンカツを食べているような。そう、それはまるで衣を剥いだトンカツのような味になってしまったのだ。

一時の後、虚無の味が広がった。もともとはポーク・ソテーという一人前の料理だったはずの代物が、衣を剥いだトンカツのようなもの、という悲しい一皿に成り果てた。それはまるで二級品のトンカツのような、トンカツもどきのような、トンカツを食べたい人が無理矢理自分を騙しているような、そんな虚しい味がした。

虚無の味。

皿にあるのはポーク・ソテー。豚肉に塩胡椒を振って、小麦粉をまとわせ、オリーブオイルでソテーした肉料理、だったもの。傍らのトンカツソースは黙って食卓の上で直立している。己はそれを眺めている。脳には虚無が広がっていた。そんな一つの夕食だった。



日記録0杯, 日常

2017年6月5日(月) 緑茶カウント:0杯

筋肉少女帯が好きだ。水戸華之介が好きだ。平沢進が好きだ。
町田康が好きだ。江戸川乱歩が好きだ。太宰治が好きだ。
昆虫が好きだ。寄生虫が好きだ。微生物が好きだ。両生類が好きだ。爬虫類が好きだ。
ジョジョが好きだ。ネウロが好きだ。ミスフルが好きだ。

たくさんある好きなもの。これらについて「嫌い」と言う人がいたら、人はどう思うだろう。己はどう思うか? 聞きたいと思う。知りたいと思う。わくわくする。

しかし中には「悲しい」と思う人もいるだろう。それを知っている。だから、感想を語るのは難しい。

思い返せば高校生の頃。「Mr.FULLSWING」というギャグ野球漫画が好きだったあのときに確かに己は鍛えられた。当時の自分は感想を語り合える仲間を多く持っておらず、とにかく感想に飢えていて、ジャンプ感想サイトを五十個百個、いくつもいくつも巡っていた。しかしそれらのサイトでミスフルの評価は軒並み辛口、いや、言ってしまえばアンチ的意見を書くのが流行っている風潮もあっただろう。たった一言「作者死ね」と切って捨てるサイトも少なくなく、まともな感想を読める機会は少なかった。だからこそ、例え辛辣な意見でも、きちんとした感想を書いてくれるサイトを見つけたときは嬉しい思いがこみ上げた。

ミスフルのおかげで己は別の視点を持てたと思う。ミスフルに感謝したい。

「好き嫌い」は単なる好みの問題で、「好き嫌い」を語れるのはその対象を知った人間だけである。よって、「好き」の中にも「嫌い」の中にも一つの要素があって、ある人が「嫌い」と感ずる理由が己の「好き」な要素かもしれない。はたまた、全く納得できない内容かもしれない。だが、好きな理由も嫌いな理由も等しく興味深い感想だ。だから知りたいと思う、聞きたいと思う。好きな理由も嫌いな理由も。

しかし難しいのは、万人がそのように思っているとは限らないということである。「好き嫌い」は好みの問題だが、それを「良い悪い」と捉える人もいる。したがって、安易に好き嫌いを話すと人を傷つけてしまう場合もあり、注意が必要だと痛感している。特にその傾向は、万人に愛される作品のファンに対して顕著であり、気をつけたい。きっと、慣れていないこともあるのだろう。

そう。例え自分が「好きな作品の嫌いな理由」を知りたいと思っていても、他者もそうとは限らないのだ。だが、そのうえで伝えたい。あくまで好みの問題だ。他の誰かがその対象を作品を嫌いだと言っていたところで、自分自身が好きならば何の問題があるだろうか。所詮、あくまで好悪の問題であり、好みに由来するだけである。他者の嫌いな理由の中にこそ好きな要素があるかもしれない。そこに感じる魅力は、誰が何と言おうと関係ない。

好きなものは好きと自信を持って胸に刻み、語ろう。それこそが、対象の力になるかもしれないから。



日記録4杯, 日常

2017年6月4日(日) 緑茶カウント:4杯

床に積んでいる本を全て本棚に納められたらどんなにか心地が良いだろう。数えれば一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。本棚から溢れた本の山が床に積み重なり、時には雪崩を起こし、見るも無残な有様。いつかこれを本棚に納めたいと思いつつ、本棚を置く場所がないためにその願望を叶えられずにいる。そろそろどうにか引っ越しをしたい。

最近は太宰治にはまっていて、おすすめの作品を太宰好きの人々から教えてもらい、一つ一つ読み進めている。太宰治と言うと陰鬱なイメージが強く、故に深入りせずに過ごしていたのだが、読んでみて己の認識が間違っていたことに気が付いた。ユニークな話や滑稽な話もたくさんあり、バラエティに富んでいる。てっきり自ら命を絶ち、この世とグッド・バイする暗い話だと思い込んでいた「グッド・バイ」は、十人の愛人とグッド・バイして身辺整理をして妻子と田舎で暮らしたいなぁアハハ、という望みを持つ男が、強烈かつ魅力的な女性に振り回されて全く計画がうまく行かず困り果てる話であった。未完であるのが非常に残念である。

これらの太宰作品は青空文庫で読めるため、kindleのおかげで床面積を支配されずに済んでいるが、新書の類はなかなかそうも行かず、先日購入した本川達雄の「ウニはすごい、バッタもすごい」と町田康の新刊「ホサナ」を買ってまた床面積が一つ減った。そして最近なるしまゆりの「少年魔法士」がついに完結した報せを聴き、本屋を回るも手に入らなかったためamazonで既刊を注文した昨今。ちなみに「少年魔法士」はファンタジー漫画なのだが、発売元の「新書館」はボーイズラブ作品を多く出版しているらしく、件の棚を探しに行ったら非常に場違いな思いをした。しかし発見もあった。何故かボーイズラブ作品の表紙は、カップルがカメラ目線でこちらを見ている構図が多いのである。故に目が合った。すごく目が合った。何故お前らこっちを見る。見つめ合いなさい、自分らを。

いつか本棚だけで構成された部屋を一つ持ちたいものだ。そのように願いつつ、今日も一つ雪崩を起こす。あぁ、図鑑が! 資料集が! まぁ数年後。もう数年後にはどうにかしよう。流石にね。



日記録0杯, 14周年企画, M.S.SProject, 日常

2017年6月3日(土) 緑茶カウント:0杯

さしもの夜型人間の己であっても、二十一時に目が覚めたら驚くのである。しかもそれは携帯電話の振動音によって無理矢理覚醒されてのもの。かの振動音が無ければいつまで寝続けていたかわからない。

疲労の自覚はあったがここまでとは。我ながら驚くばかりである。

さて、睡眠と読書以外にろくろく何もしていない今日。せっかくなので日記を書こうかな、ということで14周年企画でいただいたラストのお題「M.S.S.Phantasia感想と、M.S.S. Projectの現在の印象」について書いてみようか。「M.S.S.Phantasia」が発売されてからおよそ四ヶ月。エンドレスリピートの日々を過ぎ当初の興奮は落ち着いている今、感じることとは何だろう。

聴き始めの当時を思い出してみると、最初の印象は「随分ポップになったな」というものであった。「M.S.S.Planet」「M.S.S.Phantom」と違い、ライブの存在が大きく意識されているように感じる。それは前作「M.S.S.Party」にも感じたもので、より一層顕著になったのが今作「M.S.S.Phantasia」である。いかに皆で盛り上がるか、盛り上げるかということが要になっているように思う。

その象徴たるものが「MISSING LINK」と「I’ll be…」である。前者はあろまほっと、後者はeoheohによる歌唱だ。今までCDにおいて、彼ら二人は無駄トークとコーラスの一部でしか姿を見せていなかったが、ついにこの二人が音楽にも身を乗り出した。彼ら二人はライブにおいてはパフォーマーの役割を担い、初めて観たライブでは各々が思い思いに動いていたが、二回目のライブでは曲に合わせた振り付けのもと、世界観を演出していた。そして三回目に行った武道館ライブではメドレーで代わる代わるソロを披露。たどたどしさもありながら、役割の幅が広がった瞬間を見せてくれ、大いに驚いたことを覚えている。

そこに至る過程を己は知りえないが、活動をする中で「もっとやりたい」という思いが生まれ、その結果であるのなら、それはとてもわくわくするもので、素敵だ。自分の領域以外のところへ踏み込み進んでいく、それは「今後、いかに変化していくか」期待させるものである。

M.S.S. Projectとは不思議なグループだ。音楽がやりたかった二人が集い、四人でゲーム実況を始め、ゲーム実況によって名を馳せた。そうしてCDを発売し、ライブを行いつつゲーム実況も続けながら、それぞれが書籍を発売し、様々なメディアとコラボレーションを組む。その軸はきっと音楽とゲーム実況なのだろうが、やろうと思えば何にでも進出できるのではなかろうか、と思わせるところが面白い。

アルバムでは「Glory Soul」「プロトレジエム」「WAKASAGI」「ReBirth」を特に気に入っている。中でも一等好きなのが「プロトレジエム」で、この系統の曲だけ集めたアルバムを作って欲しい!! と思うほどだ。中盤の「ベーンッベーンッ……」と続くところが気持ち良く、いつまでも聴いていたいと思う。

「Glory Soul」はまず、「貴方がたは海賊だったのかい」と突っ込みつつも、ミュージカルのような曲調が楽しくてたまらない。この曲はライブでも楽しかったなぁ。何となく、彼らの頭の中の海賊はONE PIECEの世界観のそれのように感じる。冒険をして、戦って、宴会をして大笑いをする陽気な奴ら。家族ではないが擬似的な家族に近い存在。M.S.S. Projectにも通じるところがあるだろう。

「WAKASAGI」は何と言ってもFB777の伸びやかな声が耳に心地良い。何度か書いているが、あらゆるものから解放された歌のお兄さんを彷彿とさせる清清しさが大好きだ。とても気持ち良さそうに歌っているなぁ、と思うのだ。この曲は頭の中に映像が展開される。昔観たNHKの「みんなのうた」のような素朴でカラフルな映像が頭の中のテレビ画面に映し出されて、楽しい。

「ReBirth」はちょっとした発見があった。初音ミクの言葉が最初から聴き取れたのだ。M.S.S. Projectの音楽を聴くまで初音ミクとは縁が薄く、電子的な声に慣れていないせいか、歌と言うよりも「音」として聴こえていたため、言葉として認識するまで結構な時間がかかっていた。しかしこの「ReBirth」については最初から「初音ミクの声」としてその言葉を聴き取ることが出来たのである。M.S.S. Projectの音楽を聴くうちに耳が慣れたこともあるだろうが、はっきりくっきり発声されていることも大きいだろう。この曲は聴いていると頭の中に青空が広がる。爽やかで綺麗な曲だ。

「音楽をやりたい」から始まり、作りたい音楽を作る中で、音楽を聴くオーディエンスの存在がだんだんと意識されるようになっているように感じる。ファンを楽しませたい、喜ばせたい、一緒に楽しみたい、そんな思いが創作に反映され、変化しているように思う。

ニコニコ動画は視聴者が投稿したコメントが動画に反映されるシステムだ。もともと彼らの活動の場所は、視聴者やファンの声が届きやすい環境で、その存在を意識しやすい。だからこそ、視聴者やファンをいかに楽しませるか、ということは常から意識されているものだろう。それがライブでより一層ダイレクトに届くようになり、受け取ったものを咀嚼し、飲み込み、新しいものができる。「ライブ」の影響を受けてできたであろう「M.S.S.Phantasia」から、次回作でどのように変化するかが興味深い。

M.S.S. Projectの印象自体は、実は当初から今に至るまで大きく変わらない。彼らは一つの憧れであり、己にとっての幻想である。彼らの活動を見ていて思い出すのは学生時代の仲間達とのふざけ合い。毎日のように顔を合わせ、学食で安いカレーを食べながら何時間も話し、誰かの家に集って酒を呑んで笑い合う他愛の無い日々。社会人になってからはなかなか得られない時間を懐かしみつつ、生じるのは憧れとうらやましさ。それは小さな夢である。そしてまたその夢を、いつまでも見せて欲しいと願う。ONE PIECEの海賊のような、擬似家族のような関係性。そこに映し出されるものこそがある種のファンタジーであり、はたまたユートピアかもしれない。



日記録2杯, 日常

2017年5月26日(金) 緑茶カウント:2杯

とある下り坂に面したこじんまりとしたイタリアンレストラン。ドアーにはめられたガラスから中を覗くと店内にはカウンターとテーブルが二つ。いつ見ても満席で、興味を覚えつつもドアーを叩くことなく通り過ぎていた。そしてある日その店は閉店、否、移転した。壁には移転先の地図とこれまでの感謝の言葉が書かれた貼り紙が一枚。あぁ、ついぞ機会を得ることなく遠くに行ってしまったか、と若干の寂しさを抱きつつ通過したのは幾月前か。そう、確かにあのとき己は地図をよく見なかった。

駅から自宅までの道、それのまた違うルート。気まぐれに歩いた別の道にその店はあった。何と。遠くに行くどころか近くに来ていたとは。軒先は美しい観葉植物で彩られ、ドアーの奥には広々とした空間が広がり、暖かな色合いの光で染められている。これも何かの縁だろう。ちょうど腹も空いている。そうしてついに自分はそのドアーを押し、店内に踏み入ったのだ。

入り口のドアーも、観葉植物も、足元のタイルも、傘建ても、店を構成する一つ一つに気が配られていて、内装も凝った調度品が置かれ、美しい。布でできたランプに、回転する照明。あの小さな店の主はここに移る際、きっと喜びと希望をこの店に詰め込んだのだろう。理想の店を作るべく、あらゆるものにこだわりを発揮したのだろう。そのこだわりの一つが手書きのメニュー表かもしれない。

かもしれない。が、読めない。
いや、読める。ギリギリ読める。読めるが、非常に読みにくい。

それはミミズがのたうったような字で、文字と文字が奇妙に繋がり、変形し、文字から図形へと変化していて、意味を読み取ることが難しい代物であった。それが美しい和紙のメニュー表全体にバラバラと散らばっていて、さらにはカウンターの真上の壁に設置せられた巨大な黒板にも同種のミミズがのたうっていて、布でできたランプや回転する証明が作る美しい空気に堂々と勝負を仕掛けてきているのである。のたうつミミズが。

何だこれ、と衝撃に狼狽するも他の客は楽しげに店員と会話をしていて、再びまじまじとメニュー表を眺めるもやはりそこにはミミズがのたうっていて、黒板にものたうっていて、念のため断っておくとそれは英語やイタリア語の筆記体でも何でもなく、純粋な日本語の偏やつくりが自由奔放に跳ね回る、というか悶え苦しんでいるような有様で、しげしげと眺めるにやはりこれは妙だよなと再認識し、何でこの字が野放しになってんだ、誰か指摘しないのかと疑問を抱きつつ、何とか読み取ってチーズの盛り合わせとソーセージのソテーを食べてビールを呑み、不思議な空間を後にした。

のたうつミミズ、のたうつミミズ。味は普通。味は普通だった。味は、普通だった。味は。