日記録0杯, 日常

2017年12月30日(日) 緑茶カウント:0杯

紅白歌合戦を観ながら毎年実感することは、出会えたことの奇跡である。

一年の総決算として、この一年に流行った歌は何だろうと知るためにNHKを観る夜。そのために夕飯の準備を済ませ、家族揃ってこたつを囲む特別な夜。その夜に歌われる数々のミュージシャンの楽曲、これが一つも心に響かない。

しかし。それは紅白に出場するミュージシャンが己の信奉する人々より劣っているかと言えば断じて違う。そう。ただの好みの問題でしかない。己には心の支えとなる音楽を奏でる人々がいて、それは知っているけれども、紅白歌合戦には出ず、また紅白歌合戦では見つけられない。たったそれだけのことなのだ。この世に何千何万ある数々の楽曲の一つに、たまたま自分が出会えた運の良さ。幸福。ありがたさ。それを噛み締めるだけなのだ。

よくぞ出会えた。ありがたい。そして知らない音楽の数々を知る一夜。うわあ格好いい! 素敵な歌詞だなあ、歌がうまいねえと語る夜。楽しい。信奉する音楽以外の世界を知る夜。それはとても楽しく、とても新鮮で、とても面白いのだ。あくまでも愛するのは己のルーツだとしても。

貴重な、年に一度の一夜である。



日記録0杯

2017年12月30日(土) 緑茶カウント:0杯

おめでとう、と送った言葉はそのまま宛先不明で返ってきた。それは若干予測していたものであったが寂しかった。

小学校から仲の良い友人がおり、その友人と甘いものを食べながら喫茶店で珈琲を飲んだ。盆や正月のたびに会っているため話題は尽きないものの互いのことを知り抜いている幼馴染。その友人の結婚式で再会した人物があった。再会してからは一年も経たず、半年を越すくらいの月日。しかし会ったのは十年ぶりで、結婚式の後、もっと話さないかと彼の人に誘われ、お茶を飲みながら会話をし、連絡先を交換したのであった。

その連絡先に打ったメールは宛先不明で返ってきた。若干予測していたものの寂しかった。

彼の人は写真が好きで、結婚式で撮った写真を己にも送ろう、そのためにメールアドレスを教えてくれと言った。メールアドレスを教えた。結婚式の後、もうちょっと話したいからと誘われファーストフード店に入り長々と話した。楽しかった。たまに集まろうと話した。個人的な悩みも聞いた。しかしその後己のアカウントに写真が届くことはなく、何の音沙汰もなく月日は過ぎ、彼の人が結婚したと又聞きして祝福のメールを送ったところ、それは宛先不明で返ってきた。

宛先不明の祝福。もしや、のっぴきならない事情があったかもしれないが。いや、たかだかメールが届かずそのまま戻ってきた程度で友人の不幸を願うのもおかしな話だ。あの日友人が教えてくれた個人で活動するためのサイトも何もかも消えていた。何があったのかわからない。何もなかったのかもしれない。何もなく、ただ嫌われたのかもしれない。その答えはわからない。わからないが、己はどちらを願うだろう?

年の暮れに思いを馳せる。宛先不明で戻ってきた、一通のメールに。今。



日記録0杯, 日常

2017年12月29日(金) 緑茶カウント:0杯

だらだらした日常を送りつつも、運動を欠かさず行っているので褒めて欲しい。

何だかんだで、ずっと掃除が苦手だったものの九月から心機一転努力を始めたところ毎日の掃除を習慣化できるようになり、あれっ自分やればできるじゃん、と驚きながら継続している。そして今は一ヵ月半ほど日々の運動を日課とし、この年末年始さえ継続できれば来年は大丈夫なんじゃなかろうか、と希望を持てている。

欲しいのは体力。落としたいのは体重。引き締めたいのは自分自身。一年の計は元旦にありと言うが、ずっとだらだら生きてきた人間には元旦じゃあちょっと日が遅い。故に今から頑張ろうと意識しつつ、ちょこちょこ、日々をこなしている。

行けるかな? 行きたいな。



日記録4杯, 日常

2017年12月24日(日) 緑茶カウント:4杯

劇場版仮面ライダーの感想を書いたところ、思いのほか多くの人に読んでもらえたという嬉しい出来事があった。感想を書いたのは二週間近く前だったのでまさに青天の霹靂である。アクセスが急増していることに気付いたときには炎上していたらどうしよう、何かまずいことを書いたかしらん、とヒヤヒヤしたが、ちょこちょこ反応を見て回ってみると好意的に受け取っていただけているようで安心した。何より嬉しかったのは、「こんな感想を書くファンがいるなんて、大槻ケンヂさんって素敵な人なんですね」というコメントを拍手とメールで複数いただいたこと。そのように感じ取って受け取っていただけるって、何てありがたいことだろう。嬉しくて嬉しくてニコニコしてしまった。

その中で抱いた小さな違和感と、その正体に気付いた話。驚いたのだが、己が書いた感想に対し「まっすぐ偏見なく受け止めてくれて嬉しい」といったコメントをちらほら見て、それがどうにも不思議だった。仮面ライダーは世間にも認知されていて、ものすごくメジャーな作品なのに、それを愛する人々は何故だろう。全員ではないが、どこか日陰者の感覚を持っているようにも見えた。それは自分にとってとても近しい感覚で、だからこそ、何故こんなに有名で、人気があって、シリーズ化されている作品のファンがそのような思いを? と疑問に思ったのだ。

じっくり考えて思い当たったのは、子供向けと言う言葉。嘘か真かわからぬが、仮面ライダーの玩具を集めている家族に対する辛辣な意見や実力行使の類をインターネット上で目にすることは少なからずある。そこにはまるで自分に優位性があるかのような振る舞いや言動を感じることさえある。そしてそれは仮面ライダーに限らず、趣味者に振り下ろされる斧でもある。どうにも世の中には、大人として適切な趣味なるものが存在し、それ以外に対する風当たりはどうにも強いのだ。

しかし。もし自分が死ぬほど愛好しているものに対し、「早く卒業したまえよ」と声をかけられたらどのような気持ちがするだろう。自分が大切にしているものに対し、軽んじられる視線を投げかけられたらどのような思いがするだろう。

それはきっと、言うまでもない。マイナーだからこその理解されない寂しさは知っていたが、有名か否かが問題ではなく、至るところにそれはある。じゃあ、自分はどうするか? そうだな。メジャーでもマイナーでもどんなものでも、人の大切にしているものを、尊重できる人間でありたい。それがどんなものかはわからなくても、大事にしているなら大事にしたい。意識的にも無意識的にも。

そんなことをじんわりと思った、クリスマスイブの夜である。前日には筋肉少女帯のライブに行って、今日は仮面ライダーの映画を観て、夜にはビールを呑みながらオーケンのラジオをいそいそ聴いた趣味者の夜。誰にも糾弾されない夜である。



日記録0杯, 日常,

2017年12月18日(月) 緑茶カウント:0杯

これはだね、ここ数年考え込んでいることだけれども、今も答えの出ていない話なのさ。それを前提に聞いて欲しい。

少食の人が外食で御飯を残すことは、責められることなのだろうか。

前提として、自分自身は「御飯を粗末にしてはいけない」と教育され、それを当然のものとし、食事の前には「いただきます」を、食事の後には「ご馳走様でした」と食に感謝することを習慣付けられ、出されたものは基本的に平らげ、それを当然のものとして生きてきた。

しかし、苦手な食べ物も多い。そういったものは一人のときには選ばず、同伴者がいるときには代わりに食べてもらうことを願い、叶わないときには我慢して飲みこみ、それで事なきを得てきた。運良く、己の苦手とする食べ物は他者にとっての好物であるパターンが多かったのが救いだ。

そして少食について、である。社会に出たとき、「もう食べられない」「ご馳走様」と言って食べ物を半分近く残す人を見てきた。そのたびに己は「みっともないなぁ」「こんなに残すなんて恥ずかしくないのだろうか」と批判的な眼差しを向けてきた。だが、歳を重ねるにつれ、徐々に受け取り方が変化してきた。この人達は、ある種のマイノリティではないのかと。

それはつまり、社会で一般とされる量の食べ物、それが適量ではない人達、という意味である。

このとき思い出したのは己が一人暮らしを始めた直後の出来事。我が家は四人家族で、父、母、自分、妹という構成であったが、父は単身赴任であるため家にいることが少なかった。母は料理上手で、子供達が「物足りない」と感じることに悲しみを感じる人だった。故に毎日食卓には主菜副菜、色とりどりの美しい料理が並べられ、その美味しさを当然の如く堪能していた。

しかし妹は食が細く、一人前を食べきれない。故に自分が妹の分も食べることが常であった。つまりいつも一人前以上の量を食べていて、苦しいと感じることも少なくなかった。母に食事の量を減らして欲しいと話したこともあったが、たまに妹も一人前以上食べることがある故に、誰かが飢えることを恐れている母は必ず家族の人数分の食事を食卓に上らせていた。

で、だね。大学に入ると同時に一人暮らしを始めたときのこと。「適量」と思う量を自ら作って食べるようになったら、一ヶ月か二ヶ月で七キロも体重が落ちたのだ。もともと標準体重の中ではあったが、そのランクの上位レベルから中位レベル程度に落ちたのである。

そしてこのとき、己は「適量」と感じる量だけ食べられることの幸せを知ったのだった。それは苦しくなく、ちょうど良かった。それまでの自分は腹がパンパンになるまで食べるのが普通で、ちょっと苦しい、と感じるのが当たり前だった。それが無くなったのは驚きであり、衝撃だった。

母を責めるつもりはない。実際、妹はイレギュラーに大量に食べる日もあって、それは予測のつかないことであった。子供を飢えさせたくない気持ちもわかる。同時に、母と自分に共通してあった、食べ物を粗末にしたくない気持ちも理解できる。

それらを通して思うのだ。誰か代わりに食べてくれる人がいない中で、少食の人が生きていくのにこの世の中はなかなか難しいのではなかろうか、と。

食べ物は残さない方が良い。しかし外食のたびに適量以上の量が出されるのが常で、食べ残せば「もったいない」「食べ物を粗末にしちゃいけない」と責められるのは結構な心理的負担だろう。それを回避するためには、外食のたびに「量を減らしてもらえますか」と打診せねばならぬが、それが通らぬこともあるし、いちいちそれを言わねばならないことも負担だろう。

当たり前のように食事を残す人を見て、「嫌だなぁ」と思う気持ちも正直、ある。しかし、残した食事を見咎めて「食べ物を粗末にしちゃいけませんよ」と責められ、いたたまれない顔をする人を悲しむ気持ちも同じようにある。そしてそれは、同じ場面で起こることなのである。

自分はたまたま胃袋の大きさが適当だっただけだ。とはいえ、食べ物を粗末にするにはよろしくない。その間で揺れ動いている。この感情に決着が着くのはまだまだ先だろうと思う。故に己は、嫌悪と寂しさと悲しさと困惑を抱きながら食事処に立っている。まだ、答えは見つからない。