日記録3杯, 日常

2013年7月13日(土) 緑茶カウント:3杯

あー幸せだ。

整体に行って首と肩を重点的にほぐしてもらい、美容院でちょっと良いシャンプーで頭皮マッサージをしてもらい、髪を切って涼しくしてもらって、入念に首と肩と背中をマッサージをしてもらった。

今朝首の後ろに感じていた固く重い厄介なものがすっかりとろけて消えてしまっている。あぁ、気持ち良かった。そして今日は鯵の塩焼きとナスの味噌田楽もどきを作り、もずくを用意してビールを呑み、ぬるーいお湯にゆったり浸かって、またビールを呑んでいる。

あぁ幸せ。あぁ幸福。
明日もゆったり一日過ごそう。



日記録5杯, 日常

2013年7月12日(金) 緑茶カウント:5杯

恋バナなるものをしたのだよ。

恋バナという言葉が生まれたのは今から十年前だろうか。当時やっていた進研ゼミの付録の冊子に恋バナコーナーなるものがあり、こんな流行り言葉が進研ゼミの冊子に載るのかといたくショックを受け、けしからんと憤った記憶がある。そしてその後恋バナなる単語とは直接的な関わりをほとんど持たない生活を送ってきた。一つは恋バナという言葉のちゃらついた感じがあまり好きではないため、もう一つは恋愛関係の話題自体が苦手なためだ。

そんな自分だが、今日は友人と電話で一時間近く恋バナなるものをした。いや、したと言うのは正確ではない。聞いたというのが正しい。友人の恋バナに積極的な相槌をし、会話を楽しむということをした。なるほどなるほど、そういった経緯で交際を始めたのか、彼女はそういう人なのか。友人の恋バナは面白かった。

何というか、のろけてるのか面倒くさがっているのか諦めているのか喜んでいるのかよくわからないテンションで、そのくせその全ての要素が友人にあてはまっており、最終的には人生の話になった。交際相手を褒めてはいたが、どこが好き、といった話は全く出てこず、性的な要素も皆無。非常に冷静に自らの立場を分析しつつ今後の身の振り方の考察をしていた。

まるで論文を音読されるような恋バナだった。もしかしたら恋バナじゃなかったのかもしれない。



日記録5杯, 日常

2013年7月11日(木) 緑茶カウント:5杯

驚いた。夜、道を歩いていたら左頬に衝撃を覚えた。何か固い物が衝突した感触。ところで自分が歩いていたのはどこかと言うと、木に囲まれたちょっとした小道だ。冬は静まり返っているが、夏はカナブンやセミがうようよしていて賑やかななかなか楽しい場所である。

しかしここ。カナブンやセミだけなら良いが、厄介なことに夏場はゴキブリもしょっちゅう横断しているのである。それを踏まえて想像して欲しい。何かが左頬にぶつかった瞬間の己の心境を。

痛っ。何だ? カナブンか!? セミか!? って肩の後ろに落ちたぞ! 付いたぞ! セミっぽくは無いぞ!? 何色だ、カナブンか? カナブンなら良い! ゴキブリだったら嫌だ! 何だ! 見えない! 何だお前! 何だ! 何色だ!!

いくら虫好きでもびびる。

そうして慌てふためいていたら向かいから歩いてきた外国人に流暢な日本語で「どうしましたか?」と聞かれた。「虫が顔にぶつかったようで」と言いつつ上着を脱いでいると、付いていたのはカナブンだった。

「取りましょうか?」
「あ、大丈夫です。今落ちました」
「カナブンですね」
「カナブンですね。お騒がせしました」
「いえいえ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」

カナブンを小道に置いて親切な外国人と別れた。別れた後思ったが、あの人はよくカナブンなんて単語を知っていたものだ。もしかしたらあの人も衝突されて驚いて図鑑で調べたことがあったのかもしれない。



日記録5杯, 日常

2013年7月10日(水) 緑茶カウント:5杯

ようやく五キロの壁を突破した。四捨五入すれば六キロマイナス。目標体重まであと一キロ。去年の二月より筋トレを始め、最初の四ヶ月は気持ち良く変化を感じられたが、その後は現状維持と一進一退を繰り返し、途中一キロほど戻りつつ、最近またスルスル減るようになってきたのだ。

一ヶ月で二キロ三キロ減らすことを目標としている人から見ればゆっくりにも程がある進行具合だが、好きなもの食べ、酒を呑み、ただ筋トレだけを続けてこの値を得られているので自分としては満足である。体脂肪率も良い具合に減った。服のサイズもまた少し変わったようである。そして何より嬉しいのが筋肉がついたこと。以前より確実に力持ちになった。

よし、あと一キロ。ここまで来たのだ、頑張るぞ!



日記録7杯, 日常

2013年7月9日(火) 緑茶カウント:7杯

友人の友人は他人であり、友人の恋人も他人である。

さて、では友人同士の集まりに、友人がその友人や恋人を連れてきた場合、我々は友人になるだろうか。

自分としてはならない。単に知人が増えただけ。その人と個人的に話をしたりして、臭い言い方をすれば友情を育まない限り、その人は永久に知人であり他人である。こういった厳格な決まりが自分の中にはあるのだが、やたら友人同士の集まりには顔を出すがこれと言って話したこともなく、向こうも恐らくこちらの名前を知らないという間柄にも関わらず、「仲良しグループ」なるカテゴリーで括られ、その中の人々は全員友人関係を築いているという前提で話をされることに不満と拒絶感を抱いているが、困ったことに「いやその人別に友達じゃないよ」と表明した場合、とてつもない人非人扱いされる危険性が高く、このところずーっともやもやしている。

この状況を打破するためにある方法のうちの一つは、その知人と友情を育んで本当に友人になってしまうことだが、そもそも自分は友人同士の集まりに特に関係の無い人が紛れ込むこと自体が嫌で、まぁその集まりがただの漠然とした集まりなら良いのだが、例えば趣味の集まりとか、そういった目的や共通項がある集まりに、その集まりの一番の目的には何の興味も関心も関係も無いが、単にそのメンバーの友人や恋人だから参加する、という人が嫌で、自分の空間を土足で踏みにじられるに近い嫌悪を抱く。目的が失われ、どんどん薄まっていくことを非常につまらなく感じるのである。

無論連れてくる人の方は「賑やかな方が楽しいから」「新しい人を紹介したいから」という風に、良かれと思って連れてきていることはわかっているのだが、やっぱり自分は嫌で、しかしそれを表明するのも大人気ないので黙って我慢しているのだが、我慢しているとそんな不満を抱えていることになんぞ誰も知る由も無いわけで、薄い薄いべっとりとした水粥の中で悩んでいる。

結局、心が狭いってことなのだろうなぁ。