日記録0杯, 日常

2019年9月29日(日) 緑茶カウント:0杯

こはいかなる凶事ぞ。あぁ、本来であれば彼らは志を同じくする仲間だったに違いない。それなのに何故、こんな悲劇が生まれてしまったのか。その凶行が行われた、いや、起こってしまった現場を見たとき、己は元気に暮らしていたあの姿を思い出して、そして変わり果てた姿を見て、茫然としながらその遺骸をただただ眺めるしかできなかった。

我が家には己以外に二つの生き物が生息している。一つはハエトリグモで、もう一つはハエトリグサ。前者は気付いたら棲みついていて、代替わりをしながら我が家の水辺を中心にあちらこちら闊歩している。後者はこの夏に花屋の軒先で売られているのを見て、嬉しくなって買ってきたもの。筋少のアルバム「Future!」をこよなく愛する自分にとって、その象徴とも言える植物は特別な存在で、我が家で一番日の当たる風呂場に置いて毎日水を欠かさずやり、その愛らしいトラバサミのような葉をにょきにょきと増やしていく様をそれは楽しく眺めている。

ところが悲劇は起きた。
どうしてか台所や洗面台や風呂場、我が家の水辺を好んで意気揚々と闊歩するハエトリグモが。うっかりそのトラバサミのような葉に触れてしまったのだろう、愛しい彼は愛しい食虫植物の餌食になってしまったのだ。



日課の水やりを行い、ふと一つの葉が閉じていることに気付いて凝視すれば葉の裏に見える黒い影。ガッチリと閉じた口からはみ出る足の生々しいことと言ったら。あぁ、ハエトリグモとハエトリグサ。たった一字しか違わず、ハエを捕え食すという同じ志を持った者同士でどうしてこんな悲劇が起きたのか。凄惨な事件が起きた現場で己は鉢を抱えながら、ただ茫然とするしか他に術はなく、在りし日の姿を思い浮かべ何とも言えない寂しさを噛みしめた。

せめてしっかり、消化してほしい。



日記録0杯, 日常

2019年9月22日(日) 緑茶カウント:0杯

「家計簿をつけよう!」と思い立ち、二ヶ月前から家計簿をつけている。きっかけは長年愛用していたガラケーに別れを告げ、スマートフォンを購入したこと。そしてさて何のアプリをインストールしようかと考えて、父がiPadで家計簿をつけていたことを思い出し、家計簿アプリ「Zaim」の使用を開始して、今に至る。

過去にも家計簿はつけていた。最初は大学生の頃で、ノートに支出を記録していた。頑張ったもののそう長続きはしなかった記憶がある。二回目は社会人になってから。フリーソフトをパソコンにインストールして二年ほど続けていた。これはなかなか頑張っていて、お金が少ない中でどうやりくりするかを必死で考えて運用していた。当時はナスだのトマトだのの価格を一つ一つ手入力していたので結構大変だったが、努力の甲斐があり食費や日用品費にいくらかかるかを把握できたため、家計簿を卒業しても問題なかろうと判断したタイミングで記録をつけるのをやめた。それが七年ほど前か。

そして今、またちょっと予算をきちんと管理したいなぁと思い、父が使っているアプリならレシートの写真を撮るだけで記録ができるので、これなら続けやすかろうとまた家計簿の運用をスタートした。で、これがとても良い。前に書いた通りレシートを読み取るだけなので手間がかからないし、レシートを読み取ったら捨てる習慣がついたので財布が膨れることもない。何より、月のどのタイミングで支出が増えるか把握できるようになったのがとても良かった。

と言うのも、月末月初には家賃・公共料金・クレジットカードの引き落としが重なるせいで、結構な金額の支出がある。故に収入を得たばかりであるのに多くをたったの一週間か十日で使ってしまって、まだまだ次に収入を得るまでに日があるにも関わらず懐が心もとなくなってしまって不安になることが多々あったのだ。だが、この月末月初を過ぎたらそもそも支出が減ることがとても良くわかったので不安になる必要がないことを理解できた。この安心感が得られたのはとても良かった。

あとはきっちり月の予算を設定することで、日々使って良い金額を意識できるようになったのも実に良かった。予算設定したからにはオーバーせずにやりくりしたくなるため、月末が近づくと「じゃあちょっと食費を抑えようかな」なんて意識が働き、結果的に普段あまり出番のない乾物や缶詰を活用しようという意識も生まれ、ずっとある食材をそのままにせずに済むようになったのも嬉しい。今日は干ししいたけを水で戻して甘辛く煮て甘煮を作った。あといただきもののトムヤムクンの缶詰もせっかくなので食べてしまおうと思う。自炊が基本の生活だといただいた缶詰やレトルトを食べる機会があまり無いため、こうして機会を作れるのは嬉しいことだ。

ということで、今月の予算は残り千円を切っているがまぁ問題なかろうと心安らかに過ごしている。普段はビールを呑むのが週末の楽しみだが、今夜は家にある赤ワインを開けた。つまみが欲しくなったら冷蔵庫の卵とチーズで何かを作ろう。確かベーコンもほんのちょっぴり残っていたはずだしね。



日記録0杯, 日常

2019年9月16日(月) 緑茶カウント:0杯

ボーイズラブとは何ぞや。それを思ったきっかけは、大好きな作家である町田康がボーイズラブ小説に初挑戦するという記事を読んだからだ。曰く、古典作品をボーイズラブ化したシリーズの新連載を町田康が描くという。主人公は清水次郎長で下敷きとなる作品は「東海遊侠伝」とのことだ。

この話を聞いたとき己は非常にびっくりしつつ大きな興味を覚えた。理由は、町田康の筆致でのボーイズラブがイメージできなかったためで、同時に「ボーイズラブとは何ぞや?」という疑問も浮かんできたからだ。

振り返ってみると、ボーイズラブかボーイズラブでないか曖昧な作品を己はよく読んでいる。萩尾望都の「ポーの一族」「トーマの心臓」「残酷な神が支配する」、山岸凉子の「日出処の天子」、青池保子の「エロイカより愛をこめて」、よしながふみの「きのう何食べた?」。どれも少女漫画として手に取っていて、同性愛要素も含まれていた作品だ。そしてこれをボーイズラブと言う人もいれば、そうでないと言う人もいる。

ボーイズラブとは何ぞや。

考えてみるに、同性愛者の恋愛が物語の主軸となり、読者層を女性にターゲットを絞った作品がそれにあたるのではないかと思う。すると、町田康の描くボーイズラブがとても気になる。同性愛者が作中に存在するだけでなく、しっかりボーイズラブとして描かれるのか。

個人的には「きのう何食べた?」はボーイズラブではないと思う。あれはゲイの主人公とそのパートナーを中心とした日常を描く物語だ。それはボーイズラブを否定しているわけではなく、より幅広い読者層が想定されていることを読んでそう思う。
だからこそ、町田康の描くボーイズラブが興味深い。

町田康の詩集を鞄に入れて常時携帯し、その言葉に救われてきた人間がどうして興味を持たないことがあるだろう。単行本が出るのはまだまだ先だが、出版を根気よく待とうと思う。いったいどんな新境地が描かれるのか。楽しみだ。



日記録0杯, 日常, 重陽の節句

2019年9月9日(月) 緑茶カウント:0杯

皆の衆よ、覚えておいでかな。そう。今日は年に一度の。年に一度のあの重陽の節句だよ。五節句の中で一番知名度が低くも愛らしい菊の花の節句だよ。毎年毎年この日になるたびに、己がしつこく日記に書いてはアピールしているあの重陽の節句だよ。

しかし今日も特に重陽の節句とは関係ないことをして過ごした。菊の花を浮かべた酒ではなく、麦茶とコーヒーと牛乳を飲んで過ごした。それでも己は重陽の節句を愛している。だから今年も、来年も、必ずこの日を祝おうじゃないか。

ということで重陽の節句でした。来年もよろしくお願い致します。



日記録0杯, 日常

2019年9月7日(土) 緑茶カウント:0杯

ここ数年で気付いたのだが、己はそこそこ裕福な家に生まれ、それを意識せず育ったらしい。
そして、それに気付いたことはどちらかと言うとショックであった。何故なら、己はごく平均的な家庭に生まれ育ったと信じていたので。
とはいえ平均があれば平均の上も下もあるのだ。テストの点と同じようにね。

地方の田舎の一軒家に住んでいて、父は三十の時にローンを組んでこの家を買った。母は専業主婦で、毎日美味しい料理をたっぷり作ってくれた。幼少の頃は親戚より仕立ての良い服を贈られ、それを着ていた。海外旅行に行ったことこそなかったもののサッカー観戦に家族で出かけ、時には旅行をしていた。週に一度は外食に出かけ、ちょっと良いレストランかリーズナブルなファミレスで団欒を楽しんでいた。中学の頃、当時では最先端のパソコンが自宅に会ったのは己ともう一人のクラスメイトだけだった。インターネットの接続料に月三万円かかったが、親に苦い顔をされたものの止められることはなかった。

高校と大学は私立に行き、一年間浪人もした。妹は高校は県立に、大学は私立に行った。奨学金をもらったものの、その大部分は卒業後に親に補填してもらった。曰く、己と妹の在学時期が重なる頃は家計が厳しかったが、卒業後には落ち着くので、もともと学業のお金は出すつもりだったのでまとめて返済しなさいとのことだった。ちなみに己も妹もそれぞれ別のアパートを借りて一人暮らしをし、仕送りをもらって生活していた。重なる時期は二年あった。

今思えばよくもまぁここまでお金を出せたものだと感心しつつ、それを当たり前のように受け、当たり前だと思っていたことが恐ろしく感じる。大学を卒業し、社会に出てそろそろ十年か。お金を稼ぐ大変さを知り、やりくりの苦しさを知り、最近はやっと余裕が出てきたものの、人の話を聞くたびにいかに自分が恵まれていたかを知ることが増え、そのうえで、寂しさと正体不明の負い目を感じる。己はただただ、運が良かっただけなのだ。

それは、運が悪いと言ったらあれだが、己にとっての当たり前が決して当たり前じゃなかった人の話を身近で聞くようになったからだ。そうしてそれが苦しいからだ。では、じゃあどうするか。その答えはない。ただ、自分の境遇を当たり前と思わず、驕らず、感謝して、ただただラッキーだったと知って、前へと進んで行こうと思う。

己はただ、ラッキーだったのだ。