2018年12月13日(木) 緑茶カウント:0杯

およそ十四年になる一人暮らしの中で、記憶にある限り恐らく初めて刺身を買った。生魚が苦手なためにこれまで自発的に食べようと思ったことがなく、故に縁が無かったのだ。

だから驚いたよ。刺身ってのはなかなか高いのだね。今までスーパーの刺身コーナーをじっくり眺めたことが無かったから全く知らなかった。こんなに小さなパックで五百円もするのか。なるほど、刺身とは贅沢品なのだなぁと頷きながら籠に入れ、レジに通して帰路に着く。初めての刺身。よって今日は刺身記念日である。

そしてこの刺身記念日は大根のツマ記念日にもなった。

刺身を別の器に移し、パックに残る大量の大根のツマを見て己は思い悩んだ。どうしよう、これ。どうしたものか、これ。捨てるには忍びない。しかし生魚が触れていたことを考えるとこのまま食べるのも怖い。この刺身だって火を通して食べる予定なのである。うーん、どうしたものか。

悩んだ挙句、煮た。とりあえず煮た。とりあえず煮るだけでは何なので出汁と味噌を入れた。くつくつ煮た。
で、これが美味しかったんだな。

これまで刺身との縁が薄かったため大根のツマを口に入れたことも無かった。よって知らなかった。大根のツマ、これはなかなか美味しい。汁物にしたらヘルシーなヌードルのようになって実に良い。シャキシャキとした食感も楽しく、食べ応えがあるのも良い。

良いじゃん。大根のツマ、良いじゃん。

思わぬ出会いに感謝しつつ、刺身はいらんので大根のツマだけ大量に食べたいなぁ、専用のスライサーを買おうかなぁ、と思いつつシャクシャク食べた。美味しいね、大根のツマ。




2018年12月5日(水) 緑茶カウント:0杯

昨日から情緒が崩壊していてどうにもならなくなったため、午前中にあった用事を無かったことにし、ふらふらと公園を散歩した。イチョウが黄金に染まっていて、空も地面も輝いていた。つけている意味があるのかと問いたくなるほど長いリードを握った人が犬に引っ張られて歩いていた。

とめどなく涙が溢れていた。傍から見れば不審だろうなぁ、と他人事のように思った。

ぽくぽくと歩き、本屋に行った。ドリフターズの新刊を手に取り、棚をゆっくり眺めてレジに行った。買ったのは結局一冊だけだった。

そのまま歩く。どこに行こうかと迷った。木枯らしが寒かった。温かいものを飲もうと思った。

一度だけ入ったことのある喫茶店で生キャラメルミルクコーヒーのMサイズを注文した。普段、喫茶店ではブラックコーヒーばかり注文していてこういった変わり種とは縁がない。どんなものが出てくるかあまりイメージできなかった。

出てきたのは、コーヒーカップにたっぷりと注がれた真っ白な液体に、ふんわりと生クリームが浮かんだところに生キャラメルの線が引かれたもの。口にするととろりと甘く、苦みは全く無かった。

固いソファに体重を預け、もう一口飲む。おいしい。Lサイズにすれば良かったな、とちょっとだけ小さなカップを悲しく思った。

しばらく休み、喫茶店を出たら午になっていた。頭痛がしたが、涙は止まっていた。ひどく疲れていた。だからこの飲み物はちょうど良かった。ちょうど良かったなと思った。

まぁ、何とかなるでしょう。しばらくはしんどいに違いないが。




何だろう。不思議なほど、新譜発売記念ツアーという感じがしなかった。新曲が演奏される通常のライブの空気に近いように感じた。

しかしそれは己にとって程良いものだったのかもしれない。アルバム「ザ・シサ」を何とか消化しつつも、消化しきれないものを抱いていた自分にとって、ちょうど良く心地良いライブであった。

それは「ザ・シサ」を象徴する三曲が演奏されなかったせいだろう。「セレブレーション」「セレブレーションの視差」、そして「パララックスの視差」の三曲。加えて「ケンヂのズンドコ節」が披露されなかったことも残念だが、特にこの三曲が披露されなかったのは印象的だ。同時に、この三曲こそがアルバムを象徴するものと改めて感じさせられる。

開演前に延々と流れていたのはザ・スターリンの数々の名曲。十月に膵臓がんの手術を受け、現在リハビリ中の遠藤ミチロウへの想いが込められたものだろう。「STOP JAP!」「メシ喰わせろ!!」と叫ぶ高らかな歌声を聴きながらじっと立ち続ける四十五分間。改めて、あぁ、筋少のライブだなぁとしみじみ思った。ザ・スターリンをリスペクトする筋少の。

「暴いておやりよドルバッキー」を歌った後、オーケンは言った。何てひどい歌詞だろうと。夢を持つ人や愛を語る人に水を差すことを言うなんて、と。それに対しおいちゃんが「気付いてたよ」と呟き、もっと早く指摘してよとオーケンが笑いながら叫ぶ。

そのシニカルなものの見方を心の支えにしている人間としては、ちょっと寂しいやりとりだった。

「衝撃のアウトサイダーアート」はやはり何度聴いても歌詞を理解できない。共感できない。わからない。わからないが、ライブで橘高さんを目の前にし、その指がバリバリ動く様を見て、全身に浴びる音の洪水の威力に胸がいっぱいになり、圧倒される。わからないながらも、格好良い。

同じくわからないながらも格好良く、その迫力に息を呑んだのが「マリリン・モンロー・リターンズ」。妖しい照明と相まって実に美しく格好良く、妖艶だった。本日はオーケンの声も絶好調で、シャウトも語り声も耳に心地良く、ゾワゾワさせる迫力を持っていた。アダルトな曲調を歌うのが響くようになってきているように思う。

格好良いなぁ。
格好良いけど、わからんなぁ。

そんな己にとって、アンコール最後の曲が「セレブレーションの視差」でも「パララックスの視差」でもなく、前作の代表曲「ディオネア・フューチャー」だったのは一つの救いだったかもしれない。同じ「来世でもお会いしましょう」という言葉も、「宇宙の法則」は美しいと思いつつもピンと来ず、「Future!」に収録される「オーケントレイン」の言葉であれば心を鷲掴みにされる。それは、たった一人の愛しい人に向けた言葉か、有象無象に向けた言葉か、その違いによるものだろう。

有象無象であるゆえ、有象無象への言葉が響くのだ。
そして、有象無象でありたいと願うのだ。

開演後と終演後に流れた録音の「セレブレーション」の美しさを聴きながら、終演後、皆で「セレブレーション」を歌うことを促す橘高さんを見上げながら、この曲が演奏されなかったことを残念に思いつつ、演奏されなくて良かったと思った。演奏されてしまっては、生で聴いてしまったなら、きっとしんどかっただろう。それほどの威力がある曲なんだ。

サプライズで挿入されたオーケンの弾き語りによる「パノラマ島失敗談」に、インストゥルメンタルの迫力が素晴らしい「夜歩く」と、語りの威力を堪能出来た「再殺部隊」。あぁ、どんなに嬉しかったことだろう! 特に「夜歩く」の息を呑む恐ろしいほどの美しさ。フレットレスベースを弾きながらぴょんぴょん跳ねてリズムをとる内田さんの格好良さよ! 「再殺部隊」の語りも素晴らしかった……。

新曲では「ゾンビリバー」と「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか」が印象的だった。「ゾンビリバー」の演奏の凄まじさと、のどかな曲調ながらも物騒なことを歌い上げる「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか」のギャップ。そして、泣きそうになったのは「ネクスト・ジェネレーション」だった。

新譜の発売前に初めてライブで聴いたときには、「おい、ちょっと待て、曲中のバンドマン!! 学生に手を出すのはやめなさい!!」と思ったものだが、アルバムを聴くにつれ切なさが募り、たまらなくなる。ぐらぐらと来るのは主人公の言葉よりもその母親の語り。「ライブだけが人生で他はみんな夢なんだ そんなことを言うからさ 捨てちゃった」「人は地に足をつけてこそ咲くのよ 夢よりも美しい向日葵」。あぁ、こうして現実を見据えて生きていく人の、その人の人生の遠くで今も生き続け、夢とされる世界で何十年も歩み続ける人がいるのだな、と。

それは「I,頭屋」に通じるものだと思う。いい気なもんだと思われて、夢のようなことや愛のようなことを叫んで金をもらい、馬鹿だなぁ、現実を見てないなぁ、世の中をなめているなぁと思われながら生きている。しかしそう思われる人は、クレイジーをやりきる役割と呑みこんでステージに立ち続ける。

そうしてきっと会ったのだ。かつてほんの一瞬、愛した人の娘に。そしてきっと去っていくのだ。その娘も母親と同じように現実を見て。夢に生きる人を「ちょっとバカなの」と苦笑して。

切ないなぁ。

MCでは勤労感謝の日には特に触れず、映画「ボヘミアン・ラプソディ」になぞらえて「もし、筋肉少女帯を映画化するとしたら」がメインに語られた。もし映画化するなら内田さんの家の火事から話が始まり、その火事で誰かが亡くなり、筋肉少女帯はその火事の犯人を四十年追うことが目的となると大変なフィクションが作られた。加えて、各メンバーの登場シーンの楽しい捏造も語られる。橘高さんは映画の演出を考慮し、時代背景をどのように表現するかまでリアルに考えていたのが実に面白かった。結果、ややアレな話に流れ、オーケンに「墓穴を掘っている」と指摘されるはめになるのだが。

ちなみに内田さんは「ボヘミアン・ラプソディ」を観て数回泣いたらしい。あの内田さんが、と思うと観に行きたくなるね。

楽しいライブだった。普通に楽しいライブだった。それが安心であり、同時に不安でもある。「ザ・シサ」の消化に手間取った人間としてはありがたかったが、「ザ・シサ」がガツンと来た人々にとってはどうなのだろう。そればかりが気になって仕方が無い。

と言うのも詮無いことか。とにかく、楽しく良いライブだった。




毎回のように書いている気がするが、それでも何度も書きたくなるのはライブ会場で目にするたびにひしひしと実感してしまうからだろう。

あぁ、平沢進はこの世に実在するんだ、と。
そして、それをリアルタイムで観られる喜びを。

「回=回」東京公演の二日間に参戦し、のっけから喜びで心が爆発して、その瞬間だけは胸の中に溜め込まれていた様々な日常の不安や悩みが霧散し、その代わりとばかりに注入され充填されたのは感動と興奮で、固く手を握り締め、ずっと聴きたかった、でも聴けないと思っていた、今のヒラサワの声による「いまわし電話」に涙が流れそうになった。

だって、核P-MODELのライブで、今この平成が終わろうとする世で、「いまわし電話」が聴けるなんて誰が想像できるだろう。全くできなかった。予想も期待もしていなかった。だから嬉しかった。

白髪のヒラサワから奏でられる伸びやかな歌声をただただ全身に浴びる一時間半とその二日間。時折水を飲む以外は休むことなくステージに立ち続けるエネルギーと、オーディエンスを楽しませようとする様々な演出。今回はヒラサワの代名詞とも言える楽器レーザーハープの登場はなかったが、それを思い出させたのはライブが終わってしばらく経ってのことだった。それ以上に印象的だったのはあの「ギター嫌い」を強調するヒラサワがずっとエメラルドグリーンのギターを抱えていたこと。「幽霊飛行機」で両脇の会人と共に揃いの赤いギターを抱え、膝を折り首を振るコミカルな動きを挟みながら演奏する様を見て、誰が彼の人がギター嫌いと信じられるだろうか! と思わずにはいられない。無論、己も信じていない。

核P-MODELのライブの感想で恐縮だが、一日目は「いまわし電話」「Zebra」、二日目は「2D or not 2D」「OH!MAMA」に興奮せざるを得なかった。特に二日目は一曲目が「2D or not 2D」で、でかでかとステージ上のスクリーンに映し出されたあの懐かしの情緒あるCGを目にした瞬間の興奮は忘れられない。あぁ、この曲を聴けるのか! 今のヒラサワの歌声で聴けるのか、歌ってくれるのか! と!

「Zebra」の伸びやかな声はいつまでも聴いていたい美しさで、「OH!MAMA」はこれまた予想していない一曲だっただけに咽喉から悲鳴が搾り出されてしまった。ヒラサワのアルバムでは「LIVEの方法」が死ぬほど好きで、これを何度も何度も繰り返し聴いている身としてはたまらないものがある。あぁ、こうなると、いつか、「ATOM-SIBERIA」を聴きたいと欲を出してしまう。そして、いつか聴けるのではないかと希望を持ってしまう。

ありがとう、ヒラサワ。

「回=回」ではギターを横に倒し、まるで銃口を突きつけるかの如くネックをオーディエンスに向け、「遮眼大師」では下手に立つ会人「鶴」が在宅オーディエンス用のカメラを抱えて振り回し、オーディエンスやヒラサワを映し出す。あのカメラも凝っていたなぁ。てっぺんに大きく「回」の文字があしらってあって、カメラというよりも銃器か何かのような迫力があった。

そう、今回のライブではヒラサワを挟んで両脇に白会人の「鶴」と「松」がいた。鳥の頭を彷彿とさせるデザインの人物で、ヒラサワ曰く第9曼荼羅の会人とは中身が違うそうだ。ということで、会人は合計四人いる。しかしヒラサワの数には敵わないとうそぶくあたりが面白い。自らそれをネタにしてくるのか。

話が逸れたが、この会人二人のパフォーマンスがコミカルで実に良かった。己は一日目は下手側、二日目は中央寄りの上手側に立っていて、ステージ全景が見渡しやすかったのは一日目、ヒラサワだけをひたすら凝視しやすかったのは二日目だった。故に、会人の動きは一日目の方が印象に残っている。主に鶴。嘴をくいっくいっと動かすかわいらしい動きに、「それ行け! Halycon」で熱狂のキーボードソロを奏で終わると思うか否か、もとの立ち位置に戻り「あぁ~」とばかりに何かを後悔するかのように頭を抱える仕草。そうそう、会人二人にはふかふかの座り心地の良さそうな黒い椅子が用意されていたのも印象的だった。そこに座り、会人二人はタッチパネルのような楽器を奏で、立ち上がってはギターを爪弾き、カメラを抱え、キーボードを弾き、大忙しに動き回っていた。それでいて、忙しさを感じさせない動きが実にキュートだった。

二日目の「それ行け! Halycon」は特別だった。なんと、ギターソロを奏でる以外はほとんど中央の立ち位置から動かない平沢が、棒状のカメラを掲げ、頭上で振り回しながらゆったりとステージを上手から下手へ、下手から上手へと歩き回ったのである! 考えてみるとただステージを移動しているだけとも言えるのに、飼い慣らされたオーディエンスは大興奮で、己も日常では出したことのないような声を出し、拳を振り上げ、ぐるんぐるんカメラを回しながら歩きながら歌うヒラサワを凝視した。

ちなみにアンコールのMCでこれがカメラであるとヒラサワから説明を受けるまであれが何かわかっていなかったため、己は本当にただの棒をヒラサワが振り回していると思っていた。ヒラサワ曰く、今後使う人が増えそうなので今のうちに使ってしまえ、とのことである。振り回すカメラが映すのはヒラサワだそうだ。どんな映像が撮られているか興味深い。

新曲もかつての曲もたっぷり聴けて最高の二日間だった。核P-MODELとしてはまだアルバムが三枚しか出ていないためにまだまだ新人と名乗るヒラサワのおかしさったら。大混雑するドリンク列を抜け、ビールで咽喉をうるおしながらせっせとスタンド花から花を引き抜く人々を見て思う。あぁ、これから日常へ帰るのか。ZEPP 東京の頭上には巨大観覧車が非日常の光景を訴えかけてきているが、これから己は電車に乗って日常へと帰る。それでも、このひとときを、ヒラサワという非日常の存在を間近で観られた喜びを胸に、しばらく夢見心地を味わえそうで、それを反芻しながら生きていきたいと思う。

本当に楽しい二日間だった。




2018年11月11日(日) 緑茶カウント:0杯

筋肉少女帯の新譜を聴いて、こんなにも辛く、悲しく、感情が揺さぶられたのは初めてだった。そして思い出したのは、前作「Future!」を聴いて大きなショックを受けた人達がいたこと。そのショックの由縁を未だ己は知り得ないが、「ザ・シサ」にショックを受けている自分自身に対しては、その理由を紐解くことができている。

かつて、こんなにも愛や恋に駆られる人々が熱心に描かれ、愛や恋がポイントとして語られることがあっただろうか。いや、無い。だからショックだったのだ。「きらめき」の「愛など存在はしない、この恋もどうせ終わるさ」という歌詞に、愛は万能ではなく日常の一つであると感じ取って安心感を抱いていた故に。だから悲しかったのだ。恋愛に対してどこかシニカルな態度を見せてきた筋肉少女帯が、恋愛を至上のものとして描いたことが。

よって、この「ザ・シサ」というアルバムは己にとって難解で、理解したくても理解できないものだった。そして同時に苦しかった。恋愛の本質は理解できなくても、その人が嬉しそうなら嬉しい、悲しそうなら悲しいと理解して生きてきて、それで何とかなっていたのに、本質に共感できないことを突きつけられてしまったような気がして。

苦しかった。どうかどうか愛や恋を語らない曲が出てきてくれとざわざわしながら歌詞カードをめくり、「セレブレーションの視差」で、ここでも激しい恋がポイントとして描かれてたときの絶望感。歌詞を辿りながら、これならわかるかな、近づけるかな、と思いきや。

……遠かった。

聴き終わった直後は呆然として軽く吐き気すら感じた。びっくりするほど、わからなかった。難解だった。そして、ごく普通に世の中に溶け込んで暮らしていたつもりが、このアルバムによって見事に化けの皮が剥がされた心地がした。

何故今、愛や恋に駆られている人々が密に描かれているのだろう? 好きすぎて人を殺す人もいるだろうが、別の理由で殺す場合もいくらでもあるだろうに、何故好きすぎて人を殺した人が描かれているのだろう? どうして、こんなに愛や愛する人々が重視されているのだろう? 考えれば考えるほどわからなく、寂しく、悲しかった。頭がぐらぐらした。前作「Future!」の「告白」という一曲に救いを感じた人間だけに。

だが、「告白」をきっかけに「ザ・シサ」を自分なりに解釈することができた。よってここから先の文章は「告白」で言うところの「夢見る人間モドキ」による「ザ・シサ」の視差である。きっと他の人々にはまた別の感想、別の視差があるだろう。一つの視差として、ご覧いただきたい。

「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」というシリアスな問いに似つかわしくない、明るくポップな曲。この曲を最初聴いたとき、愛が殺人の理由として描かれることに違和感を抱いたが、聴き続けるうちにふと気付いた。

この黒いスーツを買いに行く男は、「告白」の男なのではなかろうか、と。

夢見る人間モドキである男は、誰も愛しておらず、愛の意味もわからない。ただ愛情とは永遠のものらしいとぼんやり理解している。そして彼は悲しい場面でも共感や同情ができない、ただ空気を読んで嘘の涙を流す配慮はある。

「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」と「人を殺しちゃいけないのはなぜか?」は同じようで意味合いが全く異なる問いだ。前者には「人を殺してはいけない」という前提条件がなく、殺人そのものに疑問を呈している。対して後者は「人を殺してはいけない」という前提条件がありつつ、そのうえでその理由に迫っている。

そう、この男は「人を殺してはいけない」とは特に思っていないのだ。そんな折、友達の女の子が恋人を殺してしまった。自分はピンと来ないが、世間的には人を殺してはいけないとされている。じゃあ、どうして彼女は殺してしまったのだろうか?

そうして考えて至った結論が「愛しすぎたから」。彼は愛の本質を理解できないまでも、愛は永遠であり、至上のものと語られていることは知っている。だから、愛がそれほどすごいものなら、愛しすぎた結果殺してしまったに違いないと考え、愛のための殺人なら許されるに違いないと思い、ちゃんとした服を買って証人として立ったのである。

このとき彼は「感傷的」と言われたが、きっと感傷になぞ全く浸っていなかったに違いない。「同情はしないけどくやしいな」という言葉には、夢見る人間モドキとしての愛がわからないからこそのあっけらかんとした憧れが見える。店員との会話でさらっと友人が彼氏を殺したことを語り、普通の人を装って「ダメっすよね」と語るも店員はきっと引きつった笑みを浮かべていただろう。そして極めつけの台詞は「人が殺されるとめんどくさい」。葬式に行く必要があるということは、殺された男も友人か知人だろうに、そこに対しての感傷はなくただただ黒いスーツを買いに行くことに対して面倒臭さを感じているだけなのだ。

恐らく、思う。彼女の殺人は愛が原因ではなかったのではないか。単に夢見る人間モドキの男がそう解釈しただけで、本当の理由は別のところにあったのではないか。

そんな彼が彼女に宛てた手紙には何が書かれているだろう。「君のことがうらやましいと思いました」と無邪気に綴られているかもしれない。

そして「夢見る人間モドキ」の視点に立って眺めてみれば、「ザ・シサ」は恋愛をポイントとして「人間」が描かれているアルバムと言えるだろう。必死で歌い叫び身代わりを立てようとするも、娘が恋に堕ちてしまったせいで逃げられてしまい、覚悟を決めて歌い続ける男、片想いのために地球を二度も滅亡させる男、妻と死別する老いた男、帰って来た美女の暴露に怯える男、そして一つのバンドのボーカルに恋をした母娘の物語。

「夢見る人間モドキ」にとって理解できない象徴のような一曲が「衝撃のアウトサイダー・アート」だ。これは自分自身、何度聴いても何も理解できない。唯一感じ取れるのは曲調が格好良いということだけで、びっくりするほど共感のしようがなく、何が描かれているのかもよくわからない。クレイジーな美って何だ……? いったいそれが、だからどうした……?

恐らく己は一生、この曲を感覚として捉えることはできないのだろう。

もう一つ、物語としては理解できるが感覚としてわからないのが「マリリン・モンロー・リターンズ」。そうか、ふむ、そんなに怖いのか……? と思いつつ、いまいちピンと来ない。同時に興味を覚える。この曲に芯からゾッとする人の存在に。

「ネクスト・ジェネレーション」は初めてライブで聴いたときには「若いファンに手を出すのはやめなさい!」と曲中のバンドマンに対して思ったものだが、重ねて聴くにつれ切なさの方が勝るようになった。

「ライブだけが人生で、他はみんな夢なんだ」と付き合っていたバンドマンが語る言葉を聞いて、呆れて捨ててしまったと母親は娘に語る。確かに、交際を続けている中で言われてしまえば冷めてしまうのも無理はない。

だがこの言葉は、ステージで叫ばれていた頃には、「彼氏」ではなく「ステージ上のボーカリスト」が発する言葉であったなら、きっと胸をときめかせるものだったに違いないのだ。

バンドマンである男は恐らく何も変わっていない。ただ、関係性の変化により見え方が変わってしまったのだ。そして、同じことが娘にも起こることが示唆されている。今付き合っていて、仲良しで、いい人で、でもバカ。この言葉が出てきてしまった時点で彼女にとってバンドマンはもうステージ上の存在ではなく、現実の視点から捉える存在になってしまっているのだ。

ライブだけを人生にステージに立ち続けるも、ファンと付き合うたびに現実を見せてしまい、別れを告げられる男のもの悲しさ。この女の子もかつてと同じように夢を語る彼に愛想をつかせ、異なる対象に心を燃え上がらせたとき、ずっと夢中になっていたバンドが、まるで別の人々とすっかり入れ替わってしまったような、そんな感覚を抱くかもしれない。

と、真面目に語りつつ、女の子の年齢が気になる。せめて高校生、できたら大学生であって欲しい。でも何となく中学生の可能性もあってざわざわする。頼むからお茶おごって映画連れてく程度のお付き合いであってほしい。頼む! 頼む!!

といった形で己にとって「ザ・シサ」は全体的に心がざわざわするアルバムなのだが、そんな中で「ゾンビリバー」「オカルト」「ケンジのズンドコ節」は癒しである。ありがたい。「ゾンビリバー」の「流れていったあの娘はひととき好きだった かまうな他にもきっと出会うさ」という歌詞には「そうそう、これこれ! これだよ!」と妙に安心してしまった。

「オカルト」は恋愛云々と言うよりも、個人の欲望を優先させて地球を滅亡させた物語なのでわかりやすかった。それにしても「献杯!」という言葉を歌詞に突っ込んでくる悪意よ。「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」の「人が殺されるとめんどくさい」もそうだが、じわっと滲む悪意が恐ろしいアルバムである。

「ケンヂのズンドコ節」は、まさか「猫のテブクロ再現ライブ」で語られた「悪陰謀」「いい陰謀」が今になって歌詞に描かれるとは思わず驚いた。ストレートな説教くささもありつつ天使の描写が実にダークでゾッとする。オーケンの描く天使はどうしてどいつもこいつも恐ろしいのか。声もあいまって非常に怖い。

インストゥルメンタルの「セレブレーション」から続く二曲目は「I,頭屋」。頭屋とは神社の祭礼や講に際し、神事や行事を主催する役に当たった人や家のことで、輪番制だったそうである。その頭屋に自身をなぞらえ、これが自身の役割であり運命であると言い切る。描かれる描写にはロックバンドのボーカリストとして歌い続ける疲れが見え、同時にそれでも歌い続ける覚悟が感じられ、オーケンにとっての筋肉少女帯の価値と、筋肉少女帯で歌い続ける自分自身への叱咤激励が読み取れる。見方を変えれば生け贄であり、人身御供であり、道化だが、「役割」であり「運命」である視差を選び取る力強さ。

オーケンはよく、自分がこうしてロックバンドのボーカルをしていることを不思議に思うと語る。それは、ロックバンドのボーカリストとして生き続けることへの不安もあるのかもしれない。そのうえで歌い続けると叫ぶ覚悟の先には何があるだろう。夢見る人間モドキとして「ザ・シサ」を楽しみながら、次はどこへ転がっていくのか期待したい。

怖さを抱きつつ、同時に楽しみだ。どこまでも必ず、見届けよう。



筋肉少女帯「Future!」感想