新大久保駅から歩いてしばらく行ったところにあるこじんまりとしたライブホール。去年も訪れたにも関わらず道に自信がなく、地図を片手に雨の中よちよちと歩いた。

赤くやわらかな椅子に腰を下ろし、ゆったりと開演を待ちながら、しばしうつらうつらと舟を漕いだ。去年の日記を読み返したところ、当時も己はこの会場でまどろんでいたらしい。夏の暑さから急激に寒くなり、ちょうど体が疲れるタイミングなのかもしれない。

会場の照明が落とされて生まれる期待感のこもったざわめきを耳にしながら瞼を開ける。ステージにぼうと光が灯り、夢から夢へと移動するかのような不思議な感覚を得た。そして程なくして現れたのはギターの澄田さん、キーボードの扇さん、そして本日の主役・ボーカルの水戸さんこと、水戸華之介である。

「猛き風にのせて」から始まり、新譜「知恵ノ輪」の一曲「イヌサルキジ」へ。「イヌイヌイヌイヌ!」「サルサルサルサル!」と拳を振り上げるのが楽しい。毎度のことながら、水戸さんのアコースティックライブはアコースティックという概念を覆す熱量が凄まじい。どんな会場であれ汗だくで跳ね、飛び、歌う水戸さんは芯からロックボーカリストなのだ。

「イヌサルキジ」は桃太郎のお供である三匹の動物に対し、良い気になっているようだがお前らなんか本当は大した存在じゃないくせに、と苦言を呈す曲である。さて、ではこの動物達に厳しい言葉を投げつけているのは誰だろう? 己は鬼ではないかと思う。桃太郎が来るまでは鬼も畜生も似たような存在だったはずなのに、桃太郎に黍団子をもらった途端、あたかも自分は立派な存在ですよ、と言わんばかりに正義面をしやがって、本当は俺らと大差ないくせに! と怒る鬼の歌ではなかろうか。

三曲目は「抱きしめる手」。「手!」とパッと手のひらを開いて腕を挙げるとき、自然と笑顔になってしまう。「ヨイヤサコラサ」の後はアンジーの「サカナ」で、明るく気楽な曲調から一転して暗い海の底のような雰囲気に。この緩急がたまらない。

しっとりどんよりしてしまった観客に、そこまで落ち込まなくてもと笑う水戸さん。そしてまたここで空気が変わる! 「腹々時計」のダッダッダーッ! という明るいイントロでわっと沸き立つ観客。何度か出し惜しみをする水戸さんと、歓声を上げるオーディエンスのやりとりを経て、熱く歌う水戸さんの声の迫力! 熱気がむんむんと伝わってくるようである。

「腹々時計」の後は「涙は空」へ。今日はあいにくの雨模様だったが、「知恵ノ輪」のジャケットのように、美しく晴れ渡った青空をイメージさせる曲が多かった。次の「ドラゴンパレード」もそうである。開いた絵本から明るい色彩が広がり、そのまま空を染め上げていくような。やさしく、軽やかで明るい歌だ。

歌詞を読めば決して底抜けに明るい内容ではない。死の近づきを感じさせる曲だ。雨雲を砂漠へ運ぶため、銀色の鱗を落としながら年老いたドラゴンが空を飛ぶ。千羽のヒバリが後を追い、若い天使達がエールを送る。このドラゴンは間もなく死ぬだろう。しかしヒバリと天使に愛されたドラゴンは砂漠に雨が降るのを見届けたらきっと満足して眠るのである。そこに悲しみはなく、あるのは充実した生の終わりだ。その温かさが感じられるからこそ、この曲は明るく軽やかなのである。

ここに来るまで気付かなかったが、己はこの「ドラゴンパレード」を今日一番、聴きたかったのかもしれない。

空つながりでもう一つ。水戸さんが小さな手帳を取り出し、じっと見つめながら人々のあだ名を読み上げていく。それはきっと小学校のクラスメイトや幼馴染のような、そんな幼いあだ名で、そんな彼らが四十代五十代の大人になり、今どんな状況であるかを端的に紹介していく。大工をしている人、教師になった人。子育てを終えた人、多重債務により自己破産をした人、リハビリ中の人、ガンで亡くなった人。そして彼らの名前を読み上げて、続く曲は「青空を見たとき」。

ここで連ねられる名前は恐らく架空の人物である。水戸さんは十五年前からこの曲を歌うときにかつて幼かった人々のあだ名を読み上げるようになったそうだ。だが十五年経ち、自分と観客が歳を重ねたことで手帳の人物の年齢が歌に合わなくなってしまった。そこで十五年ぶりに年齢と近況を更新したそうである。「また十五年経ったら書き直すかもしれないけど、その頃には(手帳の人物は)みんな死んでるかもしれない」と水戸さんは冗談を飛ばして笑っていた。今五十五歳の水戸さん、十五年後ともなれば七十歳だ。深い皺を刻み、指を舐めながらページをめくる水戸さんを観られる未来。きちんと生き残らねば、と思う。

「蝿の王様」の曲中、「可能性はゼロじゃない」に変化し、そこで澄ちゃんによるアコギによるギターソロ、扇さんによるキーボードソロ、そしてカズーで歌い踊る水戸さん!! どこかアダルトな雰囲気漂う妖しい時間の美しさ!! かーっこよかったなぁ!!

水戸さんがステージを下りて客席を練り歩くとき、扇さんもマラカスを掲げて赤いスカートを翻し、水戸さんの後について踊っていたシーンがあり、それがどうにもあでやかで格好良かった。キーボードを弾く力強さも美しい。

アンコール一曲目は、以前にも水戸さんのライブで聴いた覚えがあるものの曲名がわからないもの。「アモーレ!」と叫ぶ水戸さんのお気に入りの曲だそうで、水戸さんは今日この曲を歌いたくて歌いたくて、早くこの曲の時間になって欲しい! と願っていたそうだ。どなたか、タイトルをご存知だったら教えてほしい。

「ひそやかに熱く」は水戸さんによるストレートな応援歌だ。これも頭上に広がる青空を連想させる。水戸さんの伸びやかな歌声をこれでもかと堪能できて気持ちが良い。何度も書いていることだが、本当に水戸さんの歌声は素晴らしい。素敵だ。たまらない。

ダブルアンコール、最後の一曲は明るく「雑草ワンダーランド」。そうだ、これも青空の歌だ。夏の高い湿度、草いきれ、直撃する太陽光。アメニモマケズ、祝福せよ。あぁ、水戸さんに強烈な太陽光の、夏の日差しの祝福がありますように、と心から願う。水戸さんの歌がもっと多くの人に届いてほしい。そう願わずにはいられない。

そうそう。アンコールのときだっただろうか。澄ちゃんがハンドスピナーを得意げに回しながらステージに現れて、その様子が実にキュートだった。機材車移動をしている最中、どこかのインターチェンジか道の駅で五百円で購入したものだそうで、ストレスの溜まりやすい機材車の中でハンドスピナーは小さな癒しになったらしく、シュルシュル回る様子を見ているうちに水戸さんも欲しくなったそうだ。次回見かけたら俺は千五百円のやつを買ってやる! と意気込んでいた。

そしてダブルアンコール終了後、澄ちゃんはハンドスピナーを回しながらステージを去って行った。楽しそうで実に良いな、と思った。




2017年10月17日(火) 緑茶カウント:4杯

好きなものについて徒然なるままに語り書き記すことを愛してはいるが、好きなものを人に勧めようとはあまり思わない。何故ならそれは、自己を基準に考えればさほど意味のない行為であるためだ。勧められる側に立って考えてみれば、「これはとても素敵なので一度見てほしい!」と頼まれたところで、それはあくまでも勧める側の好みでしかなく、勧められる側のことを考えての行為ではないからだ。

故に、相手方に興味を持ってもらうためには、相手方の好みを把握したうえで、その人が本当に喜んでくれるものを勧めるべきである。そうでなければただの好みの押し付けでしかない。

しかしその好みの押し付けを、したくてしたくてたまらなくなっている。

筋肉少女帯の新譜「Future!」に収録される一曲、「エニグマ」のミュージックビデオが本日公開された。それはわかりやすいコンピューターグラフィックスによる装飾もなければ、愛嬌のようなお笑い要素もない。ボーカル、ベーシスト、リードギタリスト、リズムギタリスト、ピアニスト、ドラマーの六名がスタジオに集い、演奏する様を収めただけのもの。彩度を落とし、黒と白を基調としたシンプルかつシックな色調と暗号のような歌詞に、変調を繰り返すプログレッシブ・ロック。積み重ねた技術と迫力が呪文のように渦巻く怪しさ漂うビデオである。

あぁ、叶うことならこのミュージックビデオのURLをQRコードに変換し、厚紙に刷って名刺代わりに誰彼ともなく配り歩きたい。これが己の愛するバンドの素晴らしい曲であると触れて回りたい! それが出来ないからここで、せめてここで。

プログレッシブ・ロックが好きな人。変わった音楽が好きな人。呪文のような歌詞に魅力を感じる人、筋肉少女帯をかつて聴いたことのある人、大槻ケンヂの本が好きな人へ。駆け巡る暗号を脳髄に浴びる夜はいかが? 困惑するも一興、心奪われるのも一興。どう転ぶかは、君次第。






2017年10月15日(日) 緑茶カウント:0杯

どうしたら常備菜を習慣化できるか、と人に問われることがある。己は休みの日に主食を一品、主菜を一品から三品、副菜を三品から五品作り、それを日々食べ続け、たまに惣菜を買い足したり外食をしたり、おかずを追加で作ったりしながら日々を過ごしている。昼食と夕食は基本的に作り置きで、作り置きにかかる時間は二時間から三時間ほど。調理中はライブDVDやアニメを流しっぱなしにして、時間経過を感じつつ楽しみながら作っている。参考にしているのは何冊かの料理本と、つくおきというサイトのレシピだ。

では、常備菜を習慣化するコツは何か。それは調理の手間を短縮する努力でもレシピを覚える記憶力でもなければ、料理の腕でもないと己は思う。要となるのは一つ、「毎日同じものを食べ続けても飽きない性質」である。

母は料理にことさら気を遣ってくれていた人で、毎日主菜副菜色とりどりの品々が食卓に並んでいた。煮物やキンピラ、カレーは二日続けて出てくることもあったが、トンカツは翌日カツの卵とじに姿を変え、一手間加えた品として出てきていた。三日目の煮物は万が一傷んでいたら良くないとって、子供に食べさせないよう注意を払っていた。

このような家庭で育ち、思い返してみても誠にありがたいなぁと思うものの、良いか悪いかわからぬが自分自身はわりと毎日同じものを食べることに頓着しない人間になった。なるべく日々変化が出るよう品数を揃えるも、毎日三品ずつにして日々の食事の種類を変えるのではなく、毎日七品同じものを食べ続ける方に行ってしまいがちなのである。何なのだろう。種類を食べたいのだろうか。

というわけで、朝昼夜で食べるものを変えているとはいえ、朝は一年三百六十五日毎日同じもの、昼は一週間同じもの、夜も一週間同じもの、といった有様で、たまにそこに外食や惣菜が食い込んできて彩りが変わる程度である。しかしどうしたことか、飽きない。毎日同じものを食べても平気である。

もしかしたらそれは、「今日は何を食べよう」と考えることが自分にとって、楽しみではなく面倒くさいことだからかもしれない。

美味しいものを食べる喜びよりも、食事のたびに考えなければならない面倒くささが勝ってしまう。美味しいものは好きだが、美味しいものを食べるために大きな労力は使いたくない。新しい店を探すのも面倒だし、毎日外食を続けるのも嫌だ。何より自分が作るものは、食材も味も自分好みでできている。無難なのだ、とにもかくにも。

故に二時間から三時間台所に立っていてもさほど苦痛ではなく、習慣として続けられるのだろう。決め手は食事への興味のなさと、毎日同じものを食べ続けても気にしない性質。これが常備菜を続けるコツである。……何て言ったら乱暴だろうか。




2017年10月12日(木) 緑茶カウント:0杯

強い苦味と腐敗臭があって非常にまずいが、
脚の付け根のわずかな筋肉には、
わずかに、甲殻類系の風味が感じられる。

わずかに。

平沢進のライブを観に行ったとき、ライブホールの外でカサカサと地を這う虫を見た。灰色ががっていて触角が長く、体長は五センチほど。はてあれはもしやフナムシかな、海も近いし、と思ったものの家に帰ったときはライブの興奮で虫のことなんぞすっかり忘れていた。そうして数日経ってからそういやあれはフナムシだったのだろうかと気になりだし、カタカタとキーボードを叩いてポンと検索。一番上に表示されたウィキペディアのフナムシのページをクリックすれば、確かにあの虫はフナムシに間違いないようだ。なるほどなるほど、と読み進めると書いてあったフナムシの味。強い苦味と腐敗臭があって非常にまずいが、脚の付け根のわずかな筋肉には、わずかに甲殻類系の風味が感じられる。

しばしこの短い文章に見入った。強い苦味があるうえ腐敗臭までして、非常にまずいとまで言い切っているのに、それでも尚わずかなおいしさを追い求めるこの姿勢。フナムシの脚の付け根の筋肉なんてそりゃあもうわずかなものだろう。しかもようやく「風味」であって、旨味があるとまではいかない。しかしこのフナムシを味わった人は、そのわずかな部位から、ほんのわずかに甲殻類の風味を感じ取り、「これだ!」と記録したのである。こんな、気持ち悪いと厭忌され、嫌がられるフナムシの良いところを見つけたぞ! と万歳をする姿が目に浮かぶようである。きっとこの人はこのわずかな甲殻類の風味を感じ取ったとき、とても嬉しかったに違いない。

おめでとう、見知らぬ人よ。おめでとう、フナムシ。フナムシもきっと自分の脚の付け根のわずかな筋肉にそんな美点があろうとは思いも寄らぬことだろう。良かったねフナムシ。おめでとう、フナムシ。強い苦味があって腐敗臭がして非常にまずいけど良かったねフナムシ。強く生きろよ、フナムシ。




2017年10月10日(火) 緑茶カウント:0杯

友人以外の人間からたまに、「独身は気楽で良いよね。呑み会に行くのも自由だし、趣味に金を使うのも自由で、配偶者や子供に気を遣うこともなく、全て自分の思うままだろう」といったことを言われることがある。そういったとき、つい「その代わり、家族を持つ喜びは得ていないですよ」と言ってしまいそうになるが、つい言いたくなるがそれは正しいことではない。その返答はきっと相手方を満足させるもの、あるいは納得させるものであろうが、己は独身の気楽さや趣味を楽しむ代償として、家族を持つ喜びを手放しているわけではないのである。

たまたま自分は新しく家族を築き上げたいとは思わなかった。子供を欲しいとも思わない。むしろ配偶者を持ち、子供を作る道を選べば自分の性質上間違いなく不幸になることが見えている。故にその道を選んでいないだけで、その道に進みたいと切望したことなぞ無いのである。

よって正しい返答は、「そうですね。まぁそれなりに苦労もありますが、日々なかなか楽しいですよ」で、そこに気後れをする必要はない。好きなことをして、好きな生き方をできている。自分はなかなか幸福で、そこに負い目を感じる必要はない。

ただ、どなたかが今の幸福と引換えに失うものがあるのなら、それに対して慮ることは致しましょう。その方と己は別の生き方をしているが、別に敵でも何でもない。別の道を歩みつつ、たまに道が交差するとよろしいね。その際にはどうぞ仲良くしましょう。たったそれだけのことなのである。

しかししつこい人間に関しては交差した瞬間に言葉でぶん殴る。君の満足のために卑屈になる気はないのだよ。ははは、と腹に抱えて。腹に抱えて。