日記録0杯, 日常, 筋肉少女帯

再結成後、バンドを歌った曲が増えたなぁと感じたのは確か「蔦からまるQの惑星」が発売されたときで、その三年後「中2病の神ドロシー」を聴いて、オーケンにどんな心境の変化があったのだろうと改めて思わされたことを思い出す。

「新人バンドのテーマ」「ツアーファイナル」「アウェーインザライフ」「アデイインザライフ」、そして「中2病の神ドロシー」。再結成後だけで五曲もあるのに、対して凍結前はと言うと、強いて挙げるなら「ノゾミのなくならない世界」、筋肉少女帯の名前が出てくるのは「ベティー・ブルーって呼んでよね」。恐らくこの程度である。「サーチライト」はバンドというよりオーケン自身だ。ところが再結成後は、新しくアルバムがリリースされると必ずバンドを歌った曲が一つは収録されている。凍結前にリリースされたアルバム数から鑑みても、これは多いと言えるだろう。

「アウェーインザライフ」を除いて、共通して歌われているのはバンドとファンとの関係性だ。そして面白いのが、バンドとファンの関係性を描くと同時に、ファンの目を通すことで「筋肉少女帯」というバンドが客観視されて歌われていることである。

どうして再結成後のオーケンは、「筋肉少女帯」というバンドを考える詩を書くのか。それはつまり、今のオーケンの関心が「筋肉少女帯というバンド」にあるからだと思われる。

書籍「筋肉少女帯自伝」で、凍結中に「大槻さんは、昔、筋肉少女帯というバンドにいたんですか?」という手紙を新しいファンからもらい、このままではいけないな、と筋少に対して思い始めたというエピソードがある。そして同書に、「バンドはメンバーの手を離れて独立し、ブランド化していく」と書き、別の場所では「そのブランドを大切しなければならない」とも語っている。

また、注目したいのが、オーケンがMCばかり取り上げられることを本意ではないと言っていること。これはこの間のライブのMCでも話していた。フェスに出ても、ライブレポートではMCばかりが取り上げられて、それが筋少のイメージを偏らせる原因になっている、という内容のことを話し、だから今回のライブはDVDになるけど、MGは全部カットする! と繋げていた。半分は冗談だが、半分は本気だろう。

筋少の魅力は、オーケンの歌う歌詞世界とその歌声、バラエティ豊かな曲群に、確かな演奏力、そして腹の底から笑い転げるMCにある。これら全てが筋少の魅力だ。だが、人は語りやすいところを語るもので、するとより伝えやすい「おもしろMC」ばかりが取り上げられてしまう。

このことに危機感とまではいかないまでも、残念な思いを抱くようになったのは、それだけオーケンが「音楽」に関心を寄せているからだろう。これは前から思っていたが、オーケンが弾き語りを始めてから、メンバーをリスペクトする発言が増えてきた。無論昔からオーケンは「自分は音楽の素養が無い」と言い切っていて、その自覚があり、また、メンバーの技術力の高さも知っていたが、自身が楽器を始めたことで、そのすごさを改めて思い知らされたのだろう。同時に、そんなメンバーと一緒にやれることに感謝の念を抱いているように見える。だからこそ、MCばかりでなく、もっと曲に注目して欲しい、本当は筋少はこんなにすごいバンドなんだから、と思っているのではないだろうか。

もしかしたら「タレント・大槻ケンヂ」が注目されすぎてしまったことに負い目があるのかもしれない。自分の周りにも、筋肉少女帯がどんなバンドかよくわからないながらも、大槻ケンヂのやってる何か変なバンド、という認識を持っている人は少なくない。だが、色物的な見方をされこそすれ、バンドの名前を世に知らしめた功績は大きいと自分は思う。

閑話休題。

バンドを復活させることで向き合うことを余儀なくされ、その対話が歌になる。そしてバンドとファンの一期一会の出会いへの感謝を歌い、歌いながら今の筋少というバンドを見つめ、メンバーと一緒にライブをやれることに感謝し、より多くの人に筋少の音楽を聴いてもらいたいという気持ちを抱く。今のオーケンはきっと、筋少というバンドをすごく大事に思っているのだろう。そんな思いが溢れた結果が、バンドを歌った曲であり、MCばかり取り上げられたくないという発言であり、メンバーへの素直なリスペクトなのだろう、と感じた。

日記録0杯, 日常

洗濯機を二回まわすとすげー働いたーという気分になる、単純な人間でございます。

まだ今のところエアコンをつけずに済んでいるものの、今朝は暑さで目が覚めて予定より二時間早く起きることに。しかしおかげで溜まった洗濯物を解消することが出来たので結果オーライである。ライブTシャツも気持ちよく乾かすことが出来た。

整体に行ったら筋肉痛を起こしているふくらはぎを入念に揉まれた。施術後、一週間の食材の買出しを終えて帰宅し、夕方は昨日の余韻に浸りつつ布団の上でだらだらと過ごした。あのエディの衣装のくだりは面白かったな、オーケン本当にたじたじになってたな。最近歌詞間違えどころか歌詞がぶっとぶことが多いけど大丈夫かな。サンフランシスコはいくらなんでもちょっと練習した方が良いんじゃないかな。孤島の鬼は格好良かったなぁ。あの静まり返った後、オーケンの一声で一気に最大出力で爆発する感じ。二回目あたりのMCは長かったなぁ、すごく面白かったけど、あれは流石にちょっとはカットされるかな。

そして夕方、差し込む夕日の熱さにやられてまた目を覚ます。布団でゴロゴロしていたらいつの間にやら眠ってしまっていたようだ。まぁ、起きたからにはと日曜日のお約束、保存食作りに勤しみ、ついでに簡単な夕飯をこしらえ、溢れる生活感を噛み締めながら、先にある「ハレ」の日々を思い、またしばらく頑張るか、と思うのだった。

日記録0杯, 日常

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我が家のユージーとユーシーは栄養の取り合いこそなかったものの、これ以上は成長出来なかったらしい。あれからずっとこのままだ。
もうちょっと厚く切ってやりゃあ良かったかな。

日記録0杯, 日常

「すごくいいよ、おすすめ。絶対あなたも気に入ると思う」このように本や音楽など、何らかの作品を勧める人にはどうやら二種類いるようで、一つは対象の趣味趣向をある程度知ったうえで、好みのタイプを類推してそれに合ったものを勧める人。そして二つ目は、とにかくこの作品は素晴らしいから、きっと誰でも気に入ってくれるに違いないと絶大なる自信を持って勧める人である。

断っても食い下がるのは後者の方だ。また、後者の勧め方をする人は、あくまでも主観になるが、メジャーなものが好きな人に多いようだ。人気と知名度が高く、周囲に好きな人もたくさんいて、多くの人に認められていると、きっと誰もが好きになるに違いない、と思ってしまうらしいのだ。

若干マイナー志向のある自分からすれば相手の好みも知らずにいきなり自分の好きなものを勧めるなど、暴挙以外の何物でもなく、また、好きなものを否定されること、否定まではされなくても知らないと言われることに慣れているため、これが好き、と話すことはあってもそれを人に勧めることはまずしない。勧めるのはよっぽど相手が興味を持ってくれたときか、もしくは相手の趣味趣向を鑑みて、きっと好きになるに違いないと確信が持てるときだけだ。

そのうえで勧めた結果、「あまり好みじゃなかった」という答えが返ってきたとしても腹が立つことは無い。好き嫌いは各人の好みであって作品の評価には通じない。ところが「好き嫌い」の感想を告げるだけで気分を害す人がいる。それもまた、「言われ慣れていない」人に多いようだ。

もしかしたら「皆が好きな大人気作品」という評価に傷をつけられたように感じるのかもしれない。ただ自分が今言えるのは、何と言われようと興味の無いものには興味が無いんだから理解してくれよ、と言うことと、勧めるからにはそれに対する感想を受け止める覚悟くらいはしてくれよ、と言うことだ。大丈夫だよ、自分一人がイマイチと言ったって、そんな一人など霞んでしまうくらい多くの人に愛されているなら問題無いじゃないか。自信を持ちたまえよ。しかしその人はただただ「ありがとう、すごく良かったよ!!」という答えだけを求めているのだ。

総括、うっとい。

日記録0杯, 日常

窓を開ければ涼しい風が吹き込むが、布団に寝そべると自身の体温で布団が熱せられ、あっちにゴロゴロこっちにゴロゴロ、うーん逃げても逃げても暑苦しい。そして少しでも暑さを回避すべく、保冷剤で首や背中を冷やしながら寝ることを試みたが、保冷剤がでかすぎてもうどこに置いてもゴロゴロして痛いし邪魔だし落ち着かないしで、何でまた弁当箱みたいなサイズの保冷剤を己はチョイスしてしまったのだ、と後悔しつつも今更起き上がるのも面倒でゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。くわあ、邪魔。

そんな夜を過ごしました。