日記録0杯, 日常,

2016年3月18日(金) 緑茶カウント:0杯

食べることは好きである。忙しい時分にはなかなか難しいが、時間のあるときは台所に立って、ちまちまとおかずを揃えて小鉢を並べ、ゆったりと食事を楽しむこともある。白米、汁物、お浸し、煮物、メインの何か、などなどを箸でつまんで満ち足りた気分に浸る幸せ。とはいえそんな食事を毎日用意するのは不可能である。しかしなるべく自炊をしたいという気持ちもあるので、休みの日におかずを作り置きするのが習慣化している。一時期はキヌアにはまっていた。あれはなかなか便利である。

このように、食事に対してそれなりのこだわりはあるのだが、あくまでもそれはそれなりに過ぎず、別の側面から見ると己は食事に対して無頓着な人間である。何故なら、ずっと同じものばかりを食べていても飽きないし、特に不満がないからである。

そして、新規開拓をしない。もっと言うと食べたことのないものをあまり食べたいと思わない。美味しいと知っているものだけをひたすら食べ続けたい。そんな平坦な人間である。

よって、一週間ずっと食べ慣れたものを食べ続け、次の一週間はまた別の食べ慣れたものを食べ続け、と実に変化のない食生活を送っている。一応、三日続けてほうれん草のお浸しを食べたら、四日目はオムレツにしたり、スープにしたりと変化をつけることもあるのだが、だいたい同じである。我ながら栄養が偏りそうだなぁと思っている。

こんな食事をしているのに、自炊をしているというただそれだけの理由で、料理が好きで食事が好きで食べることに興味津々と思い込んでいる人がいて、一年くらいかけてその誤解を解こうとしているのだが未だ解けず、横文字のアクセントの未知なる料理屋に誘われるたびに断る日々を送っている。今日食べたのは、米の上にキャベツの千切りを敷き詰めた豚の生姜焼き丼と、ほうれん草と卵のスープ。食べ慣れた味である。美味しかった。



日記録0杯, 日常

2016年2月28日(日) 緑茶カウント:0杯

己はわりと、自分の好きなものを隠さない。興味のない人にしつこく語らないよう気をつけてはいるものの、好きなものは好きと宣言しまくっている。故に親しい友人は己の好きなものをよくよく知ってくれていて、そのためか、たまに思いもがけないプレゼントをくれるのである。

あるときは、水木しげるロードに遊びに出かけた友人が、わざわざ現地から己に電話を寄越してくれた。たまたま寄ったが、ウヲが好きだったことを思い出したから、と言ってくれ、欲しいものがあったら買ってくるよというありがたいお言葉。そうして後日、我が家に水木しげるグッズがたっぷり詰まった箱詰めが届いたのである。

またあるとき。衛星放送で筋肉少女帯のライブが放映されたとき。我が家は衛星放送が映らないので観られなかったのが、友人が「録画したけど、観る?」と声をかけてくれた。ちなみに友人は筋少ファンではない。己が筋少ファンであることを思い出して、わざわざ録画してくれたのである。

またあるときに届いた誕生日プレゼント。開けてみるとゲゲゲの鬼太郎のフィギュア。びっくりした。

ありがたいなぁ、と思う。自分の好きなものを覚えていてくれるのみならず、わざわざ連絡をしてくれるって、たまらないなぁ。その親切に己は応えられているのだろうか。応えられるようにしなければなぁ、と思いつつ、自分がありがたい状況にいることを実感するのである。運が良いと思う。このように、優しい人と親切な人に囲まれていることは。

では、自分がその優しさと親切に返せているかと言うとやはりわからないので、その友人達に負けないようにしたいなぁ、と思うのである。嬉しいからこそ。嬉しいからこそ。嬉しいからね。だからこそね。



日記録0杯, 日常

2016年2月13日(土) 緑茶カウント:0杯

サイト開設当時から置いているカウンターが、ついに八万をカウントした。わーい嬉しい。一時期は日に一人二人しか訪れず、自分以外の誰が見てんだこのサイト、と思いつつも日記書くの楽しいなーとポチポチ更新していた。まぁ詮無いことである。スマートフォン利用者が増えたにも関わらず、全くスマートフォンに対応していないサイトだったのだから。つまり、パソコンでしか見られなかったのである。見られないんじゃあ見に来る人が訪れるわけもない。当然だ。

ところで。本日びっくりしたのだが、今の若い人は「カウンター」を知らないらしい。SNSの普及につれ、絵や文を発表するのに個人サイトを作る必要が無くなった故だろう。ということは、掲示板やキリ番といった単語とも無縁なのだろうか、と考えるとやや寂しいが、時代の流れなのだろうなぁ。

このサイトの左下にひっそり配置しているカウンターは、もう十年以上前に設置したものだ。いったいどれだけ正確にカウントしてくれているのかわからないが、たまに確認して、あぁ回っている、と思うとやはり嬉しくなるのである。

十万まであと少し。嬉しいな。



未分類0杯, 初参戦, 特撮, 筋肉少女帯, 非日常

大槻ケンヂ生誕祭、ということで初めて参戦した特撮のライブ。ゲストは筋肉少女帯。冒頭のMCで、五十歳を迎えたことにより五十歳欝になってしまったオーケンに、五十歳も良いものだな、と思わせることが今回のライブの主題であると語られた。チケットはソールドアウト。会場は燃え上がり、エディからはオーケンへの感謝の言葉が贈られ、橘高さんは五十本の薔薇の花束を抱えて登場。アンコールではオーケンの顔写真がプリントされたバースデーチョコレートケーキが運ばれ、オーディエンスを含め、皆で記念写真を撮った。生誕祭にふさわしい、素敵なライブであった。

でも、自分はちょっと物足りなかったんだ。そうして、自分はやっぱり、ヒビワレメイクを施した大槻ケンヂが一番好きだということをつくづく実感したのである。

恐らく時機が悪かったのだ。己が筋少を知ったとき、既に筋少は凍結されていた。ライブを観てみたい、新曲を聴きたいと思いつつ叶わない状況にある中で特撮を知り、特撮を筋少の代替として手に取ってしまったのだ。それは特撮に対しても筋少に対しても失礼な行為であったと思う。何枚かのアルバムを聴いて、とても好きになった曲もあった。だが、どれも筋少とは全く違うもので、そのことに寂しさを感じていた。

筋少と特撮が全く違うのは当たり前のことである。演奏者が違って、作曲者が違って同じものが出来上がったら個性が無いのと同じことだ。だから自分が特撮を「違う」と感じたのは、同じボーカル・作詞者大槻ケンヂがいたとしても、メンバーによってその色が大きく変わる証拠に他ならない。また、それだけ違う色を「大槻ケンヂ」は彩ることが出来るのだ。だからこそ、二つのバンドがある意味がある。

それをよくよくわかっているのだが。始まりがそれだったので、未だに己は特撮を上手く受け取れない。今日のライブで聴けた曲。「5年後の世界」ならぬ「50歳の世界」、「文豪ボースカ」「ヌイグルマー」「林檎もぎれビーム!」「ヤンガリー」「バーバレラ」「綿いっぱいの愛を!」。やったー聴けた! ついに生で聴けた! 「文豪ボースカ」って、ライブだと後半が「何故だ何故だ何故だボースカ!」の繰り返しで終わるんだ、格好良い! うわー「バーバレラ」! 大好きなんだよこの曲、寂しくて切なくてやるせなくって! カラオケで何度も歌ったよ! 「林檎もぎれビーム!」たまらない! うわーマ太郎の声懐かしいなぁ! 「あいつらにだ!!!!」って皆で揃って叫ぶのは何て爽快なんだろう! 「ヤンガリー」ってこんなに格好良い曲だったんだなぁ……! って、感動したのだが、後半でゲストの筋肉少女帯が現れた瞬間、欲しいものはここにあった! と感じてしまったのである。

特撮と筋少の違いを見比べるのは面白かった。特撮のメンバーは定位置からあまり移動しない。まぁ、メンバー四人のうち、ドラマーとピアニストは楽器が固定されているので動きようが無いから当然の結果かもしれない。そんな中でたまにエディがマイクを片手にステージ中央にやってきてくれたりするとたまらなく嬉しくなる。そうだ! エディが上手前方にいたことに、最初驚いたんだ! これだってよくよく考えたら当たり前のことだろうになぁ。

「愛のプリズン」が格好良い曲になっていたことにびっくりした。あれ? 何の違和感もなく格好良いってどうなんだろう……と困惑もした。曲中、オーケンが腰をぐるぐる回していたのだが、それが父が毎朝やる腰痛体操そっくりだった。

五十歳になってからオーケンは夜中に足がつるようになったそうで、今までスルーしていた薬局の看板に反応するようになったそうだ。披露されたエピソードにわははと笑いつつ、足がつるようになっても、こうしてステージに立ってくれていることがとても嬉しいと思った。

五十歳を迎えたオーケンは、二十代の頃の自分が一番綺麗だったと冗談まじりに語る。確かに二十代のオーケンは美しかった。長い髪に、シュッとした輪郭。どこか危うげなところがあって、そこがまた綺麗だなぁと過去の写真を見るにつけ思った。でも自分がオーケンを知ったときには既にスキンヘッドであり、初めてライブで見たときにはプロピアモヒカンをつけていた。それが最高に格好良かったし、今の白髪のオーケンも最高に格好良い。でも、やっぱりヒビが入っている姿が一番好きなんだな、と思いつつ。まっさらな顔のオーケンを眺め、色々な顔を持って活動出来ている現在を喜び、そうして祝福したのである。自分はきっと特撮には夢中になれない人間だが、オーケンの中に特撮という要素はいつまでも輝かしくあって欲しい。ソロと電車と筋少と空手バカボンと、その他数々の色々なものを抱きながら活動を続けて行って欲しい。きっとそれが、オーケンがオーケンらしく、生き生きと活動できる術であるのだから。と実感したのであった。



日記録0杯, 日常

2016年1月23日(土) 緑茶カウント:0杯

恥ずかしながら、己は苦手な食べ物が多い。

子供の頃は野菜全般が食べられたので、あまり好き嫌いが多いという印象を抱かれなかった。ニンジンもピーマンもセロリもパセリも食べられた。だが、子供の頃から生魚と貝類が苦手だった。食べられなくもないが、食べても美味しく感じられないのである。特にエビは大嫌いだ。だからなるべく食べたくなかった。

ところが大人になると、子供時代にはあまり縁が無かったものも皿に乗せられるようになった。それが己は苦手だった。それはレバーやモツと言った内臓系の食べ物であった。食べたことはある。だが、だめだった。美味しく感じられなかったし、何より受け入れられなかったのだ。頭が。好んで食べる人を拒絶する気持ちこそ無いものの、自分自身は受け入れられなかったのだ。

そして大人になった今。己は食べ物の好き嫌いの多い人間として認識されるようになった。食べたくないものは生魚、生肉、海や川に住む魚以外の生物、内臓、動物の舌。結構ある。わりと結構ある。特に動物系の生臭いにおいが苦手らしい。内臓を食べるイメージに負けるらしい。口の中に動物の舌があるという状況に耐えられないらしい。そこには恐怖もあるのかもしれない。どうしても美味しく食べられなかった。

そんな中。今日の新年会の会場で。平等に取り分けてもらった海鮮サラダの皿。己の取り分の一枚の皿。野菜だけ食べて、刺身には手をつけられず、持て余してぬるくなっていたマグロと何かの白身魚。食べられなくもないが食べたくない。そんな思いで逡巡していた結果、できてしまったぬるい刺身を、隣に座る友人がにこにこしながら食べてくれた。「刺身苦手なんだっけ? 食べていい?」と言って。

海鮮サラダは宴会の序盤に運ばれてきていて、己は長いこと持て余していた。その三切れの刺身を。とっくにぬるくなっている刺身をその人はにこにこしながら食べてくれた。きっと、絶対、もっと早い段階の方が美味しかったに決まっているのに、美味しかった時期を過ぎてしまっているのに食べてくれた。

感動。

感動と共に生まれたのは、取り分けてもらう前に、己は刺身が苦手であることを告白すべきであったという後悔で、同時に、いやしかしそれを言ってしまっては、海鮮サラダを注文した人が気を遣うもしくは悪いことをしたと悔やむかもしれないということで。だけど、良いのだよ! 海鮮サラダを注文しても! 己が勝手に苦手なだけなんだから! と思いつつ、自分が海鮮サラダを注文する人の立場であったなら注文しづらいよなと考えて。とするとこのタイミングでぬるい刺身を食べてくれた友人はベストな判断を下してくれたのではないかと類推して。己は牛タンの隣に添えられたマッシュポテトを舐めつつ、ただただありがたいなと思っていたのであった。嬉しい。